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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第2話 声を追う木こり

 空気だけが、先に潰れた。


 怪異が跳んだのか、這ったのか、女子生徒には見えなかった。

 ただ、目の前の“少女”がぶれたと思った瞬間には、もう目と鼻の先まで来ていた。


 白い。


 近くで見ると、ますます白かった。肌ではない。紙に似た、乾いた白さだった。髪は黒いはずなのに、輪郭のところどころが溶けていて、肩口の線も曖昧だ。


 けれど口元だけが、異様なほど生々しい。


 歪に、重なっている。


 薄い唇。荒れた唇。切れた口角。少し開いた歯列。


 何人分もの口が、少女の顔の下半分に無理やり押し込められている。

 その全部が、今、女子生徒の顔に向かって開こうとしていた。


「――ッ」


 叫んだつもりだった。


 だが、やはり声は出なかった。

 声を出そうにも、その出口の手前で捻り潰される。

 口を開いても、言葉になる前の空気だけが押しつぶされて、ひゅう、と掠れた息になる。


 女子生徒は反射的に口元を押さえた。

 その仕草の途中で、指先が止まる。


 触れているはずの場所が、ずれていた。


 唇のある位置と、自分の手が探している位置が、瞬きをするたびに揺れ動いていた。


 息が乱れる。

 浅い。速い。肺の上の方だけが痙攣しているみたいに、呼吸が細く千切れていく。


 怪異は、じっとその顔を覗き込んでいた。


 少女のような仕草。

 子供のような距離感。


 それなのに、そこにあるのは好奇心じゃない。

 口の形だけを真似した、何か別のものだった。


 女子生徒の膝が折れる。


 アスファルトに手をつく。鞄が落ちる。

 視界が大きく揺れて、フェンスと街灯と怪異の輪郭が縦に伸びた。目は開いているのに、焦点が合わない。目の前のものが近いのか遠いのか、それすら分からなくなる。


 喉の奥から、泡立ったような呼吸が漏れた。


 助けて、の形にならない。

 言葉が出る場所だけが、この世のどこかから抜き取られてしまったみたいだった。


 怪異の口元が、さらに近づく。


 女子生徒は腕を振った。払いのけるつもりだった。

 だが空を切る。


 次の瞬間、頬のすぐそばに冷たい吐息が触れた。


 ……そこでようやく、別の足音が割り込んだ。


 速い。

 一直線にこちらへ向かってくる靴音だった。


「――離れろ!」


 男の声。


 低いが、よく通る。

 声が届いた瞬間、怪異の動きが止まった。


 女子生徒の霞んだ視界の端に、黒い影が滑り込む。

 怪異と自分の間に、誰かが立ったのだと、遅れて理解した。


 長い茶髪を後ろで束ねた青年だった。


 走ってきた勢いで髪が少し乱れている。夜目にも白く浮くシャツの上に、暗いジャケット。胸元では、小さな十字架が一瞬だけ街灯を反射した。


 細身に見えるのに、踏み込んだ足だけが妙に重い。


 青年は、女子生徒を背に庇う位置で止まっていた。


 正面には、白い少女のような怪異。

 背後には、膝を折った女子生徒。


 その距離が、ようやく分かる。


 怪異は、まだ近い。

 けれど、もう女子生徒へ口を届かせられる位置ではなかった。


 青年――レンは、片手をわずかに上げた。


 武器を構えたわけではない。

 だが、その仕草だけで、怪異との間に線を引く。


「二歩下がれ」


 命令するような声だった。


 怪異は答えない。


 顔の下半分に押し込まれた、いくつもの口だけが、ぬるく開閉する。

 笑っているのか。呼吸しているのか。あるいは、誰かの声を探しているのか。


 分からない。


 ただ、怪異はレンの目を見た。


 次の瞬間、白い輪郭がぶれた。


 跳んだのではない。

 這ったのでもない。


 まるで夜の影に濡れて、形だけが溶け落ちるように、怪異は自販機の脇へ滑り込んだ。


 校舎裏へ抜ける細い影。

 そこへ、白い少女の形が沈む。


 レンは追いかけなかった。


 追えば届く。

 たぶん、今ならまだ間に合う。


 だが、この場で背後の女子生徒を放れば、そちらの方が危ない。


 まず怪異ではなく、女子生徒を見る。


 呼吸。

 膝の落ち方。

 焦点の合っていない目。


 喉は動いている。息もある。

 だが、声だけが出ていない。


 口元を押さえた指先は、そこにあるはずの自分の口を、何度触れても確かめきれないように震えていた。


 追うより先に確認すべきものを、レンは間違えなかった。


 レンはポケットから端末を取り出し、短く告げる。


「一般人一名、重篤。御堂高の事件圏。救急回せ」


 そこで一拍置き、怪異の消えた方角を見る。


「来るなら注意しろ。今回のやつが奪うものは――“口”だ。声、呼吸、助けを呼ぶ機能を持っていかれるタイプだ」


 声に感情は乗っていない。


 だが、切り捨てた冷たさではなく、急いでいる人間の声だった。


 女子生徒のそばへしゃがみ込む。


 喉元には触れない。

 口元へ手を伸ばしかけて、一度止める。


 代わりに視線だけで状態を確認し、落ちた鞄を足元から遠ざけた。


「聞こえるか」


 女子生徒は答えられない。

 返せるのは、途切れ途切れの呼吸だけだった。


「大丈夫だ。救急は寄こした」


 レンはそう言って、ほんの一瞬だけ怪異の消えた方向を見る。


 自販機の脇。

 校舎裏へ抜ける細い影。


 もう姿は見えない。

 だが、気配はまだ近い。


 黒いものが夜の輪郭に溶けた時の、あの嫌な残り方が、道の先へ細く引きずられている。


 レンは舌打ちを飲み込み、女子生徒へもう一度視線を落とした。


「持ちこたえろ。すぐ来る」


 返事はない。


 それでも言い切って、レンは立ち上がる。


 置いていくわけにはいかない。

 だが、ここに留まり続ければ、あれは次の誰かを襲う。


 レンは端末へもう一度だけ声を落とす。


「被害者は意識混濁、発声不能。呼吸浅い。急げ」


 それだけ言って、通信を切る。


 女子生徒の肩が、かすかに震えていた。


 口元を押さえた指先だけが、不安定に宙を探るみたいに動いている。

 レンはその手を無理にどかさなかった。


「俺は、やるべきことをやらなきゃならねえ」


 低く言い残す。


 それが慰めにならないことくらい分かっていたが、黙って消えるよりはましだった。


 次の瞬間には、踵を返していた。


 怪異の逃げた先へ、一直線に走る。


 校舎裏の細い道を抜け、フェンス沿いの植え込みの影を走る。

 自販機の白い明かりが、背中で遠ざかっていった。


 夜の学校は静かなはずなのに、レンの耳にはもう別の音が混じり始めていた。


 遠くで、何かが擦れるような音がする。

 小さな爪が床を引っかくような、気のせいで済ませるには少し湿った音だった。


「……まだ近い」


 息を整えるように呟く。


 追跡は切れていない。


 むしろ、わざと辿れる程度に痕跡を残しているようにも感じた。挑発なのか、ただ餌場を変えただけなのかは分からない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 あれは、まだ終わっていない。


 校門の明かりが視界の端を横切る。


 その向こう、住宅と店舗の並ぶ夜道へ、黒い気配が滑り込んでいくのが見えた。


 喫茶店〈灯〉のある方角だった。


 レンは速度を落とさない。


「逃がすかよ」


 誰に聞かせるでもなくそう言って、夜の街へ踏み込んだ。

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