第2話 声を追う木こり
空気だけが、先に潰れた。
怪異が跳んだのか、這ったのか、女子生徒には見えなかった。
ただ、目の前の“少女”がぶれたと思った瞬間には、もう目と鼻の先まで来ていた。
白い。
近くで見ると、ますます白かった。肌ではない。紙に似た、乾いた白さだった。髪は黒いはずなのに、輪郭のところどころが溶けていて、肩口の線も曖昧だ。
けれど口元だけが、異様なほど生々しい。
歪に、重なっている。
薄い唇。荒れた唇。切れた口角。少し開いた歯列。
何人分もの口が、少女の顔の下半分に無理やり押し込められている。
その全部が、今、女子生徒の顔に向かって開こうとしていた。
「――ッ」
叫んだつもりだった。
だが、やはり声は出なかった。
声を出そうにも、その出口の手前で捻り潰される。
口を開いても、言葉になる前の空気だけが押しつぶされて、ひゅう、と掠れた息になる。
女子生徒は反射的に口元を押さえた。
その仕草の途中で、指先が止まる。
触れているはずの場所が、ずれていた。
唇のある位置と、自分の手が探している位置が、瞬きをするたびに揺れ動いていた。
息が乱れる。
浅い。速い。肺の上の方だけが痙攣しているみたいに、呼吸が細く千切れていく。
怪異は、じっとその顔を覗き込んでいた。
少女のような仕草。
子供のような距離感。
それなのに、そこにあるのは好奇心じゃない。
口の形だけを真似した、何か別のものだった。
女子生徒の膝が折れる。
アスファルトに手をつく。鞄が落ちる。
視界が大きく揺れて、フェンスと街灯と怪異の輪郭が縦に伸びた。目は開いているのに、焦点が合わない。目の前のものが近いのか遠いのか、それすら分からなくなる。
喉の奥から、泡立ったような呼吸が漏れた。
助けて、の形にならない。
言葉が出る場所だけが、この世のどこかから抜き取られてしまったみたいだった。
怪異の口元が、さらに近づく。
女子生徒は腕を振った。払いのけるつもりだった。
だが空を切る。
次の瞬間、頬のすぐそばに冷たい吐息が触れた。
……そこでようやく、別の足音が割り込んだ。
速い。
一直線にこちらへ向かってくる靴音だった。
「――離れろ!」
男の声。
低いが、よく通る。
声が届いた瞬間、怪異の動きが止まった。
女子生徒の霞んだ視界の端に、黒い影が滑り込む。
怪異と自分の間に、誰かが立ったのだと、遅れて理解した。
長い茶髪を後ろで束ねた青年だった。
走ってきた勢いで髪が少し乱れている。夜目にも白く浮くシャツの上に、暗いジャケット。胸元では、小さな十字架が一瞬だけ街灯を反射した。
細身に見えるのに、踏み込んだ足だけが妙に重い。
青年は、女子生徒を背に庇う位置で止まっていた。
正面には、白い少女のような怪異。
背後には、膝を折った女子生徒。
その距離が、ようやく分かる。
怪異は、まだ近い。
けれど、もう女子生徒へ口を届かせられる位置ではなかった。
青年――レンは、片手をわずかに上げた。
武器を構えたわけではない。
だが、その仕草だけで、怪異との間に線を引く。
「二歩下がれ」
命令するような声だった。
怪異は答えない。
顔の下半分に押し込まれた、いくつもの口だけが、ぬるく開閉する。
笑っているのか。呼吸しているのか。あるいは、誰かの声を探しているのか。
分からない。
ただ、怪異はレンの目を見た。
次の瞬間、白い輪郭がぶれた。
跳んだのではない。
這ったのでもない。
まるで夜の影に濡れて、形だけが溶け落ちるように、怪異は自販機の脇へ滑り込んだ。
校舎裏へ抜ける細い影。
そこへ、白い少女の形が沈む。
レンは追いかけなかった。
追えば届く。
たぶん、今ならまだ間に合う。
だが、この場で背後の女子生徒を放れば、そちらの方が危ない。
まず怪異ではなく、女子生徒を見る。
呼吸。
膝の落ち方。
焦点の合っていない目。
喉は動いている。息もある。
だが、声だけが出ていない。
口元を押さえた指先は、そこにあるはずの自分の口を、何度触れても確かめきれないように震えていた。
追うより先に確認すべきものを、レンは間違えなかった。
レンはポケットから端末を取り出し、短く告げる。
「一般人一名、重篤。御堂高の事件圏。救急回せ」
そこで一拍置き、怪異の消えた方角を見る。
「来るなら注意しろ。今回のやつが奪うものは――“口”だ。声、呼吸、助けを呼ぶ機能を持っていかれるタイプだ」
声に感情は乗っていない。
だが、切り捨てた冷たさではなく、急いでいる人間の声だった。
女子生徒のそばへしゃがみ込む。
喉元には触れない。
口元へ手を伸ばしかけて、一度止める。
代わりに視線だけで状態を確認し、落ちた鞄を足元から遠ざけた。
「聞こえるか」
女子生徒は答えられない。
返せるのは、途切れ途切れの呼吸だけだった。
「大丈夫だ。救急は寄こした」
レンはそう言って、ほんの一瞬だけ怪異の消えた方向を見る。
自販機の脇。
校舎裏へ抜ける細い影。
もう姿は見えない。
だが、気配はまだ近い。
黒いものが夜の輪郭に溶けた時の、あの嫌な残り方が、道の先へ細く引きずられている。
レンは舌打ちを飲み込み、女子生徒へもう一度視線を落とした。
「持ちこたえろ。すぐ来る」
返事はない。
それでも言い切って、レンは立ち上がる。
置いていくわけにはいかない。
だが、ここに留まり続ければ、あれは次の誰かを襲う。
レンは端末へもう一度だけ声を落とす。
「被害者は意識混濁、発声不能。呼吸浅い。急げ」
それだけ言って、通信を切る。
女子生徒の肩が、かすかに震えていた。
口元を押さえた指先だけが、不安定に宙を探るみたいに動いている。
レンはその手を無理にどかさなかった。
「俺は、やるべきことをやらなきゃならねえ」
低く言い残す。
それが慰めにならないことくらい分かっていたが、黙って消えるよりはましだった。
次の瞬間には、踵を返していた。
怪異の逃げた先へ、一直線に走る。
校舎裏の細い道を抜け、フェンス沿いの植え込みの影を走る。
自販機の白い明かりが、背中で遠ざかっていった。
夜の学校は静かなはずなのに、レンの耳にはもう別の音が混じり始めていた。
遠くで、何かが擦れるような音がする。
小さな爪が床を引っかくような、気のせいで済ませるには少し湿った音だった。
「……まだ近い」
息を整えるように呟く。
追跡は切れていない。
むしろ、わざと辿れる程度に痕跡を残しているようにも感じた。挑発なのか、ただ餌場を変えただけなのかは分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
あれは、まだ終わっていない。
校門の明かりが視界の端を横切る。
その向こう、住宅と店舗の並ぶ夜道へ、黒い気配が滑り込んでいくのが見えた。
喫茶店〈灯〉のある方角だった。
レンは速度を落とさない。
「逃がすかよ」
誰に聞かせるでもなくそう言って、夜の街へ踏み込んだ。




