第1話 反射の中の少女
学校の裏手へ回る帰り道は、表の通学路よりもずっと静かだった。
正門前の明るい道から外れると、空気の温度まで少し下がったように感じる。校舎の側面に沿って細い舗道が伸び、その片側には夜の窓列、もう片側には低い塀と植え込み、古びたフェンスが続いていた。
駐輪場の屋根は闇の中に沈み、等間隔の街灯だけが、道をぶつ切りみたいに照らしている。
人通りはほとんどない。
自販機の白い明かりがひとつ、道の途中で妙に浮いていた。昼間なら何でもないその光が、夜になると、周囲だけ少し現実から切り離されたみたいに見える。
女子生徒は制服の袖口を指先でいじりながら、その道を一人で歩いていた。
特別遅い時間ではない。
けれど、学校を背にした瞬間から、どうにも落ち着かない感じが続いていた。背中がむず痒い。誰かに見られているような、気のせいで片づけるには少しだけ生々しい違和感だった。
足を止める。
振り返る。
誰もいない。
校舎の窓は黒く、植え込みは風もないのにじっと息を潜めている。フェンスの向こうには、使われなくなった器具庫の影が沈んでいた。
いるわけがない。
そう思って、女子生徒は小さく息を吐く。
「……やだな」
独り言は、自分を安心させるには少し弱かった。
歩き出す。
数歩進んだところで、自販機の脇にできた水たまりへ、視線が落ちた。
そこに、人影が映っていた。
思わず息を呑む。
自分の後ろ。
少し離れた場所に、誰かが立っている。
小柄な、人影。
髪の長い、少女のような輪郭だった。
女子生徒は反射的に振り返った。
だが、そこには何もない。
「っ……」
喉の奥で、声になりきらない息が引っかかる。
もう一度、水たまりを見る。
今度は何も映っていない。ただ街灯の色が滲んで揺れているだけだ。
気のせい。
疲れてるだけ。
そう思おうとして、足を速める。
そのとき、今度は校舎の窓に映った。
黒いガラスの中、こちらを向いて立っている。
さっきと同じ、小さな人影。
制服姿の女子生徒にも見える。夜の窓に薄く貼りついたみたいに、じっとこちらを見ている。
女子生徒の背筋に、冷たいものが走った。
また振り返る。
やはり誰もいない。
なのに、窓の中のそれだけが、そこにいる。
しかも今度は、さっきより少し近い。
女子生徒はもう、走る一歩手前の速さで歩き始めていた。靴音が乾いた舗道に細かく響く。
視界の端で、自販機の側面が白く光る。
嫌な予感がした。
それでも、見てしまった。
銀色の側面に、少女が映っていた。
今度ははっきりと。
すぐ後ろ、とまではいかない。だが、もう“遠く”ではない。顔の細部こそまだ見えないのに、近づいてきていることだけは嫌というほど分かる距離だった。
女子生徒の呼吸が浅くなる。
足は止めたくない。
それでも、首だけが勝手に後ろを向いた。
いない。
街灯の明かりに切り取られた道だけが、空っぽのまま続いている。
ついてきている。
姿は見えないくせに、反射の中にだけいる。
女子生徒は半歩よろめいた。
喉の奥が熱い。嫌な汗が背中を伝う。
校舎脇の細長い窓に映った少女の輪郭が、ふっと揺らいだ。
最初は光の加減だと思った。
だが違う。
輪郭そのものが崩れている。髪と肩の境目が曖昧で、顔の下半分だけが妙に濃い。口元だけが、そこに貼りついているみたいに見えた。
女子生徒は息を止める。
少女はまだ、少女の形をしていた。
けれど、その“少女らしさ”が、外側から無理やり作られているみたいに歪んでいる。
そしてまた一歩、近づいていた。
――ここにいたら駄目だ。
校門の明るい方へ走るか、人のいる通りまで出るか、とにかくこの細い道から離れなきゃいけない。
なのに、足がすぐには動かなかった。
背中を向けた瞬間に、本当にすぐ後ろへ来られる気がした。追いつかれる、というより、見失ったら終わる。そんな理屈の通らない確信が、肩のあたりにへばりついて離れない。
校舎脇の細長い窓に映った少女は、もうはっきりとこちらを向いていた。
白い。
夜のガラスの中で、不自然なくらい白く浮いている。
遠目には、遅くまで学校に残っていた生徒が一人、窓辺に立っているようにも見えた。
けれど、顔の下半分だけが違う。
口元が、濃すぎる。
そこだけ別のものを貼りつけたみたいに、妙に輪郭が鮮明だった。しかも、じっと見ていると、一つではない。唇の線が、薄く重なっている。
「……や、だ……」
声を出したつもりだった。
だが、耳に届いたのは、掠れた息みたいな音だけだった。
女子生徒は喉を押さえる。
乾いているわけじゃない。痛いわけでもない。
なのに、言葉になる前の場所だけが、内側から撫でられているみたいに気持ちが悪かった。
窓の中の少女が、また少し近づく。
女子生徒は耐えきれず、踵を返した。
走る。
鞄が肩にぶつかる。ローファーの底が夜の舗道を荒く叩く。まっすぐ前だけを見て、人のいるところまで行けばいい。明るい方へ。表通りへ。校門へ。
だが、数歩も進まないうちに、左手のガラス窓にそいつが並んだ。
窓の中の少女も、こちらと同じ速さで走っている。
「ひ……っ」
悲鳴を上げようとした。
肺いっぱいに息を吸う。
喉がひりつく。
口を開く。
――声にならない。
ひゅ、と、情けない空気だけが漏れた。
その瞬間、放課後に聞いた噂が、頭の奥で勝手に蘇った。
口を奪う幽霊が出る。
誰かが笑いながら話していた、馬鹿みたいな噂。
けれど今は、笑えなかった。
もう一度。
今度こそ。
だが、喉はそれ以上開かなかった。声帯が閉じたというより、言葉の出口そのものがどこかへずらされてしまったみたいに、声が出る位置が見つからない。
呼べない。
助けて、が出ない。
その瞬間、前方の水たまりに映った少女が、初めてはっきりと笑った。
笑った、ように見えた。
ただし、その顔で動いたのは一つの口じゃない。
貼り合わされた幾枚もの唇が、半拍ずつずれて開いて、閉じて、噛み合わないまま“笑顔らしい形”だけを作っていた。
女子生徒は足をもつれさせ、その場で止まった。
走ろうとしても、膝から力が抜けていく。
目の前の暗がりから、ようやく実体が滲み出してくる。
そこにいたのは、少女の形をした何かだった。
制服に似た影をまとい、細い手足を持ち、髪を揺らしている。
けれど近づくほど、その形は保っていられなくなる。頬はところどころ薄く、喉元は黒く透け、口元だけが異様に重い。
顔を作っているのが、骨でも皮膚でもなく、誰かの“口にされたもの”の寄せ集めなのだと、本能の方が先に理解してしまう。
それは、女子生徒の目の前で、すっと首を傾げた。
子供が、相手の顔を覗き込むみたいな仕草だった。
あまりにも自然で、だからこそ、ひどく気味が悪い。
女子生徒は後ずさろうとして、踵を取られた。
背中がフェンスに当たる。
冷たい金属音が鳴る。
少女の形をした怪異が、一歩だけ前へ出る。
女子生徒は、もう一度だけ、必死に息を吸った。
せめて誰かに気づいてもらえるくらいの声を。
そう思った瞬間、喉の奥で、何かがひゅっと細く縮むのが分かった。
悲鳴はまた、空気の漏れる音にしかならなかった。
代わりに、目の前の怪異が、彼女の声で息を吸った。




