第11話 救出というより実験である
「佐伯先生」
ふと、声がした。
庭を走る佐伯の足は止まらない。
居間の奥。
芙美香より少し後ろにいた彰人が、壊れた縁側の向こうを見ていた。
「佐伯先生。忘れ物」
佐伯の肩が、わずかに揺れた。
だが。
振り返らない。
そのまま庭を進む。
足元には、いくつもの根が這っている。
一本を跨ぐ。
もう一本を避ける。
それでも。
何も起きない。
黒い筋も。
樹皮も。
佐伯はただ、この家から離れようとしている。
「何言ってんだ、あいつ」
恭介が低く呟いた。
その背後で、紗希も彰人を見た。
彰人は根へ触れていない。
手を伸ばしてもいない。
ただ。
畳の上に残された診察鞄へ目を向けた。
「鞄ありますよ」
彰人が言う。
「先生の診察鞄でしょう? “お医者としての必需品なはずだ”」
庭の中。
佐伯の歩幅が、一瞬だけ狭くなった。
紗希の目が細くなる。
佐伯の右手が動いた。
何も持っていない手。
その指だけが。
何かの取っ手を探すように、僅かに曲がった。
それでも。
佐伯は前へ進む。
「ほっとけほっとけ!」
柱際からレンが口を尖らせてみせた。
両脚も。
腰も。
右腕も。
根に固定されたままだ。
それでも顔だけは彰人へ向けている。
「逃げたい奴に鞄なんかどうでもいいだろ、放り出させてやればいいのさ、お望み通りな」
彰人がレンを見る。
「そうかな? でも大事な筈だぜ?」
「そーだよ」
レンが身体を捻る。
腰を柱へ押しつける根が軋んだ。
「今はそれより――」
「でも」
彰人が遮った。
もう一度。
庭の佐伯へ視線を戻す。
口元が。
ほんの少しだけ、緩んでいた。
「お医者なら、ねえ」
佐伯の肩が跳ねた。
紗希がそれを見る。
足ではない。
肩。
次に。
右手。
空の指が。
もう一度、何かを握る形に曲がった。
彰人が続ける。
「置いていけないんじゃないですか」
佐伯の足が止まった。
「……」
誰も声を出さない。
佐伯は前を向いたまま。
庭の中で立ち尽くしている。
その足元にも。
根はある。
けれど。
絡んでいない。
引いてもいない。
何も。
佐伯の身体を止めてはいない。
「先生……?」
居間の奥から、芙美香が呼ぶ。
佐伯は答えなかった。
ただ。
ゆっくりと。
顔だけを屋敷へ向ける。
続いて肩。
腰。
最後に。
足まで向きを変えた。
身体ごと、こちらを振り返る。
「……それは」
佐伯の声が掠れた。
目は。
彰人ではなく。
畳の上に残された診察鞄を見ていた。
「……私の」
その瞬間だった。
佐伯の右脚が。
びくりと震えた。
「……え?」
佐伯が足元を見る。
靴は地面についている。
根は巻きついていない。
跨いだ根も。
避けた根も。
そこから何かが伸びている様子はない。
それなのに。
脛の皮膚の下を。
黒い線が一本。
走った。
「な……」
佐伯の顔から血の気が引く。
黒い線が。
足首から膝へ伸びる。
一本。
もう一本。
細いものが枝分かれしながら、皮膚の内側を這い上がっていく。
「なんだ、これは……!」
佐伯が足を引いた。
一歩。
動く。
だが。
次の一歩が出ない。
膝が折れた。
「佐伯先生!」
直哉が叫ぶ。
レンの傍らから庭へ踏み出しかける。
「待ってください!」
紗希の声が飛んだ。
直哉の足が止まる。
「ですが――!」
「足元じゃありません!」
紗希は佐伯を見たまま言った。
佐伯の靴。
その周囲。
地面を這う根。
どれにも。
佐伯を引き留めているものはない。
紗希の視線が。
次に。
柱際のレンへ向く。
両脚。
腰。
右腕。
根が。
身体の外側から、はっきり巻きついている。
そして。
また佐伯へ。
佐伯の脛では。
黒い線が。
皮膚の下を走っている。
「……違う」
紗希が小さく呟いた。
柱際のレンが、すぐに顔を向ける。
「何が?」
紗希は答えない。
まだ。
答えにするには早い。
その間にも。
佐伯の変化は進んでいた。
「ぐ……っ!」
佐伯が右腿を両手で掴む。
指先が食い込む。
はずだった。
だが。
皮膚が。
もう。
沈まない。
「……嘘だ」
佐伯の指が止まる。
腿の一部が。
茶色く。
乾いていた。
人間の皮膚ではない。
細い木目が。
皮膚の下から浮かび上がっている。
「嘘だ……!」
爪を立てる。
かり、と。
乾いた音がした。
「やめろ……!」
佐伯が叫ぶ。
腰を引こうとする。
だが。
右脚がついてこない。
木質化が。
膝から腿へ。
さらに上へ。
白衣の下へ進んでいく。
芙美香が両手で口元を押さえた。
「佐伯先生……」
雅臣も庭へ顔を向けていた。
何も言わない。
恒一は上座近くから。
黙ったまま。
佐伯の変化を見ている。
「おい」
恭介が低く言った。
紗希の横から。
庭を見る。
「さっきと違うぞ」
「はい」
紗希が答える。
短く。
視線は。
佐伯から外さない。
「レンさんは、外から押さえられています」
柱際。
レンを見る。
根。
皮膚。
その境目が。
まだはっきりしている。
「佐伯先生は――」
紗希の言葉が止まった。
言葉より先に。
佐伯の身体が。
答えを見せた。
腰のあたりまで。
木目が浮かんだ。
「いやだ……」
佐伯が呻く。
「やめろ……!」
白衣の下で。
人間の身体と。
樹皮と。
黒い線が。
急速に入り混じっていく。
歌留多が。
恭介の横から一歩前へ出た。
「サキ」
紗希が顔を向ける。
「……はい」
歌留多は佐伯を見たまま。
右手を上げる。
「引っ張るぞ」
指を開く。
「まだ人間のところが残ってる」
一歩。
前へ。
「なら」
歌留多が手を伸ばした。
「今のうちだ」




