プロローグ3:黒を喰う男、住み込みになる
その夜の傷は、消えなかった。
正確に言えば、塞がりはした。
熱も引いた。血も止まった。診療所の医者は、動脈には届いていない、傷自体は浅い、数日もすれば落ち着くだろうと説明した。父はひどく慌てていたが、紗希はベッドの上でそれを聞きながら、どこか他人事みたいに頷いていた。
けれど、傷跡は残った。
首筋の、少し横。
頸動脈の脈が指先に触れるあたりに、二つの小さな痕がある。噛まれた跡、と言えばそれまでだ。けれど、その周囲には薄く黒ずんだ影のようなものが残っていて、鏡を見るたびに、あの夜の冷たさが皮膚の下から戻ってくる。
助けられた跡ではない。
“喰われた”跡。
紗希は、そう認識していた。
その認識が、ひどく正しいものに思えた。
だから退院してからも、彼女は首元を隠すようになった。絆創膏。包帯。襟の高い服。理由を聞かれれば、転んだとか、点滴の時にかぶれたとか、適当なことを言った。
誰も深くは聞かなかった。
黒が見えない人間にとって、それはただの傷だった。
けれど、紗希にとっては違う。
その傷は、常盤恭介が自分の中の黒を喰った証拠だった。
そして同時に、自分を苦しめてきたものを殺せる存在が、確かにこの世にいるという証拠でもあった。
診療所の夜のあと、恭介は紗希の周囲に現れるようになった。
待ち伏せ、というほどはっきりしたものではない。
学校帰りの道の向こう。
〈灯〉の裏手。
商店街の角。
雨上がりの路地。
餌場を覚えた野良猫や、電線に留まるカラスみたいに、気づけば少し離れた場所にいる。
怖くなかったわけではない。
最初は、視線を感じるたびに首元の傷が熱を持った。
あの夜の歯を思い出した。
けれど、恭介が現れたあとには、決まって黒の気配が薄くなる。
理由は、何となく分かっていた。
紗希の周りには、黒が寄る。
診療所の夜に点滴の中へ入り込んできたものと同じような気配が、形を持つ前の影として、ときどき視界の端に滲む。
見ないようにしても、名前をつけないようにしても、黒はなぜか紗希の周囲へ集まってくる。
恭介は、それを嗅ぎつけて来る。
助けに来るのではない。
喰いに来るのだ。
だから、紗希の近くに恭介が現れることは、ある意味で自然だった。
会話らしい会話は、まだほとんどない。
黒が滲む。
恭介が来る。
喰う。
何も説明せずに帰る。
それが何度か続いただけだった。
当然、喫茶店〈灯〉の店主である父とも、恭介は何度か顔を合わせることになった。
父は、黒のことを何も言わなかった。
渦眼のことも、あの夜の病室で何が起きたのかも、紗希には一度も聞いてこない。
だから紗希は、父には何も見えていないのだと思っていた。
少なくとも、父はそういう顔をしていた。
ただ、娘の近くに時々現れる、口と目つきの悪い青年がいる。
父が表向きに扱ったのは、それだけだった。
感じは悪い。
態度も悪い。
店の前で立っていると、だいたい通行人に避けられる。
けれど、不思議と害はなさそうに見えたのだろう。
いや、父はそういうことにしたのかもしれない。
紗希の体調が崩れた時ほど、恭介は近くにいる。
黒の気配が薄れる頃には、何事もなかったみたいに姿を消している。
父に見えているのは、少なくとも表向きには、その結果だけだった。
結果として、父の中で恭介は「感じの悪い、けれど娘に害はなさそうな兄ちゃん」くらいの雑な位置に収まったらしい。
そしてある日、退院の礼だとか、困った時は連絡しろだとか、そんな曖昧な理由で、紗希の番号を書いた紙を恭介へ渡していた。
後でそれを聞いた紗希は、少しだけ頭を抱えた。
数日後。
雨上がりの湿り気がまだ街に残る午後、喫茶店〈灯〉は開店前の静けさに沈んでいた。
アパートの一階にある小さな店。
橙色の照明はまだ落とされていて、窓の外の光だけがカウンターの端を薄く照らしている。軒先からは、ときどき水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと、一定しない間隔で。
店内には客がいない。
父は奥の部屋にいる。店主という肩書きだけは持っているが、実際に店を回しているのはほとんど紗希だった。今も、奥から新聞をめくる音だけが聞こえている。
紗希はカウンターの内側に立っていた。
首元には、薄い白い包帯。
制服ではない。学校帰りではなく、店を開ける前の時間だ。カーディガンの袖を軽くまくり、ポットの湯を確認している。いつも通りの作業。いつも通りの手順。
その向かい。
カウンター席に、常盤恭介が座っていた。
だらしなく椅子へ腰を下ろし、片肘をカウンターにつけている。獣のように乱れた黒髪は、今日は濡れていない。けれど目元には、あの夜と同じ青白さの名残がうっすら残っている。
指先では、火のついていない煙草を転がしていた。
吸うわけではない。
ただ、癖のように持っているだけだ。
「吸わないなら、なんで持ってるんですか」
紗希はその手元をちらりと見る。
「うるせぇな。落ち着くんだよ」
「火はつけないんですね」
「つけたら怒るだろ、お前」
「はい。店内禁煙ですので」
「だったら聞くな」
恭介は不機嫌そうに吐き捨てたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。
紗希は、ポットの蓋を閉める。
湯気が細く立ち上がった。
怖くないわけではない。
今でも、恭介の目を見ると首元が熱を持つ。あの白い歯が皮膚に触れた感覚を思い出す。自分の中から黒い冷たさが引き剥がされていく感覚を、身体が勝手に思い出す。
けれど、それだけではなかった。
この人なら。
あの夜、首筋に歯を立てられる直前に浮かんだ言葉が、まだ消えていない。
この人なら、あるいは。
その先に何が続くのか、紗希はもう分かっていた。
救ってくれる、ではない。
守ってくれる、でもない。
もっと単純で、もっと物騒な期待だ。
この人なら、黒を殺せる。
恭介は煙草を指で転がしたまま、カウンターの上のメニュー表を見ていた。逆さまだった。
「先輩」
「……なんだ」
恭介は視線を上げない。
けれど、聞いている。
紗希はカウンター越しに、少しだけ首を傾げた。
「提案があります」
その一言で、恭介の指が止まった。
火のついていない煙草が、親指と人差し指の間でぴたりと動かなくなる。
ゆっくりと、顔が上がった。
「……提案?」
青白い目が、紗希を見る。
診療所の夜と違って、今は腹を空かせた獣の目ではない。
それでも、紗希の首元の包帯を一瞬だけ見る癖は、もうある。
気づいている。
あの傷が残っていることも。
紗希がそれを隠していることも。
そして、たぶん。
紗希がその傷を、ただ怖がっているだけではないことも。
紗希は、静かに言った。
「はい」
一拍置く。
「私、黒を引き寄せる体質みたいなんです」
紗希がそう言うと、恭介は少しも驚かなかった。
煙草を指先で転がしたまま、短く返す。
「知ってる」
「ですよね」
紗希もまた、驚かなかった。
むしろ、確認が一つ済んだという顔だった。カウンター越しに立ったまま、彼女は首元の包帯へ触れかけて、途中で手を止める。
触る必要はなかった。
そこに傷があることは、もう分かっている。
恭介も、それを知っている。
「このままだと、次は私だけで済まない気がします」
ポットの湯が、かすかに鳴った。
恭介は答えない。
紗希は続ける。
「黒は、私の周りに寄ります。先輩は、それを喰いに来る」
「……」
「なら、仕組みとしては単純ですよね」
紗希は、まるで天気の話でもするみたいな声で言った。
「私が引き寄せる。先輩が喰う」
恭介の指先が止まる。
「そうすれば、被害は最小で済む」
一拍。
「効率いいでしょう?」
沈黙が落ちた。
カウンターの向こうで、紗希は変わらず立っている。笑っているわけではない。真剣に見えるかと言われると、それも少し違う。
ただ、そう判断した。
その結論を、当然のように差し出している。
恭介は、しばらく彼女を見ていた。
「……お前」
低い声だった。
「そんなに好戦的な奴だとは思ってなかった」
「好戦的、ですか?」
紗希は首を傾げる。
本当に、少しだけ不思議そうだった。
その反応を見て、恭介の眉間に皺が寄る。
「黒を“まとめて処理する”って考え方も」
火のついていない煙草が、恭介の指の間でゆっくり回る。
「俺みてぇなのを“使う前提”なのも」
青白い目が、紗希を見る。
「どっちも、普通の考え方じゃねぇぞ」
「そうですか?」
間。
「その方が合理的だと思ったんですが」
迷いはなかった。
紗希の声には、助けられた少女の湿っぽさも、命を救われた相手への依存もなかった。むしろ逆だ。
目の前にいる危険物の性質を見て、用途を考え、配置しようとしている。
恭介は、口元をほんの少し歪めた。
笑った、というより、呆れたような顔だった。
「お前、俺のこと何だと思ってんだ」
「黒を喰える人です」
「言い方」
「間違ってますか?」
「間違ってねぇのが最悪なんだよ」
恭介は煙草をカウンターに置いた。
火のついていないそれが、木目の上で小さく転がって止まる。
紗希はそれを見届けてから、さらに言った。
「それと、もう一つ」
「……まだあんのかよ」
恭介の声に、明らかな警戒が混じる。
紗希は頷いた。
「先輩、何があったのかは知りませんが」
そこで一度、恭介の服装を見る。
濡れてはいない。だが、全体にくたびれている。制服でも私服でも、居場所のある人間の服ではない。鞄らしい鞄もなく、ポケットに突っ込まれたものだけで動いているように見える。
「もしかして、宿も仕事もない状態だったりします?」
恭介が黙った。
その沈黙は、あまりにも分かりやすかった。
「……誰に聞いた」
「見れば分かります」
「見るな」
「見えます」
「見るなって言ってんだろ」
恭介は不機嫌そうに吐き捨てたが、否定はしなかった。
紗希は、そこでカウンターの下から一枚の古い鍵を取り出した。小さなタグがついている。手書きで「二階」とだけ書かれていた。
「うち、二階に空き部屋があります」
鍵をカウンターの上に置く。
「元々は父が倉庫代わりにしてましたけど、掃除すれば人は住めます」
「……は?」
「店も、人手が足りてません」
「待て」
恭介が片手を上げる。
「今、話飛ばしただろ」
「飛ばしてません」
「飛ばした」
「必要事項をまとめました」
「それを飛ばしたって言うんだよ」
紗希は小さく首を傾げた。
「つまり、先輩は住む場所がない。うちは空き部屋がある。先輩は黒を喰わないと困る。私は黒を引き寄せる。店は人手が足りない」
ひとつずつ指で数える。
「全部つながります」
「つなげんな、そんなもん」
「でも、つながります」
恭介はしばらく黙った。
青白い目が、カウンターの上の鍵を見る。
それから、紗希を見る。
「……なんでそこまでする」
初めて、少しだけ声音が変わった。
疑問というよりも、警戒に近い。
「宿もねぇ。仕事もねぇ。持ち物もねぇ。ついでに、昔のことも大して覚えてねぇ」
恭介は、カウンターの上の鍵を見た。
「無い無い尽くしで、食うしか能のねぇ奴に、よくまあ利用価値なんてもん見つけたな」
紗希はすぐに答えた。
「先輩が近くにいた方が、私にとって都合がいいからです」
あまりにも淡々としていた。
だからこそ、その言葉は親切にも同情にも聞こえない。
「私の周囲に黒が寄るなら、先輩は近くにいた方がいい。先輩も、黒を喰わないと困る。双方に利益があります」
「……利用する気満々じゃねぇか」
「提案です」
「脅迫に近ぇよ」
「では、交渉と言い換えます」
「言い換えたところで中身は変わんねぇだろ」
紗希は少しだけ考える。
「でも、悪い話ではないと思います」
そこでようやく、恭介は短く息を吐いた。
笑いに近い。
けれど、明るくはない。
「……はは」
乾いた声だった。
「どんだけキレてたら、そうなるんだよ」
紗希は瞬きをする。
「怒っているように見えますか?」
「見える」
「そうですか」
「自覚ねぇのかよ」
「あるような、ないような」
「最悪だな」
恭介はカウンターに肘をつき、片手で額を押さえた。
「執念の燃やし方。俺よりタチ悪ぃぞ、お前」
「褒めてます?」
「褒めてねぇ」
「そうですか」
紗希は少し残念そうに頷いた。
恭介は、その反応を見て、また小さく笑った。
首元の包帯。
診療所の夜。
点滴の中にいた黒。
首筋へ歯を立てた時、目を閉じなかった少女。
その全部を思い出しているような顔だった。
「……ただよ」
恭介の口元が、わずかに歪む。
「言ってることは悪くねぇ」
紗希は顔を上げる。
カウンターの上で、古い鍵が小さく光っていた。
「近くにいりゃ、飯には困らねぇ」
「黒の話ですか?」
「それもある」
「普通のご飯もですか?」
「それもある」
「なるほど」
紗希は頷いた。
「でしたら、条件をまとめましょう」
「もう始めてんじゃねぇか」
「二階の部屋は、掃除してから使ってください。店を手伝ってくれるなら、家賃は安くします。黒が出たら、食べてください」
「言い方が雑なんだよ」
「先輩の仕事も、だいたい雑ですよ」
「殴るぞ」
「暴力反対です」
「どの口で言ってんだ」
恭介はそう言って、カウンターの上の鍵を指先で引き寄せた。
まだ持ち上げない。
ただ、指で軽く押さえる。
その動きだけで、紗希には返答が分かった。
「……交渉成立、ですか?」
恭介は鍵をつまみ上げた。
古い金属が、指先で小さく鳴る。
「――交渉成立だ」
紗希は小さく頷いた。
「……でしょ?」
その瞬間、店の奥で黒い線がかすかに揺れた。
祝福ではない。
風でもない。
何かが、餌場の形を覚えたような、そんな揺れだった。
恭介も、それに気づいたらしい。
ちらりと店の奥を見る。
けれど動かなかった。
まだ、喰うほどの濃さではないのだろう。
恭介は鍵をポケットへ入れ、椅子の背にもたれた。
「腹減った」
あまりにも自然に言った。
さっきまで、危険な契約の話をしていた同じ口で。
紗希は少しだけ瞬きをしてから、カウンターの奥へ視線をやった。
「ありますよ。残り物ですけど」
「上等だ」
「温めますね」
「多めにな」
「初日から要求が厚かましいですね」
「住み込みなんだろ」
「まだ掃除もしてないです」
「じゃあ前祝いだ」
「何の前祝いですか、それ」
言いながら、紗希は皿を取り出す。
ポットの湯気が細く上がっている。
窓の外では、軒先から水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと、さっきと同じように。
カウンターの向こうには、黒を喰う男がいる。
店の奥には、黒が溜まりやすい影がある。
紗希の首元には、喰われた跡が残っている。
たぶん、どれも普通ではない。
けれど、その異常な配置が、妙に噛み合ってしまった。
それが、灯紗希と常盤恭介の“共生”の始まりだった。




