第10話 医者の“限界”
その隙間を。
壁際にいた佐伯が、じっと見ていた。
壊れた縁側の向こう。
レンが断ち切った桜の流れの、その切れ目。
庭へ出られる。
少なくとも、今なら。
「……もう無理だ」
掠れた声が落ちた。
恭介が顔を向ける。
「は?」
佐伯は答えなかった。
壁に背を預けたまま、口元を手の甲で拭う。
一度。
もう一度。
何もついていない。
それでも、さっき根の先端が触れかけた唇を、何度も擦っていた。
「もう、付き合いきれません」
佐伯が言った。
声が震えている。
先程までの医師らしい落ち着きは、もうほとんど残っていなかった。
居間の奥にいた芙美香が、不安そうに身を乗り出す。
「佐伯先生……?」
「こんなもの……」
佐伯は芙美香を見なかった。
荒れた居間を見る。
割れた畳。
這い回る根。
梁から垂れた枝。
その一つ一つから逃げるように、視線が彷徨う。
「こんなもの、家の中でどうにかできる段階ではない……!」
「先生」
居間の奥から、雅臣が静かに声を掛けた。
「落ち着いてください」
「落ち着けるものですか!」
佐伯が振り返った。
その声に、芙美香の肩が跳ねる。
雅臣は動かなかった。
ただ佐伯を見ている。
佐伯の方は、もう止まらない。
「こんなものを見て、まだこの家だけでどうにかできると思っているんですか!」
白衣の胸元を掴む。
指先が震えていた。
「最初から間違っていたんだ……」
その言葉に。
紗希の目が僅かに細くなった。
恭介の後ろから、佐伯を見る。
柱際では、レンも顔を上げていた。
「何がだよ」
レンが訊く。
身体は根に押さえつけられたままだ。
両脚。
腰。
右腕。
それでも首だけは自由に動く。
佐伯へ顔を向けるには、それで十分だった。
佐伯は答えない。
代わりに、診察鞄の取っ手を強く握る。
「先生」
直哉がレンの傍らから呼んだ。
「何を知っているんです」
佐伯の指が止まった。
直哉を見る。
ほんの一瞬だけ。
そして。
何かに追い立てられるように、口を開いた。
「あの時――」
言って。
佐伯自身が、止まった。
遅かった。
「あの時、WFAの処理を止めるべきじゃなかった」
居間が。
一瞬だけ静かになった。
柱際で。
レンの表情が変わった。
「……待て」
根に縛られた身体を捻る。
腰を固定した根が軋んだ。
「佐伯とかいったな。今、なんつった? なんで一介の医者がWFAの名を知っているんだ?」
佐伯は目を逸らす。
レンはそれを逃がさなかった。
「それに。……処理を、“止めた”?」
佐伯の口が閉じた。
その横で。
直哉も、目を見開いていた。
「……先生」
ゆっくり立ち上がる。
レンの傍らから、一歩だけ佐伯の方へ出る。
「自分も、そんな話は聞いていません」
佐伯の顔が強張った。
直哉は続ける。
「どういうことですか」
「……」
「三年前の処理は、公安が大桜を伐採して終わったはずです」
声は静かだった。
だが。
直哉の顔からは、さっきまでとは別の緊張が浮かんでいる。
「少なくとも、自分はそう聞いています。WFAは絡んでいないはず」
佐伯は答えない。
直哉が一歩進む。
「誰が止めたんです」
「……」
「先生」
「やめてください」
佐伯が低く言った。
直哉が止まる。
「昔の話です」
「昔の話で済むと思ってるのか?」
レンが柱際から割って入った。
佐伯がそちらを見る。
レンは動けない。
それでも、視線だけは真っ直ぐ佐伯を射抜いていた。
「こっちはWFAの記録で、三年前の件は処理済みだって聞いてるが。……直哉は知らなくてもおかしくない、お前がWFAを抜けた直後に“処理”は行われていたからな」
息を整える。
根に固定された右腕を、僅かに引く。
動かない。
「その処理を誰かが止めたってんなら、話が違うだろ」
「……関係ありません」
「あるだろ」
「今さら、関係ありません」
佐伯の声が強くなる。
そのやり取りを。
紗希は黙って聞いていた。
八重。
三年前。
大桜。
WFAの処理。
そして今。
佐伯自身の口から出た。
――止めるべきじゃなかった。
(八重の事件のこと……?)
横で一連の流れを見ていた紗希は、佐伯を見る。
佐伯は直哉からも。
レンからも。
誰からも目を合わせようとしない。
(この人は、三年前に何を止めたんでしょうか? ……この人個人にそんな動機があるとは思えませんけど)
答えは出ない。
だから。
紗希もまだ口にはしなかった。
「先生」
雅臣が再び呼ぶ。
「今は、ここから出ることより先に――」
「私は出ます」
佐伯が遮った。
雅臣の言葉が止まる。
「……先生」
「もう十分です」
佐伯は診察鞄を握ったまま、壊れた縁側を見る。
その先。
庭。
病院側へ抜けられる方向。
「ここにいたら、今度こそ何をされるか分からない」
口元へ手をやる。
指先が、また唇へ触れた。
「私は今は、一介の医者です」
誰に言い聞かせるでもなく。
「こんなものを相手にするために、ここへ来たんじゃない」
芙美香が一歩前へ出る。
「でも、佐伯先生……!」
「申し訳ありません」
佐伯は芙美香を見ることなく答えた。
診察鞄の取っ手から手を離す。
黒い革の鞄が。
畳の上に残った。
紗希の視線が、そこへ落ちる。
佐伯自身は気づいていない。
いや。
気づいていたとしても。
今は、それすらどうでもいいのかもしれない。
白衣を翻し。
佐伯は壁際から駆け出した。
「先生!」
直哉が叫ぶ。
佐伯は止まらない。
レンが切り開いた、木々の隙間へ向かう。
「おい、待ってくれよ!」
柱際で、レンが身体を起こそうとする。
両脚の根が軋んだ。
腰を締める根も。
右腕を柱へ押しつける根も。
一本も外れない。
「佐伯!」
声だけが飛ぶ。
「今の話、説明してから行け!」
佐伯は振り返らなかった。
壊れた縁側まで走る。
残った根を一つ避け。
もう一つを跨ぎ。
庭へ降りた。
何も起きない。
足は動く。
身体も。
佐伯はそのまま走り続ける。
直哉が追おうとした。
一歩。
だが。
庭を覆う根を見て、足が止まった。
レンが断ち切ったのは、押し寄せていた流れだけ。
根そのものが消えたわけではない。
「……くそ」
直哉が拳を握る。
庭の中。
佐伯は、もう何歩も先へ進んでいた。
樹皮も浮かばない。
黒い筋も出ない。
ただ。
この家から逃げるために。
真っ直ぐ前だけを見て走っている。
その後ろに。
黒い診察鞄だけが。
居間の畳の上へ、取り残されていた。




