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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第0章 プロローグ:出会い
3/69

プロローグ3:黒を喰う男、住み込みになる

 その夜の傷は、消えなかった。


 正確に言えば、塞がりはした。


 熱も引いた。血も止まった。診療所の医者は、動脈には届いていない、傷自体は浅い、数日もすれば落ち着くだろうと説明した。父はひどく慌てていたが、紗希はベッドの上でそれを聞きながら、どこか他人事みたいに頷いていた。


 けれど、傷跡は残った。


 首筋の、少し横。


 頸動脈の脈が指先に触れるあたりに、二つの小さな痕がある。噛まれた跡、と言えばそれまでだ。けれど、その周囲には薄く黒ずんだ影のようなものが残っていて、鏡を見るたびに、あの夜の冷たさが皮膚の下から戻ってくる。


 助けられた跡ではない。


 “喰われた”跡。


 紗希は、そう認識していた。


 その認識が、ひどく正しいものに思えた。


 だから退院してからも、彼女は首元を隠すようになった。絆創膏。包帯。襟の高い服。理由を聞かれれば、転んだとか、点滴の時にかぶれたとか、適当なことを言った。


 誰も深くは聞かなかった。


 黒が見えない人間にとって、それはただの傷だった。


 けれど、紗希にとっては違う。


 その傷は、常盤恭介が自分の中の黒を喰った証拠だった。


 そして同時に、自分を苦しめてきたものを殺せる存在が、確かにこの世にいるという証拠でもあった。


 診療所の夜のあと、恭介は紗希の周囲に現れるようになった。


 待ち伏せ、というほどはっきりしたものではない。


 学校帰りの道の向こう。


 〈灯〉の裏手。


 商店街の角。


 雨上がりの路地。


 餌場を覚えた野良猫や、電線に留まるカラスみたいに、気づけば少し離れた場所にいる。


 怖くなかったわけではない。


 最初は、視線を感じるたびに首元の傷が熱を持った。

 あの夜の歯を思い出した。

 けれど、恭介が現れたあとには、決まって黒の気配が薄くなる。


 理由は、何となく分かっていた。


 紗希の周りには、黒が寄る。


 診療所の夜に点滴の中へ入り込んできたものと同じような気配が、形を持つ前の影として、ときどき視界の端に滲む。

 見ないようにしても、名前をつけないようにしても、黒はなぜか紗希の周囲へ集まってくる。


 恭介は、それを嗅ぎつけて来る。


 助けに来るのではない。


 喰いに来るのだ。


 だから、紗希の近くに恭介が現れることは、ある意味で自然だった。


 会話らしい会話は、まだほとんどない。


 黒が滲む。

 恭介が来る。

 喰う。

 何も説明せずに帰る。


 それが何度か続いただけだった。


 当然、喫茶店〈灯〉の店主である父とも、恭介は何度か顔を合わせることになった。


 父は、黒のことを何も言わなかった。


 渦眼のことも、あの夜の病室で何が起きたのかも、紗希には一度も聞いてこない。


 だから紗希は、父には何も見えていないのだと思っていた。


 少なくとも、父はそういう顔をしていた。


 ただ、娘の近くに時々現れる、口と目つきの悪い青年がいる。


 父が表向きに扱ったのは、それだけだった。


 感じは悪い。


 態度も悪い。


 店の前で立っていると、だいたい通行人に避けられる。


 けれど、不思議と害はなさそうに見えたのだろう。


 いや、父はそういうことにしたのかもしれない。


 紗希の体調が崩れた時ほど、恭介は近くにいる。


 黒の気配が薄れる頃には、何事もなかったみたいに姿を消している。


 父に見えているのは、少なくとも表向きには、その結果だけだった。


 結果として、父の中で恭介は「感じの悪い、けれど娘に害はなさそうな兄ちゃん」くらいの雑な位置に収まったらしい。


 そしてある日、退院の礼だとか、困った時は連絡しろだとか、そんな曖昧な理由で、紗希の番号を書いた紙を恭介へ渡していた。


 後でそれを聞いた紗希は、少しだけ頭を抱えた。




 数日後。


 雨上がりの湿り気がまだ街に残る午後、喫茶店〈灯〉は開店前の静けさに沈んでいた。


 アパートの一階にある小さな店。


 橙色の照明はまだ落とされていて、窓の外の光だけがカウンターの端を薄く照らしている。軒先からは、ときどき水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと、一定しない間隔で。


 店内には客がいない。


 父は奥の部屋にいる。店主という肩書きだけは持っているが、実際に店を回しているのはほとんど紗希だった。今も、奥から新聞をめくる音だけが聞こえている。


 紗希はカウンターの内側に立っていた。


 首元には、薄い白い包帯。


 制服ではない。学校帰りではなく、店を開ける前の時間だ。カーディガンの袖を軽くまくり、ポットの湯を確認している。いつも通りの作業。いつも通りの手順。


 その向かい。


 カウンター席に、常盤恭介が座っていた。


 だらしなく椅子へ腰を下ろし、片肘をカウンターにつけている。獣のように乱れた黒髪は、今日は濡れていない。けれど目元には、あの夜と同じ青白さの名残がうっすら残っている。


 指先では、火のついていない煙草を転がしていた。


 吸うわけではない。


 ただ、癖のように持っているだけだ。


「吸わないなら、なんで持ってるんですか」


 紗希はその手元をちらりと見る。


「うるせぇな。落ち着くんだよ」


「火はつけないんですね」


「つけたら怒るだろ、お前」


「はい。店内禁煙ですので」


「だったら聞くな」


 恭介は不機嫌そうに吐き捨てたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。


 紗希は、ポットの蓋を閉める。


 湯気が細く立ち上がった。


 怖くないわけではない。


 今でも、恭介の目を見ると首元が熱を持つ。あの白い歯が皮膚に触れた感覚を思い出す。自分の中から黒い冷たさが引き剥がされていく感覚を、身体が勝手に思い出す。


 けれど、それだけではなかった。


 この人なら。


 あの夜、首筋に歯を立てられる直前に浮かんだ言葉が、まだ消えていない。


 この人なら、あるいは。


 その先に何が続くのか、紗希はもう分かっていた。


 救ってくれる、ではない。


 守ってくれる、でもない。


 もっと単純で、もっと物騒な期待だ。


 この人なら、黒を殺せる。


 恭介は煙草を指で転がしたまま、カウンターの上のメニュー表を見ていた。逆さまだった。


「先輩」


「……なんだ」


 恭介は視線を上げない。


 けれど、聞いている。


 紗希はカウンター越しに、少しだけ首を傾げた。


「提案があります」


 その一言で、恭介の指が止まった。


 火のついていない煙草が、親指と人差し指の間でぴたりと動かなくなる。


 ゆっくりと、顔が上がった。


「……提案?」


 青白い目が、紗希を見る。


 診療所の夜と違って、今は腹を空かせた獣の目ではない。


 それでも、紗希の首元の包帯を一瞬だけ見る癖は、もうある。


 気づいている。


 あの傷が残っていることも。


 紗希がそれを隠していることも。


 そして、たぶん。


 紗希がその傷を、ただ怖がっているだけではないことも。


 紗希は、静かに言った。


「はい」


 一拍置く。


「私、黒を引き寄せる体質みたいなんです」



 紗希がそう言うと、恭介は少しも驚かなかった。


 煙草を指先で転がしたまま、短く返す。


「知ってる」


「ですよね」


 紗希もまた、驚かなかった。


 むしろ、確認が一つ済んだという顔だった。カウンター越しに立ったまま、彼女は首元の包帯へ触れかけて、途中で手を止める。


 触る必要はなかった。


 そこに傷があることは、もう分かっている。


 恭介も、それを知っている。


「このままだと、次は私だけで済まない気がします」


 ポットの湯が、かすかに鳴った。


 恭介は答えない。


 紗希は続ける。


「黒は、私の周りに寄ります。先輩は、それを喰いに来る」


「……」


「なら、仕組みとしては単純ですよね」


 紗希は、まるで天気の話でもするみたいな声で言った。


「私が引き寄せる。先輩が喰う」


 恭介の指先が止まる。


「そうすれば、被害は最小で済む」


 一拍。


「効率いいでしょう?」


 沈黙が落ちた。


 カウンターの向こうで、紗希は変わらず立っている。笑っているわけではない。真剣に見えるかと言われると、それも少し違う。


 ただ、そう判断した。


 その結論を、当然のように差し出している。


 恭介は、しばらく彼女を見ていた。


「……お前」


 低い声だった。


「そんなに好戦的な奴だとは思ってなかった」


「好戦的、ですか?」


 紗希は首を傾げる。


 本当に、少しだけ不思議そうだった。


 その反応を見て、恭介の眉間に皺が寄る。


「黒を“まとめて処理する”って考え方も」


 火のついていない煙草が、恭介の指の間でゆっくり回る。


「俺みてぇなのを“使う前提”なのも」


 青白い目が、紗希を見る。


「どっちも、普通の考え方じゃねぇぞ」


「そうですか?」


 間。


「その方が合理的だと思ったんですが」


 迷いはなかった。


 紗希の声には、助けられた少女の湿っぽさも、命を救われた相手への依存もなかった。むしろ逆だ。


 目の前にいる危険物の性質を見て、用途を考え、配置しようとしている。


 恭介は、口元をほんの少し歪めた。


 笑った、というより、呆れたような顔だった。


「お前、俺のこと何だと思ってんだ」


「黒を喰える人です」


「言い方」


「間違ってますか?」


「間違ってねぇのが最悪なんだよ」


 恭介は煙草をカウンターに置いた。


 火のついていないそれが、木目の上で小さく転がって止まる。


 紗希はそれを見届けてから、さらに言った。


「それと、もう一つ」


「……まだあんのかよ」


 恭介の声に、明らかな警戒が混じる。


 紗希は頷いた。


「先輩、何があったのかは知りませんが」


 そこで一度、恭介の服装を見る。


 濡れてはいない。だが、全体にくたびれている。制服でも私服でも、居場所のある人間の服ではない。鞄らしい鞄もなく、ポケットに突っ込まれたものだけで動いているように見える。


「もしかして、宿も仕事もない状態だったりします?」


 恭介が黙った。


 その沈黙は、あまりにも分かりやすかった。


「……誰に聞いた」


「見れば分かります」


「見るな」


「見えます」


「見るなって言ってんだろ」


 恭介は不機嫌そうに吐き捨てたが、否定はしなかった。


 紗希は、そこでカウンターの下から一枚の古い鍵を取り出した。小さなタグがついている。手書きで「二階」とだけ書かれていた。


「うち、二階に空き部屋があります」


 鍵をカウンターの上に置く。


「元々は父が倉庫代わりにしてましたけど、掃除すれば人は住めます」


「……は?」


「店も、人手が足りてません」


「待て」


 恭介が片手を上げる。


「今、話飛ばしただろ」


「飛ばしてません」


「飛ばした」


「必要事項をまとめました」


「それを飛ばしたって言うんだよ」


 紗希は小さく首を傾げた。


「つまり、先輩は住む場所がない。うちは空き部屋がある。先輩は黒を喰わないと困る。私は黒を引き寄せる。店は人手が足りない」


 ひとつずつ指で数える。


「全部つながります」


「つなげんな、そんなもん」


「でも、つながります」


 恭介はしばらく黙った。


 青白い目が、カウンターの上の鍵を見る。


 それから、紗希を見る。


「……なんでそこまでする」


 初めて、少しだけ声音が変わった。


 疑問というよりも、警戒に近い。


「宿もねぇ。仕事もねぇ。持ち物もねぇ。ついでに、昔のことも大して覚えてねぇ」


恭介は、カウンターの上の鍵を見た。


「無い無い尽くしで、食うしか能のねぇ奴に、よくまあ利用価値なんてもん見つけたな」


 紗希はすぐに答えた。


「先輩が近くにいた方が、私にとって都合がいいからです」


 あまりにも淡々としていた。


 だからこそ、その言葉は親切にも同情にも聞こえない。


「私の周囲に黒が寄るなら、先輩は近くにいた方がいい。先輩も、黒を喰わないと困る。双方に利益があります」


「……利用する気満々じゃねぇか」


「提案です」


「脅迫に近ぇよ」


「では、交渉と言い換えます」


「言い換えたところで中身は変わんねぇだろ」


 紗希は少しだけ考える。


「でも、悪い話ではないと思います」


 そこでようやく、恭介は短く息を吐いた。


 笑いに近い。


 けれど、明るくはない。


「……はは」


 乾いた声だった。


「どんだけキレてたら、そうなるんだよ」


 紗希は瞬きをする。


「怒っているように見えますか?」


「見える」


「そうですか」


「自覚ねぇのかよ」


「あるような、ないような」


「最悪だな」


 恭介はカウンターに肘をつき、片手で額を押さえた。


「執念の燃やし方。俺よりタチ悪ぃぞ、お前」


「褒めてます?」


「褒めてねぇ」


「そうですか」


 紗希は少し残念そうに頷いた。


 恭介は、その反応を見て、また小さく笑った。


 首元の包帯。


 診療所の夜。


 点滴の中にいた黒。


 首筋へ歯を立てた時、目を閉じなかった少女。


 その全部を思い出しているような顔だった。


「……ただよ」


 恭介の口元が、わずかに歪む。


「言ってることは悪くねぇ」


 紗希は顔を上げる。


 カウンターの上で、古い鍵が小さく光っていた。


「近くにいりゃ、飯には困らねぇ」


「黒の話ですか?」


「それもある」


「普通のご飯もですか?」


「それもある」


「なるほど」


 紗希は頷いた。


「でしたら、条件をまとめましょう」


「もう始めてんじゃねぇか」


「二階の部屋は、掃除してから使ってください。店を手伝ってくれるなら、家賃は安くします。黒が出たら、食べてください」


「言い方が雑なんだよ」


「先輩の仕事も、だいたい雑ですよ」


「殴るぞ」


「暴力反対です」


「どの口で言ってんだ」


 恭介はそう言って、カウンターの上の鍵を指先で引き寄せた。


 まだ持ち上げない。


 ただ、指で軽く押さえる。


 その動きだけで、紗希には返答が分かった。


「……交渉成立、ですか?」


 恭介は鍵をつまみ上げた。


 古い金属が、指先で小さく鳴る。


「――交渉成立だ」


 紗希は小さく頷いた。


「……でしょ?」


 その瞬間、店の奥で黒い線がかすかに揺れた。


 祝福ではない。


 風でもない。


 何かが、餌場の形を覚えたような、そんな揺れだった。


 恭介も、それに気づいたらしい。


 ちらりと店の奥を見る。


 けれど動かなかった。


 まだ、喰うほどの濃さではないのだろう。


 恭介は鍵をポケットへ入れ、椅子の背にもたれた。


「腹減った」


 あまりにも自然に言った。


 さっきまで、危険な契約の話をしていた同じ口で。


 紗希は少しだけ瞬きをしてから、カウンターの奥へ視線をやった。


「ありますよ。残り物ですけど」


「上等だ」


「温めますね」


「多めにな」


「初日から要求が厚かましいですね」


「住み込みなんだろ」


「まだ掃除もしてないです」


「じゃあ前祝いだ」


「何の前祝いですか、それ」


 言いながら、紗希は皿を取り出す。


 ポットの湯気が細く上がっている。


 窓の外では、軒先から水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと、さっきと同じように。


 カウンターの向こうには、黒を喰う男がいる。


 店の奥には、黒が溜まりやすい影がある。


 紗希の首元には、喰われた跡が残っている。


 たぶん、どれも普通ではない。


 けれど、その異常な配置が、妙に噛み合ってしまった。


 それが、灯紗希と常盤恭介の“共生”の始まりだった。

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