第23話 そして彼女はいなくなるか
――その時だった。
近くに置かれていたレコーダーの赤いランプが、ひとりでに明滅した。
志藤の肩が跳ねる。
「……なんだ」
触っていない。
再生もしていない。
なのに、古い機械が喉を鳴らすみたいに、小さくノイズを吐く。
ざ、と乾いた砂を擦るような音。
それに混じって、誰かの息の端だけが、極端に近い場所で再生された。
『……ひ』
志藤が息を呑む。
それは、名前になりきらない音だった。
“ひな”の最初の一拍だけが、喉を切り取られたみたいに短く鳴って、またノイズへ沈む。
志藤はレコーダーへ手を伸ばしかけて、止める。
その迷いのあいだに、今度は本棚のガラス戸へ、黒い影がひどく薄く滲んだ。
液体ではない。
むしろ、現像途中の写真みたいだった。
白く乾いた図書室の光の中に、平たい輪郭だけが浮く。
まず見えたのは口だ。唇の線だけが異様にはっきりしている。その上に、あとから頬の輪郭が生まれかける。鼻筋が浮き、額が滲み、だが目元だけは真っ黒なままだった。絵の具で乱暴に塗り潰したみたいな、モザイクじみた黒。
志藤は、ただ見ていた。
それが何か分からない。
分からないのに、目を逸らせない。
「……なんだ、これは」
呟いた声は掠れていた。
ガラス戸だけじゃない。
端末の黒い画面。
本棚の艶のある背板。
少し離れた掲示用のアクリル板。
反射を持つものの表面に、同じような“肖像”が、ひどく薄く、次々に立ち上がり始める。
どれも女生徒の顔だった。
見覚えのある顔もある。
美和。
昨日の標的だった生徒。
あるいは、名前を覚えていないだけで進路指導室へ呼んだ子たち。
姿は生き写しだ。
口元が動けば、声も本人のものとして再生される。
なのに、どの肖像も目元だけが黒く塗り潰されている。
歌うように口を開く。
喋る。
息を漏らす。
だが、その“顔”たちには、視線がない。
志藤の額に汗が浮く。
レコーダーのノイズが、また一段高くなる。
その瞬間、志藤の右目の奥に、針みたいな痛みが走った。
「っ……」
片目を押さえる。
視界がぶれた。
ほんの一瞬だけ、ガラスへ映った自分の顔の中で、瞳の奥に青白いものが巻いた気がした。
細い線が、深いところでとぐろを巻いているような、見間違いみたいな光だった。
だが志藤は、それを自分の目だとは認識しない。
頭を打ったわけでもないのに、気分が悪い。
血圧が一気に下がったみたいに、視界の端だけが白くなる。痛みと吐き気と焦りで、そんなものを細かく見ている余裕はなかった。
「落ち着け……」
自分に言い聞かせる。
けれど、何をどう落ち着ければいいのか、自分でも分からない。
目元を黒く塗り潰された肖像たちは、次々に本棚のあいだへ並んでいく。
まるで最初からそこに展示されていたみたいに、額縁の輪郭だけが整っていく。図書室の一角が、ひどく静かな美術館へずれていく感覚だった。
その中心、いちばん奥。
まだ何もなかったはずの場所に、一枚だけ、別の肖像が立ち上がり始める。
他の肖像と違う。
輪郭は少女だ。
だが、目元ではなく、口だけが真っ黒に塗り潰されていた。
喋らない。
声もない。
ただ、そこに“ひな”と題名をつけられた作品みたいに、静かに置かれている。
志藤の喉が震えた。
「……見えてる」
それが恐怖なのか、安堵なのか、自分でも分からない。
だが、その一枚を見た瞬間、さっきまで床に転がっていた紗希の身体を“失った”という感覚だけが、少しだけ遠のいた。
レコーダーのノイズが、また短く鳴る。
その音に合わせるみたいに、床に転がった紗希の輪郭が、ほんの少しだけ薄くなる。
沈む、というより、平面へ引かれていく感じだった。
服の皺。
髪。
血の赤。
その全部が、床から持ち上がるのではなく、別の面へ“移される”みたいに揺らぐ。
志藤は、見ていることしかできなかった。
止める理由も、もう思いつかない。
むしろ止めてはいけないとすら思い始めている。
「そうだ、君が悪いんだ。君が……」
紗希の指先が、わずかに動いた。
けれどそれも、すぐに平面の中へ引かれていく。
手を伸ばして助けを求める動きにはならない。
むしろ、古い写真の中でたまたま残ってしまった“生前の癖”が、最後に一瞬だけ再生されたみたいだった。
「……来ます、よ」
声がした。
紗希の声だった。
だが、床から聞こえたのか、ガラス戸の中から聞こえたのか、もう志藤には分からない。
最奥に置かれた“ひな”の肖像だけは、変わらず無言だった。
少女の姿をしている。
けれど、そこだけ口が真っ黒に塗り潰されている。喋れない。笑えない。歌えない。他の肖像たちが本人の声を再生するたびに、その一枚だけが、ますます「名前だけを与えられた保存物」に見えた。
志藤の額から汗が落ちる。
紗希の輪郭は、もう半分以上、床の上から剥がれかけていた。
沈むのではない。
引き込まれるのでもない。
額縁の中へ似合うように、配置し直されていく。
頬の角度。
閉じかけた目。
髪の流れ。
血の赤でさえ、汚れではなく絵の具みたいに“収まりのいい場所”を見つけ始めていた。
「そうだ……」
志藤の唇が、勝手に動く。
誰に言っているのか、自分でも分からない。
紗希へか。
自分へか。
それとも、この静かすぎる展示室へか。
その言葉に応じるみたいに、端末の画面が一瞬だけ明滅した。
紗希の肩の線が、そこで完全に床の面から切り離される。
次の瞬間には、床の上に残っているのは、血の痕と、ずれたメモ帳と、転がったペンだけだった。
姿が、ない。
だが志藤には、それが喪失には見えなかった。
展示室の中心。
まだ完成しきっていない新しい一枚の手前に、紗希の気配がある。見えるというほどはっきりした像ではない。けれど、確かに“そこへ移された”と感じられるだけの何かがあった。
目元を黒く塗られた肖像たちのあいだで、その気配だけが新しく、まだ安定せず揺れている。
やがて、図書室の異常は、ひどく静かな形へ落ち着いていった。
騒がしいものは何もない。
爆ぜる音も、叫びも、光もない。
ただ、そこにいたはずの人間の輪郭だけが、ゆっくりと世界から剥がれ落ちたあとの、薄い空白が残っている。
床には、メモ帳がずれたまま落ちていた。
ペンも、その少し先に転がっている。
そして、本棚の縁に頭を打ちつけたあたりには、赤が残っている。
多くはない。
だが、少ないからこそ妙に生々しい。拭えば消えそうで、拭ったところで消えきらなさそうな、嫌な種類の量だった。
志藤はその場に立ち尽くしていた。
膝がまだ笑っている。
呼吸も浅い。
胸の内側では鼓動が暴れているのに、周囲だけが不自然なくらい静かだった。
メモ帳へ手を伸ばす。
指先が触れる直前で、止まる。
開いたページには、さっきの走り書きがまだ残っていた。
進路指導室。
鏡。
声。
志藤→怪異?
そして、あの一行。
ひな=娘の名=ニセモノ
志藤の手が引く。
「……ちがう」
何に対して言ったのか、自分でも分からない。
メモにか。
紗希にか。
それとも、自分の方にか。
今のそれは、読めば読むほど、自分の中の何かを崩す。閉じれば済む話なのに、閉じることすらできない。
代わりに、床の血へ目を落とす。
しゃがみ込む。
袖で拭おうとして、途中でやめる。にじむ。余計に広がるかもしれない。そう思った瞬間、指先の力が抜けた。
ペンを拾い上げかけて、落とす。
からり、と乾いた音が鳴った。
その音だけで、志藤の肩が跳ねる。
「落ち着け……」
自分へ言い聞かせる。
だが、声は落ち着いていない。今ここで整えなければならないのは分かっているのに、身体の方がまるで言うことを聞かなかった。
本棚のガラスへ目をやる。
目元を黒く塗り潰された肖像たちは、もう大きくは動かない。静かに並んでいる。美和。最初の被害者。声だけを持つ保存物たち。その奥で、新しい気配だけが、まだ薄く揺れていた。
志藤は、それを見て、ようやく少しだけ呼吸を整える。
「終わってない」
言い聞かせるように呟く。
言葉はまだ頼りない。
だが、完全に崩れ切る寸前の人間が、自分の足場にしがみつくには十分だった。
その時。
廊下の向こうで、かすかな足音がした。
硬い床を踏む、人の足音。
一つ。
二つ。
こちらへ近づいてくる。
志藤の全身が強張る。
反射的に、メモ帳を閉じようとして、うまくいかない。
ペンを蹴る。
本棚の陰へ半歩、いや一歩、身を引く。
完全には離れられなかった。
この場から去るべきだと分かっているのに、去れない。
自分が留めたはずのものを、そのまま置いて離れることが、どうしてもできない。
だから志藤は、本棚の陰で息を殺した。
図書室は、また普通の顔へ戻っている。
反射面の異常は薄まり、展示の気配も、外から見ればただのガラスの鈍い照り返しにしか見えないだろう。
だが、床にはまだ痕跡がある。
ずれたメモ帳。
落ちたペン。
そして、少量の血。
紗希だけが、いない。
それは神隠しのようだった。
ついさっきまでそこにいたはずの誰かが、気配だけを残して抜け落ちたみたいに。
足音が、さらに近づく。
志藤は、息を止めた。




