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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第0章 プロローグ:出会い
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プロローグ1:点滴の夜

 ――助けに来た人間の顔ではなかった。


 灯紗希がその夜、最初に覚えたのは恐怖ではない。

 首筋へ近づいてくる白い歯と、低い声だった。


「じゃあ、いただきます」


 それが、常盤恭介との最初の記憶になった。






 そこへ辿り着くまで、夜はひどく静かだった。


 雨上がりの夜だった。


 窓の外では、雨粒がまだ細く残っている。

 庇の先から落ちる水滴が、暗い地面を叩いては、ぽつり、ぽつりと小さな音を立てていた。


 灯紗希は、白い天井を見上げていた。


 腕が重い。

 指先が冷えている。

 喉の奥に、何かを飲み損ねたようなざらつきが残っている。


 まただ、と紗希は思った。


 視線だけを動かす。

 白いカーテン。薬品の匂い。枕元の古いナースコール。

 ベッドの横には、点滴台が立っていた。


 診療所だ。


 そう理解した瞬間、怖さより先に、少しだけ腹が立った。

 こういうことは、初めてではない。

 身体の奥から力が抜けるように崩れて、気づけば白い天井を見ている。

 周囲の大人は貧血だとか、疲労だとか、成長期だとか、都合のいい言葉をいくつも並べてくれる。


 けれど、紗希には分かっていた。

 原因は、たぶんそれではない。


 喉の奥に残っている。

 黒いものの感触が。


 飲み込んだわけでも、吐き出したわけでもない。

 身体の内側を、濡れた枝の先で撫でられたような、嫌な感覚だけが残っている。


 紗希はゆっくりと息を吸った。

 空気は入ってくる。痛みもない。

 けれど喉のどこかに、目に見えない煤が貼りついているみたいだった。


 身体を起こそうとして、やめる。


 腕が動きにくい。

 左腕には点滴の針が刺さっていた。透明なチューブが、ベッドの横から上へ伸びている。輸液バッグの中で、液体が静かに揺れていた。


 一滴。


 また一滴。


 雫が落ちるたびに、細い管の中を透明なものが流れていく。

 それを見ているうちに、紗希はようやく、自分の呼吸が少し浅いことに気づいた。


 怖い、と思ったわけではない。

 ただ、身体の方が先に知っている。

 見てはいけないものが、近くにある。


 視界の端で、何かが揺れた。


 黒い枝のような影だった。


 壁際のカーテンの裾。点滴台の細い影。窓の外から差し込む街灯の光。そのどれかが作った影だと言われれば、そう見えなくもない。


 けれど、違う。

 影なら、光に従って動くはずだ。


 それは、呼吸に合わせるみたいに揺れていた。

 紗希は目を合わせないようにした。


 やつらは、見られると形を持つ。


 それを誰かに教わったわけではない。

 けれど、何度も倒れ、何度も黒の気配に触れているうちに、身体が勝手に覚えた。

 見ない。数えない。名前をつけない。そうすれば、まだ“ただの気配”としてやり過ごせることがある。


 紗希は、黒い影から目を逸らした。


 その先に、点滴の輸液バッグがあった。


 透明な液体。

 白いラベル。

 蛍光灯を受けて、わずかに光る袋の表面。


 その底に、黒い染みがあった。


 最初は、汚れかと思った。


 バッグの外側に何かが付着している。あるいは、影がそう見えている。そう考えようとした。


 けれど、違った。

 黒は、液体の内側にあった。

 沈んでいない。溶けてもいない。輸液の中で、じっとそこに留まっている。


 一滴。

 また一滴。


 点滴は、変わらず落ちている。


 そのたびに、黒い染みの輪郭がほんの少しだけ揺れた。

 まるで、眠っているものが、呼吸をしているみたいに。


 紗希はナースコールへ手を伸ばそうとした。

 指先が動かない。


 動かないというより、動かすまでの距離がひどく遠い。

 自分の手なのに、薄い水の向こうに沈んでいるみたいだった。


 喉を鳴らす。


 声も出ない。


 息だけが、喉の奥で細く引っかかった。


 輸液バッグの底で、黒い染みがまた揺れた。

 さっきよりも、少しだけ大きい。


 紗希は、瞬きを忘れてそれを見ていた。


 見てしまっていた。


 黒は、ゆっくりと膨らんでいく。

 ただの染みではない。

 ただの影でもない。


 それは、透明な液体の中で、こちらに気づかれるのを待っていたものだった。


 紗希の胸の奥で、冷たいものが広がる。

 恐怖は、まだ遅れている。


 先に来たのは、もっと別の感情だった。


(また)


 喉の奥が、ざらりと鳴る。


(また、こうなっちゃうのか)


 点滴が落ちる。


 一滴。

 また一滴。


 そのたびに、黒の奥で何かが目を覚ましていく。


 そうして、黒い染みの輪郭がほどけた。


 溶けたのではない。


 液体の中で、内側から押し広げられるみたいに、ゆっくりと膨らんでいく。


 輸液バッグの底に留まっていた黒は、もう汚れにも影にも見えなかった。

 輪郭は丸くなりかけ、すぐに崩れ、細い尾のようなものを伸ばして、また縮む。


 生き物の形を探しているようで、生き物の形を知らないものにも見えた。


 紗希は、息を止めていた。


 止めたつもりはない。


 ただ、吸うことも吐くことも忘れていた。


 黒の中央に、白いものが浮いた。


 最初は泡に見えた。


 けれど、泡にしては濁りすぎている。丸く、白く、表面だけがぬるりと光っていた。輸液の中で揺れているのに、潰れも浮かびもせず、黒の中心に留まっている。


 それが、ゆっくりとこちらを向いた。


 目だった。


 瞼も、睫毛も、血管もない。人間の眼球とは違う。けれど、それは確かに“見る”ためのものだった。


 白く濁った球の奥に、針で突いたような黒点がある。


 その黒点が、輸液バッグ越しに紗希を見ていた。



 ――見てしまった。



 そう思った瞬間、黒は少しだけ形を安定させた。


 白い単眼の周囲で、膜の下から何かが押し上がる。


 二つ。


 三つ。



 まだ開ききらない白い粒が、黒の中でゆっくり向きを変える。目になり損ねたものが、皮膜の裏からこちらを探している。


 紗希の喉が、ひゅ、と鳴った。


 声ではない。


 息の失敗だった。


 黒の先端が裂けた。


 左右に開くのではない。花が開くみたいに、四方へめくれる。黒い皮膜が薄く裏返り、その内側に、白い棘のようなものが並んでいる。


 歯と呼ぶには細すぎて、繊毛と呼ぶには硬すぎる。


 さらに奥では、黒い糸の束がかすかに揺れていた。


 それは、口を作ろうとしている。


 でも、口の作り方を間違えている。


 紗希は、そう思った。


 黒は輸液バッグの内側でゆっくり身をよじり、細い尾のような部分を点滴チューブの口へ押し込んだ。


 透明な液体が流れている細い管。


 その中へ、黒が少しずつ入り込んでいく。


 管の中で、黒は細くなった。


 液体に混ざるのではない。


 液体を押しのけ、細い身体を作り、チューブの内側を這うように進む。ヒルのようにも見えた。血管の中を逆流する何かのようにも見えた。


 紗希の左腕に、冷たい感覚が走った。


 まだ触れられていない。


 それなのに、針の刺さった場所が先に反応している。皮膚の下がざわつく。自分の腕の中に、そこへ向かう道があると知らされているみたいだった。


 ナースコール。


 そう思って、紗希はもう一度、枕元へ指を伸ばそうとした。


 指先は、ほんの少し動いた。


 だが、それで終わり。


 手首が重い。


 肘が遠い。


 肩から先が、自分のものではないみたいに鈍い。


 ナースコールはすぐそこにあるのに、そこまでの距離だけが異様に長かった。


 呼ばなきゃ。


 誰かを。


 看護師を。


 父を。


 誰でもいい。


 誰かを。


 けれど、その考えが頭に浮かんだ瞬間、紗希の胸の奥に別の感情が滲んだ。


 呼んだら、その人は来てしまう。


 この部屋へ。


 これの前へ。


 黒は、チューブの中を進んでいた。


 白い単眼は、輸液バッグの底から離れないまま紗希を見ている。細く伸びた身体だけが、点滴の管の中を通ってくる。


 まるで本体は安全な場所に残したまま、先端だけを紗希の中へ差し込もうとしているみたいだった。


 喉の奥に、またあのざらつきが戻る。


 内側を濡れた枝で撫でられる感覚。


 それが、今度は腕から始まろうとしている。


(嫌だ)


 紗希は唇を震わせた。


(嫌だ。来ないで)


 恐怖は確かにあった。


 でも、それだけではなかった。


 腹の奥から、熱いものが込み上げてくる。


 どうして、という言葉が浮かぶ。


 どうして自分ばかり。


 どうして、いつもこちらを見つける。


 どうして、気づかないふりをしても、名前をつけなくても、見ないようにしても、黒は紗希の方へ来るのか。


 酷い。


 そう思った。


 理屈より先に、そう思った。


 黒は針元へ近づいていた。


 チューブの中で細くなった先端が、わずかに膨らむ。小さな口が、そこでまた花のように開こうとしている。


 針の奥。


 皮膚の下。


 血管へ向かって。


 入ってくる。


 紗希は、ようやく声を出した。


「やめ……」


 掠れた音だった。


 黒の動きは止まらない。


 むしろ、その声に反応したみたいに、輸液バッグの底の白い単眼がわずかに大きく開いた。未完成の目が、膜の下で一斉に向きを変える。


「やめて」


 今度は少しだけ声になった。


 けれど、病室の外へ届くほどではない。白いカーテンと雨上がりの湿気に吸われて、すぐに消える。


 針の刺さった場所が、ひどく冷たくなった。


 黒い先端が、そこへ触れようとしている。


 紗希の息が詰まる。


 恐怖と、怒りと、どうしようもない恨みが、同じ場所で絡まった。


「やめて。やめてよ――!」


 その声は、ようやく病室の静けさを裂いた。


 けれど、返事はなかった。


 廊下を誰かが走ってくる音も、看護師の声も、ベッド脇のナースコールが拾われる気配もない。紗希の声は白い壁に吸われて、雨上がりの湿気の中へ薄くほどけていくだけだった。


 黒は止まらない。


 点滴チューブの内側で細くなったそれが、針元へ触れようとしている。花弁状の口が小さく開く。白い棘が、透明な管越しにかすかに覗く。


 紗希は息を吸い込もうとした。


 今度は、悲鳴ではなく、喉そのものが固まった。


 その時だった。


 かた、と窓が鳴った。


 雨で湿った窓枠が、内側へわずかに押し込まれる。次の瞬間、閉じていたはずの窓が、静かに開いた。


 冷たい風が入ってくる。


 病室の白いカーテンが、ゆっくりと膨らんだ。消毒液の匂いに混じって、雨上がりの夜気と、濡れたアスファルトの匂いが流れ込む。


 紗希は目だけを動かした。


 窓辺に、誰かがいた。


 最初は、影に見えた。


 外の暗さをそのまま切り取って、人の形にしたような黒い輪郭。雨に濡れた前髪が額へ貼りつき、肩から落ちた雫が窓枠を濡らしている。


 少年だった。


 見覚えは、ある。


 ただ、すぐに名前が出てくるほど近い相手ではなかった。


 職員室前で教師に怒鳴られていた背中。

 屋上へ続く階段で聞いた、低い声。

 素行の悪さばかり噂されていた、二つ上の先輩。


 少し遅れて、名字が浮かぶ。


 ――常盤。


 常盤恭介。


 最近、学校を辞めたらしいと聞いた人だった。


 そして少なくとも、病室に入ってきた見舞客には見えなかった。


 白い壁。白いカーテン。透明な点滴。

 そういうものばかりで作られた部屋の中で、その少年だけが異物だった。

 夜が、間違って人の形をして入ってきたように見える。


 彼は紗希を見ていなかった。


 ベッドの上で動けずにいる紗希でも、針の刺さった腕でも、青ざめた顔でもない。


 視線というより、腹の奥が先に反応していた。

 その先に、点滴チューブの中を這う黒があった。それだけのことだった。


 青白い光が、瞳の奥で揺れる。


 蛍光灯の反射ではない。街灯の光でもない。深いところで、渦のように沈んだ光だった。


 少年は、濡れた前髪の下で、わずかに目を細めた。


「……腹ぁ、減ったな」


 声は低かった。


 ひどく場違いだった。


 助けを呼ぶ声でも、驚いた声でも、心配する声でもない。夜中に冷蔵庫を開けて、食えるものを見つけた時みたいな、そんな淡々とした声音だった。


 紗希は、一瞬だけ理解できなかった。


 この人は何を言っているのだろう。


 自分は今、たぶん死にかけている。黒い何かが点滴を伝って、身体の中へ入ろうとしている。なのに、窓から入ってきた少年は、こちらを助けようとする気配すら見せずに、腹が減ったと言った。


 その顔を見て、紗希はようやく分かった。


 助けに来た人の顔ではない。


 それは、餌を見つけた獣の顔だった。


 その瞬間、黒が動きを止めた。


 点滴チューブの中で、細く伸びていた先端が硬直する。輸液バッグの底に残っていた白い単眼が、ぐるりと少年の方へ向いた。膜の下で蠢いていた未完成の目が、一斉に同じ方向を探る。


 さっきまで、紗希へ向かっていたものが。


 紗希の中へ入り込もうとしていたものが。


 初めて、逃げようとしている。


 チューブの中の黒が、わずかに逆流した。だが、すぐに止まる。前にも後ろにも行けないみたいに、管の中でびくびくと脈打つ。


 少年の口元が、ほんの少し歪んだ。


 笑った、ように見えた。


 けれど、それは楽しいから笑ったのではない。


 食べる前に、歯の位置を確かめるような表情だった。


「お前」


 少年が、ようやく紗希の方へ視線を移した。


 その目に見られた瞬間、紗希の喉の奥に残っていた黒いざらつきが、びくりと震えた気がした。


「黒に懐かれてんな。ずいぶんとよ」


 言葉の意味は分からない。


 けれど、言われた瞬間、自分の中の何かを見抜かれたのだと分かった。


 服の上からではない。


 肌の上からでもない。


 もっと奥。喉の奥に残っていた黒の感触。何度も視界の端で揺れていた影。誰にも見えないはずのもの。見えないからこそ、説明できなかったもの。


 それを、この少年は当然のように見ている。


 紗希の背筋に、冷たいものが走った。


 黒が怖い。


 でも、この少年も怖い。


 その怖さの種類が、違う。


 黒は中へ入ろうとしてくる。


 少年は、こちらの中にあるものを見ている。


 彼はそのまま、窓枠から身を下ろし、病室の床へ足をつけた。


 靴底が、濡れた音を立てる。


 その一歩で、病室の空気が変わった。


 さっきまで、この部屋は紗希が襲われる場所だった。


 今は違う。


 黒が、喰われる場所になった。


 少年はベッド脇へ近づく。歩き方に迷いはない。けれど丁寧でもない。点滴台も、カーテンも、ベッド脇の小さな椅子も、必要なら壊して進むものとして見ているような歩き方だった。


 黒が、チューブの中で暴れる。


 白い単眼が見開かれる。花弁状の口が、輸液バッグの底で開く。声にならない声が、病室の空気を震わせた気がした。


 少年は気にしなかった。


 むしろ、苛立ったように眉を寄せる。


「うるせぇな」


 そう呟いて、彼は点滴チューブへ手を伸ばした。


「動くと、噛みにくいんだよ」



 医療器具を扱う手つきではなかった。


 壊さないように。抜けないように。痛くないように。そういう配慮が、最初から存在していない。そこにあるのは、逃げようとするものを掴むための動きだけだった。


 透明なチューブが、ぎしりと軋む。


 その中で、黒が暴れた。


 細く伸びていた身体が、管の内側で何度も折れ曲がる。白い単眼が輸液バッグの底で見開かれ、未完成の目が膜の下から一斉に押し上がる。花弁状の口が開き、声にならない震えが病室の空気をひっかいた。


 点滴台が傾いた。


 金属の脚が床を滑り、がしゃん、と乾いた音を立てる。輸液バッグが大きく揺れ、透明な液体が袋の中で跳ねた。


 紗希の腕に、冷たい痛みが走った。


「――っ」


 声にならない息が漏れる。


 針の刺さった場所から、皮膚の下へ冷たい根が絡みついている。その根を、外から無理やり引かれているような感覚だった。痛い。けれど、ただ痛いだけではない。自分の身体の内側に、知らないものが通路を作っていたのだと、今さら知らされるような嫌悪感がある。


 黒は紗希の中へ入ろうとしていた。


 いや、もう少しだけ、入っていたのかもしれない。


 恭介は表情を変えなかった。


「暴れんな」


 低く吐き捨てる。


「余計、痛くなんだろが」


 それが紗希に向けた言葉なのか、黒に向けた言葉なのか、分からなかった。


 次の瞬間、恭介がチューブを引いた。


 乱暴だった。


 けれど、ただ力任せというわけでもない。黒が逃げようとする方向を、最初から分かっていたみたいに、引く角度だけが妙に正確だった。チューブの中で細くなっていた黒が、針元からずるりと引き戻される。


 紗希の腕の内側で、冷たさが逆流した。


 血ではない。


 何かもっと黒く、湿ったものが、皮膚の下を通って抜けていく。喉の奥に残っていたざらつきと同じものが、今度は腕から引きずり出されている。


 黒がチューブの先で膨らんだ。


 細長く伸びていた身体が、外へ出た瞬間に形を失う。液体の塊に戻るかと思えば、すぐに白い目が浮き、裂けた口が開き、枝のような脚が何本も床へ伸びた。


 手のひらより少し大きい。


 けれど、その大きさの中に、目も口も脚も収まりきっていない。形を作るたびに破綻して、破綻するたびに別の器官が生まれる。生き物になろうとして、生き物の作り方を間違え続けている。


 黒は床へ落ちる直前、裂けた。


 逃げるためだった。


 小さな塊が二つ、三つ、床を這って別々の影へ潜ろうとする。


 恭介の口元が、凶悪に歪んだ。


「食い物が、逃げてんじゃねぇ!」


 靴底が落ち、同時に黒が潰れる。


 床へ散ったはずの黒が、潰された端からまた目を作ろうとする。白い粒が皮膜の下で膨らむ。だが、恭介の足がそれをもう一度踏み抜いた。


 今度は、音が湿っていた。


 紗希は息を忘れて見ていた。


 恭介は、怪異を祓っているのではない。


 倒しているのでもない。


 食べやすい形にしている。


 黒の本体が、床を跳ねるように動いた。花弁状の口が二つに増え、片方がベッドの下へ潜ろうとする。もう片方はカーテンへ黒い糸を伸ばし、布の影へ逃げ込もうとしていた。


 恭介はまず、カーテンへ伸びた糸を掴んだ。


 指に絡みついた黒が、細かい口をいくつも開く。白い棘が皮膚へ触れようとした瞬間、恭介はそのまま糸ごと引き千切った。


「手間かけさせんな」


 低い声。


 苛立っている。


 けれどそれは、誰かを守るための怒りではなかった。食事を邪魔された人間の苛立ちに近い。ひどく単純で、だからこそ怖い。


 引き千切られた黒が、恭介の手の中で暴れる。


 複数の眼球が、その瞳孔が、逃げ場を探すように忙しなく蠢いた。


 恭介はそれを、ベッド柵へ叩きつけた。


 金属音が鳴る。


 一度。


 二度。


 三度目で、白い単眼が潰れた。


 黒が飛び散る。だが、液体のように広がる前に、恭介の手がそれを掻き集める。雑だ。乱暴だ。けれど逃がさない。散ったものを壁へ押しつけ、床へ引きずり、また一つの塊に戻していく。


 黒は抵抗した。


 ベッドの脚へ巻きつき、カーテンの影へ潜り、点滴台の倒れた支柱へ絡みつく。口になり損ねた裂け目がいくつも開いて、声のない悲鳴のように震える。


 恭介は、その一つを掴んだ。


 開いた口を、指で握り潰す。


 ばつん、と何かが弾けるような音がした。


 紗希の背筋が跳ねる。


 怖い。

 黒も怖い。


 でも、恭介の方がもっと怖い。


 彼は一度も祈らない。慰めない。説明しない。そこにいる怪異を、恐れる対象として扱っていない。


 ただの食い物として扱っている。


 黒が最後に、ベッドの下へ逃げようとした。


 細く、薄く、影のようになって床を滑る。


 恭介がそれを追う。


 しゃがむことすらしなかった。片足で影の端を踏み、逃げ道を潰す。そのまま爪先で床へ擦りつける。黒が床と靴底のあいだで身をよじり、白い目をいくつも作ろうとする。


 恭介は身を屈め、踏みつけた黒を掴み上げた。


 もう、最初の形は残っていない。


 目も口も枝脚も、潰れて混ざって、何がどこにあったのか分からなくなっている。それでもまだ動いている。まだ紗希の方へ、針元の方へ、喉の奥の黒へ戻ろうとしている。


 恭介が、それを口元へ運んだ。


 紗希の喉が鳴る。


 やめて、と言いかけたのかもしれない。

 見たくない、と思ったのかもしれない。


 けれど、目を逸らせなかった。


 恭介の歯が、黒へ食い込む。

 濡れた膜と白い目が、一緒に潰れる音がした。


 黒が激しく震えた。潰れた目が、最後に一つだけ開こうとする。花弁状の口が、恭介の頬の近くで裂ける。


 それより早く、恭介が噛み砕いた。


 白いものが砕け、黒い糸が切れ、病室の空気に腐った雨のような匂いが広がる。だがその匂いも、長くは残らなかった。恭介が喉を鳴らすと同時に、黒は霧のようにほどけて消えていく。


 静かになった。


 突然だった。


 さっきまで病室中に絡みついていた黒い気配が、嘘みたいに薄れている。倒れた点滴台。歪んだカーテン。ベッド柵に残った黒い擦れ跡。床に散った輸液。


 それだけが、今の出来事を証明していた。


 紗希の腕から、冷たさが引いていく。


 針の刺さった場所はまだ痛む。けれど、皮膚の下に絡んでいたものはもうない。喉の奥のざらつきも、ほんの少しだけ薄くなっている。


 息ができた。


 紗希は、そこでようやく空気を吸った。


 肺に入ってくる。

 普通の空気だった。


 恭介は口元を手の甲で拭った。


 それから、倒れた点滴台にも、散らばった輸液にも、ベッドの上で動けずにいる紗希にも、大した興味がないみたいに視線を流す。


 食事を終えた獣の顔だった。


 終わったのだと、紗希は思った。


 少なくとも、その瞬間だけは。

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