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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第24話 置き去りのスマホ

 図書室へ戻る廊下は、妙に長く感じた。


 非常階段の冷えた空気が、まだ服の内側に残っている。レンは端末を握ったまま、足早に歩いていた。


 頭の中では、さっき聞いた情報がまだ整理しきれずに残っている。


 雛という名前。


 志藤という教師。


 口を奪う怪異。


 そして、ミカゲ。


 忘れようがない名前だった。忘れていい名前ではない、と言った方が近い。あの名前が出てくるだけで、事件の温度が一段変わる。学校の怪談や、教師ひとりの異常性だけで済む話ではなくなる。


 だが、それを今すぐ紗希にどう伝えるべきかは、まだ決められていなかった。


 彼女は鋭い。


 余計な言葉を与えれば、必要以上に奥まで覗き込む。だからこそ、情報を渡すなら順番を選ぶ必要がある。


「……まったく、厄介な子だよ」


 小さくぼやいて、レンは図書室の前で足を止めた。


 扉は閉まりきっていなかった。


 細く開いた隙間から、紙と古い木の匂いが漏れている。さっきまでと同じ、閉館間際の図書室の匂い。


 けれど、そこにほんの少しだけ、別のものが混じっていた。


 鉄の匂い。


 レンの指が、扉の縁に触れたまま止まる。


 中は静かだった。


 ただ静かなだけではない。利用者が帰った後の静けさとも違う。誰かが息を潜めているような、あるいは、息をすること自体を忘れたような静けさだった。


「紗希ちゃん?」


 声を抑えて呼ぶ。


 返事はない。


 レンは扉を押し開けた。


 夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。机の列、本棚の影、検索端末の薄い明かり。閉館前の図書室に残っていたはずの、ページをめくる音はもうなかった。


 誰もいない。


 カウンターも空いている。司書の姿もない。奥の資料室の方から、台車の車輪が遠く軋む音だけが、一度だけかすかに聞こえた。


 閉館作業で席を外している。


 そう判断するのに、一秒もいらなかった。


 だが、それ以上に目を引いたものがあった。


 紗希が座っていた席だけが、乱れている。


 椅子が半端に引かれていた。倒れてはいない。けれど、誰かが急に立ち上がったか、あるいは強く引かれたように、机との距離が不自然に開いている。


 机の上には、開いたままのメモ帳。


 ペンは床に落ちていた。机の脚にぶつかったのか、少し離れた場所で止まっている。


 レンは一歩、席へ近づいた。


 メモ帳には、紗希の字が残っている。走り書きだ。きれいではないが、焦っていたにしては妙に冷静な線だった。


 ――ひな=娘の名?


 ――本人ではない?


 ――そう呼んでいるだけ。


 その下に、強く書き足された一文がある。


 ――ニセモノ。


「……そこまで見たか」


 レンは小さく呟いた。


 紗希は、やはり踏み込みすぎている。


 そう思った直後、本棚の方に視線が吸われた。


 棚の一列が、わずかに歪んでいた。倒れてはいない。だが、背表紙の並びが不自然に崩れている。数冊の本が床に落ち、開いたページを下にして潰れていた。


 誰かが、強くぶつかった。


 そう見るのが自然だった。


 レンは本棚の前まで歩く。


 床に膝をつき、落ちた本の横を確認する。棚の角に、細い赤がついていた。


 多くはない。


 けれど、見間違える量でもなかった。


 血だ。


 レンの呼吸が、一瞬だけ止まる。


 すぐに視線が床を走った。


 机の下。


 椅子の脚の影。


 本棚の隙間。


 さっき渡した小型の護身用ナイフを探す。


 紗希が血を流したなら、あれを抜いたのか。使ったのか。床に落としたのか。そう考えるより先に、目が勝手に探していた。


 ない。


 血の近くにも、机の下にも、落ちた本の影にもない。


 レンは唇を引き結んだ。


 ナイフを持ったまま消えたのか。


 あるいは、ナイフごと何かに巻き込まれたのか。


 どちらにしても、彼女が普通に席を立ったという可能性は薄くなる。


 さらに、机の下に黒いものが見えた。


 スマホだった。


 画面を下にして落ちている。レンが拾い上げる前に、自分の端末を操作した。短いメッセージを送る。


 ――どこにいる?


 送信。


 次の瞬間、すぐ近くで通知音が鳴った。


 机の下に落ちたスマホが、震えている。


 レンはそれを拾い上げた。


 画面には、今送ったばかりの自分のメッセージが表示されている。既読はつかない。持ち主だけが、ここにいない。


「……最悪だね」


 声は、思ったより低く出た。


 メモ帳は開いたまま。


 ペンは床。


 スマホも置き去り。


 本棚には衝突の痕。


 血はある。


 けれど、紗希だけがいない。


 レンはスマホを机に置き、もう一度、図書室全体を見渡した。


 夕方の光に照らされた本棚が、黙って並んでいる。検索端末の画面は薄く光り、カウンターの奥では誰も動かない。遠くの台車の音も、今は止んでいた。


 人の気配はない。


 だが、人がいないから安全なのではない。


 人がいない隙に、何かが起きた。


 そういう空白だけが、この場に残されている。


 レンはゆっくりと息を吐いた。


 自分で出ていったわけじゃない。


 それだけは、もう確かだった。

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