プロローグ2 ブラックベインを啜る吸血鬼
恭介が、背を向けかける。
その動きが、途中で止まった。
青白い目が、ゆっくりと紗希へ戻る。
いや。
紗希の顔ではない。
もっと下。
首元を、見ていた。
ほんの一瞬だった。
けれど紗希には、その一瞬だけ病室の空気がまた冷えたように感じられた。さっきまで黒が這い回っていた時とは違う。もっと静かで、もっと近いところから来る冷たさだった。
青白い目が、ゆっくりと戻ってくる。
紗希の顔ではない、左腕でもない。
点滴の針元でも、倒れた点滴台でも。床に残った黒い擦れ跡でもない。
もっと上。
首元。
恭介の視線が、そこで止まった。
表情が、一度消える。
濡れた前髪の奥で、青白い目だけが細く光っている。何かを確かめるような、あるいは耳を澄ませるような、静かな間だった。
次に、口元が歪んだ。
笑った。
そう見えた。
嬉しそうだった。
紗希は、そのことが何より怖かった。
病室中の黒を潰して、叩きつけて、噛み砕いて、もう食い終わったはずなのに。恭介はまだ、こちらを見ている。
いや、違う。
紗希を見ているのではない。
紗希の中に残っているものを見ている。
まだ残っていた。
まだ喰えるものがある。
そう言われた気がした。
その瞬間、紗希の首筋の奥で、脈が一拍だけ冷たくなった。
「……っ」
喉ではない。
皮膚でもない。
もっと奥だった。
血が流れている場所。自分の鼓動が通っている場所。そこに、冷たい糸のようなものが潜り込もうとしている。
細く、柔らかく、けれど確かな異物。
それは首筋の内側で、脈の流れに乗ろうとしていた。心臓へ向かう道を見つけた虫が、そこへ身体を滑り込ませようとしているような感覚だった。
見えない。
でも、いる。
さっきまで病室に散っていた黒のうち、最後の一匹。
逃げたのではない。
潜ったのだ。
紗希の身体の、いちばん奥へ向かうために。
恭介が一歩近づく。
靴底が、床に散った輸液を踏む。ぬれた音が小さく鳴った。
彼の口元は、まだ歪んでいた。
声は、低く落ち着いている。
「……その首の穴から、寄生されそうになってんのかお前。面倒だな、こりゃ」
面倒だと言った。
けれど、その顔は面倒そうではなかった。
紗希の首筋に残った黒を見つけて、少しだけ機嫌がよくなったように見えた。食べ終わったと思った皿の隅に、まだ一口分だけ残っていたものを見つけたみたいに。
異常性の塊のようなその男は、紗希のベッドの脇に立つ。
紗希は動けない。身体に力は入らず、震えを訴えるばかり。
逃げようにも、腕も足も、まだ自分のものに戻りきっていない。
首筋の奥で、冷たい糸がさらに深く潜ろうとする。
そのたびに、脈が黒くなるような感覚があった。自分の心臓の音が、ほんの少しだけ別のものに混じっていく。
恭介は首元を見たまま、淡々と言った。
「助けるわけじゃねぇ」
その声は近かった。
「喰うためだ。俺が生きるためだ」
紗希の指先が、わずかに震える。
怖い。
この人は、やっぱり助けに来た人ではない。
ベッドに横たわる自分を見ていない。怯えている自分を見ていない。命を救おうとしているのでも、痛みを減らそうとしているのでもない。
彼は、黒を見ている。
自分の中に潜り込もうとしているそれだけを、見ている。
「だから荒っぽくなる。お前だって、ステーキ喰うときにフォークぶっ刺したりするだろ、それと同じだ」
恭介の手が、紗希の肩の横へ置かれた。
押さえつけるほどではない。
けれど逃がさない位置だった。
「死にはしねぇ。……我慢しろ」
その言葉が、優しさなのか、宣告なのか、紗希には分からなかった。
ただ分かったのは、これから起きることが治療ではないということだった。
処置でもない。
救助でもない。
捕食だ。
恭介が、紗希の首元へ顔を寄せる。
濡れた前髪が頬の近くで揺れた。雨の匂いと、さっき喰われた黒の残り香が混じっている。腐った雨のような匂い。獣の息。夜気。
白い歯が、見えた。
人の歯のはずだった。
けれど紗希には、一瞬だけ、それが牙のように見えた。
この人は、助けてくれる人ではない。
紗希は、ぼんやりとそう思う。
でも、殺せる人だ。
私を見つける黒を。
私の中へ入ろうとする黒を。
何度目を逸らしても、何度名前をつけないようにしても、必ずこちらへ滲んでくるものを。
理由も、慰めも、祈りもなく。
ただ掴んで、潰して、喰い潰せる人だ。
首筋の奥で、黒い冷たさがまた脈を掴む。
紗希の喉の奥に、恐怖とは別の熱が生まれた。
怒りに近い。
恨みに近い。
けれど、それだけではない。
もっと静かで、もっと暗い期待だった。
(この人なら)
恭介の歯が、首筋へ触れる。
皮膚が、冷える。
(この人なら、あるいは)
紗希は、目を閉じなかった。
怖いのに。
怖くて仕方がないのに。
それでも、見ていた。
この人が、自分の中の黒を喰う瞬間を。
この人が、自分を苦しめてきたものを、殺す瞬間を。
恭介の口元が、ほんの少しだけ近づく。
息が首筋にかかった。
そして、低い声が落ちた。
「じゃあ、いただきます」




