真白の想い
この物語は、本編を真白の視点から描いた別編です。
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> カスミソウは声を上げない
> いつも誰かの隣にいる
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> 風の強い日があった
> 翌朝 何事もなかったように咲いていた
>
> ただ少しだけ
> 向いている方が 変わっていた
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## 一・桜舞う
桜が舞っている。四月の風に乗って、ピンクの花びらが校庭を渡っていく。
私は、隣ではしゃぐ小春を横目に、校門をくぐった。
「きれいだね、真白」
「……うん」
適当に返事をした。桜なんて、毎年見ている。今さら感動はしない。小春の肩に降りた花びらは、ただの花びらだ。でも、小春が嬉しそうだから、まあいいか。
新しい制服は少し固くて、首のリボンが窮屈だった。革靴も、まだ足に馴染まない。歩くたびに、靴の内側が踵をこすって、かすかに痛い。
入学式の会場へと向かう。知らない顔ばかり。話し声が、四方八方から聞こえてくる。明るい声、緊張した声、はしゃいだ声。私には、全部ノイズだった。
「真白、ぼーっとしてると置いてくよ」
小春が振り返って言った。相変わらず、明るい顔をしている。いつも通りだ。私には、小春がいれば十分だった。
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入学式は、長くて退屈だった。
校長の話も、来賓の挨拶も、どうでもよかった。体育館の中は人の熱気で暑くて、窓から入る風だけが救いだった。風が首筋をさらって、わずかに涼しくなる。汗が引いていく感覚が、少しだけ心地よかった。
小春は、周りをきょろきょろと見回していた。
「楽しみだね、真白」
「……何が」
「新しい学校。新しい友達。いろんなこと」
「……そう」
私には、小春がいれば十分だった。中学から、ずっと一緒にいる。小春は明るくて、人懐っこくて、私とは正反対。なのに、なぜか気が合う。新しい友達なんて、別に欲しくない。小春がいれば、それでいい。
式が終わって、教室に入った。窓際の席を確保した。小春が窓側、私がその隣。
窓の外には、校庭と桜の木。その向こうに、色とりどりの花壇が見えた。
「ねえ、真白。あれ、何だろう」
「あれって?」
「あの花がいっぱい咲いてるところ」
「花壇じゃない?」
「すごいきれい……あとで見に行きたいな」
「入学式の日に?」
「だって、気になるんだもん」
まあ、いつものことだ。小春は、思いついたらすぐ行動する。私は、それに付き合う。中学からずっと、そうだった。
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## 二・温室の春
ホームルームが終わって、小春に引っ張られて、花壇に向かった。
近くで見ると、花壇は思っていたよりずっと広かった。チューリップ、パンジー、ビオラ。色の並びが考えられていて、まるで絵みたいだった。花壇の土は湿っていて、かすかに匂った。春の匂い。
小春がしゃがみ込んで、花を覗き込んでいる。
「すごい。こんなにたくさんの花、初めて見た」
「大げさだね」
「だって、本当にきれいなんだもん」
私は、立ったまま花壇を眺めた。確かに、悪くないとは思う。でも、それだけだ。感動するほどでもない。
「あの、こんにちは」
声をかけられて、顔を上げた。
女の人が立っていた。肩につくくらいのミディアムヘア、明るい茶色。柔らかい笑顔。優しそうな目。制服のリボンは、私たちとは違う色だった。上級生だ。
「新入生さん?」
「あ、はい」
小春が答えている。私は、その女の人を見ていた。
きれいな人だ。なぜか、そう思った。春の陽射しが、その人の髪を透かして、茶色が金色に変わって見えた。瞳が、笑っていた。
「七瀬柚葉、2年生。よろしくね」
柚葉先輩。その名前を、私は心に刻んだ。理由はわからない。ただ、覚えておきたいと思った。
「よかったら、うちの部、見学に来ない? 園芸部。温室、案内するよ」
「温室?」
小春の目が輝いた。
「行きたい! 真白、行こう!」
「え、今から?」
「だめ?」
私は小春の顔を見て、それから柚葉先輩の顔を見た。柚葉先輩は、穏やかに微笑んでいる。
「……まあ、いいけど」
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温室は、花壇の裏にあった。
ガラス張りの小さな建物。扉を開けると、むわっとした温かい空気が流れ出てきた。土の匂い、緑の匂い、そして、かすかに甘い花の匂い。頬と鼻が、じんわりと温かくなった。外の春の冷たい空気とは、全然違う。密度の濃い温もりが、肌を包んだ。
一歩足を踏み入れる。温室の中には、たくさんの植物があった。鉢植えの花、苗、観葉植物。棚にずらりと並んでいる。午後の日差しがガラスを通して差し込んで、葉っぱの緑が光を透かしている。
作業台の上に、サボテンの鉢があった。棘がたくさん生えている。私は、そっと指先で触れた。棘が、指に当たる。少し痛いけど、嫌じゃなかった。
「柚葉、誰か連れてきたの?」
声がして、振り向いた。ショートカットの女の子が、奥から歩いてきた。黒髪、きりっとした目。柚葉先輩とは対照的な、さっぱりした雰囲気。
「うん。新入生の子たち」
「相変わらず、抜け目ないね」
「人聞き悪いなあ」
ショートカットの女の子は、私たちの前に立った。
「あたし、朝比奈凛。2年。副部長やってる」
「月島真白です」
「よろしくね」
凛先輩は、温室の隅にあるテーブルを指差した。パイプ椅子が何脚か置いてある。
「詩ー、お茶淹れてー」
声を上げると、温室の奥から、もう一人の女の子が現れた。長い黒髪をハーフアップにした、背の高い女の子。物静かな雰囲気で、手には文庫本を持っている。
「はいはい。お客さん?」
「新入生。見学だって」
「そう。いらっしゃい。私は白石詩。同じく2年生。よろしくね」
声が、静かだった。温室の空気に溶け込むような、柔らかい声。
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テーブルに、5人が座った。
詩先輩が紅茶を淹れてくれた。ティーポットを傾ける手つきが丁寧で、カップに注がれた紅茶から、ほんのり甘い香りがした。湯気がゆらゆらと立ち上って、温室の温かい空気に混じっていく。
私は紅茶を一口飲んだ。温かい。カップを両手で包むと、陶器の温もりが、掌に伝わってきた。
凛先輩がクッキーの入った箱を出してきた。
「食べる? 昨日焼いたやつ」
私はクッキーを一つ取って、口に入れた。さくさくして、バターの香りが口の中に広がる。ほのかな塩味が、甘さを引き立てている。
「……おいしい」
「ありがと」
凛先輩は素っ気なく言ったが、少し嬉しそうだった。
柚葉先輩が、花壇に植えてある花の名前を教えてくれた。チューリップ、パンジー、ビオラ、ノースポール、デイジー。詩先輩は、文庫本を読みながら紅茶を飲んでいた。時々、会話に相槌を打つ。小春は、いつもみたいにはしゃいでいた。
私は、静かに紅茶を飲んでいた。温室の空気は、温かくて、心地よかった。ガラスの向こうに、夕焼けが見え始めていた。オレンジ色の光が、温室の中に入り込んでくる。植物の葉が、金色に縁取られていた。
柚葉先輩の横顔が、夕焼けに染まっていた。優しい顔だと思った。その笑顔を見ていると、胸が少しだけ温かくなった。
悪くない。そう思った。柚葉先輩の笑顔が、なぜか頭から離れなかった。
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## 三・五月の当番
五月。温室の当番が始まった。二人一組で、交代で花の世話をする。
「今日は、真白ちゃんと一緒だね」
柚葉先輩が言った。
「……はい」
「よろしくね」
「……よろしくお願いします」
胸が、少しどきどきした。なぜだろう。緊張しているわけじゃない。でも、脈が少し早くなった。
二人で、花の世話をした。水やり、枯れた葉の除去、土の確認。柚葉先輩は、丁寧に教えてくれた。
「こうやって、優しく水をあげるの」
柚葉先輩がじょうろを傾けると、水が土に染み込んでいく。水の冷たさが、じょうろを持つ掌に伝わってくる。土が湿って、匂いが少し強くなった。
「花も、生き物だからね。愛情を込めて」
柚葉先輩の手は、優しかった。花を扱う仕草が、きれいだった。指先が花の葉に触れる時、そっと支えるように触れる。私は、じっと見ていた。
「真白ちゃん、花は好き?」
「……嫌いじゃないです」
「そっか。じゃあ、少しは楽しんでくれてるかな」
「……はい」
柚葉先輩が、にっこり笑った。その笑顔を見て、じんわりと嬉しくなった。
なんだろう、この気持ち。
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## 四・梅雨の気づき
六月。梅雨の季節。
温室で、一人で当番をしていた。雨の音が、ガラスを叩いている。激しい音。断続的に、たたたた、と響く。温室の中は湿っていて、窓ガラスが曇っていた。指先で触れると、冷たかった。
ドアが開いた。
「あ、真白ちゃん」
柚葉先輩だった。
「今日、当番?」
「……はい」
「私も来ちゃった。雨だから、様子見ようと思って」
「……そうですか」
柚葉先輩が、隣に立った。雨の匂いがした。少し濡れた髪から、シャンプーの香りがかすかに漂ってくる。甘くて、清潔な匂い。
「雨、すごいね」
「……はい」
「温室の中は、静かで落ち着くよね」
「……はい」
「真白ちゃん」
「……何ですか」
「真白ちゃんって、いつも静かだよね」
「……すみません」
「ううん、悪い意味じゃないよ。なんか、落ち着くの。真白ちゃんと一緒にいると」
柚葉先輩が、優しく微笑んだ。胸が、きゅっとなった。
雨の音が、遠くなった。温室の中に、私と柚葉先輩しかいない。柚葉先輩の笑顔が、視界いっぱいに広がった。
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その夜。
布団の中で、柚葉先輩のことを考えた。笑顔。優しい声。花を扱う手。全部、思い出せる。布団の中は温かいのに、胸がきゅっと締め付けられる感じがした。
私、柚葉先輩のことが好きなのかもしれない。
やっと、気づいた。これは、憧れじゃない。恋だ。
布団を引っ張って、顔を覆った。どうしよう。この気持ち、どうすればいいんだろう。
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## 五・隠した想い
七月。夏休み前。柚葉先輩への気持ちは、大きくなっていった。
でも、誰にも言えなかった。小春にも、言えなかった。
だって、柚葉先輩は、先輩だから。女同士だから。それに……。
凛先輩が、柚葉先輩を見る目。私は、気づいていた。凛先輩も、柚葉先輩のことが好きなんだ。中学からの付き合い。五年間の片想い。私なんかより、ずっと長い。
私が入る余地なんて、ない。そう思った。
でも、気持ちは消えなかった。温室で柚葉先輩と一緒にいると、苦しかった。笑顔を見るたびに、どきどきした。声を聞くたびに、顔が熱くなった。
「真白、最近ぼーっとしてない?」
小春に言われた。
「……別に」
「嘘。何か考えてるでしょ」
「……」
「言いたくないなら、いいけど。でも、何かあったら言ってね」
小春は、それ以上聞かなかった。小春は、そういうところがある。踏み込みすぎない。待っていてくれる。だから、一緒にいて楽なんだ。
でも、今回ばかりは、言えなかった。
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## 六・夏祭りの夕暮れ
八月の中旬。一年生の夏。夏祭りに、みんなで行った。
浴衣を着た。紺色の、シンプルなやつ。帯を締める時、母が後ろから手伝ってくれた。帯が締まって、胸のあたりが少し苦しかった。
「真白、かわいい」
小春に言われた。
「……小春もね」
小春はピンクの浴衣。明るくて、小春らしい。
神社の前で、先輩たちと合流した。柚葉先輩は、淡い紫の浴衣。きれいだった。息を呑むほどだった。
帯の紫色が、夕暮れの光を受けて、薄く輝いていた。髪には、小さな花の飾りがついている。白い花。スイートピーだろうか。髪を触るたびに、花が揺れた。
「真白ちゃん、似合ってるね」
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。心臓が、早鐘を打っていた。
射的の屋台。柚葉先輩と、二人で行った。くまのぬいぐるみを取った。
「すごい、真白ちゃん」
柚葉先輩が、嬉しそうに笑った。
大事にしよう。そう思った。このぬいぐるみは、柚葉先輩と一緒に取った、大切な思い出だから。
花火を見た。柚葉先輩の隣で。見惚れた。柚葉先輩の横顔にも、花火にも。花火の光が、柚葉先輩の顔を照らした。赤、青、緑。色が変わるたびに、表情が変わって見えた。
好き。その気持ちは、確かだった。でも、告白する勇気は、まだなかった。
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## 七・季節の流れ
時間は、あっという間に過ぎていった。秋、冬、春。
二年生になった。遥という新入部員が入ってきた。小春と同じように、明るい笑顔の子だった。でも、どこか控えめな雰囲気があった。
夏になって、詩先輩と小春が付き合い始めた。凛先輩と柚葉先輩の間には、相変わらず特別な空気があった。
私は、相変わらず柚葉先輩を見ていた。今年こそ、伝えよう。そう決めた。
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## 八・決意の夜
八月の終わり。二年生の夏。地元の花火大会に、みんなで行った。去年の夏祭りとは、別の花火大会。
今日こそ、伝えよう。そう決めていた。このまま黙っていたら、後悔する。たとえ断られても、言わないよりはいい。
花火が始まる前。私は、決心した。今日、言おう。
みんなから少し離れた場所で、柚葉先輩を呼び出した。
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## 九・告白と拒絶
「柚葉先輩」
「何?」
柚葉先輩が、私を見た。優しい目。その目を見ていると、息が詰まりそうだった。
「……私、柚葉先輩のことが、好きです」
言った。言ってしまった。声が、震えていた。喉が渇いていた。唾を飲み込むと、喉がかすかに痛かった。
柚葉先輩は、黙っていた。遠くで、花火の音が聞こえ始めた。ドンと、空気が震える音。
「真白ちゃん……」
「友達として、じゃなくて。恋愛として、好きです」
「……」
「迷惑だったら、すみません。でも、言わないと、後悔すると思って」
私の声は、震えていた。手が、震えていた。浴衣の袖を、ぎゅっと握りしめた。
「真白ちゃん」
柚葉先輩が、静かに言った。
「気持ちは、嬉しい」
「……」
「でも、ごめんね。私は、真白ちゃんの気持ちには応えられない」
わかっていた。わかっていたけど、それでも、胸が痛かった。息が、苦しくなった。
「真白ちゃんは、素敵な子だよ。きっと、真白ちゃんのことを好きになる人が現れる」
「……」
「だから、今は、ごめんね」
柚葉先輩の声は、優しかった。だから余計に、辛かった。拒絶は冷たいほうが、まだ楽だったかもしれない。でも、柚葉先輩は優しかった。その優しさが、胸に突き刺さった。
「……わかりました」
やっと、声を絞り出した。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかじゃないよ」
「……ありがとうございます」
私は、頭を下げた。泣かない。ここでは、泣かない。柚葉先輩の前では、泣きたくなかった。目頭が熱くなったけど、ぐっとこらえた。
顔を上げた時、柚葉先輩が少し泣きそうな顔をしていた。
「凛先輩のこと、好きですよね」
柚葉先輩が、息を呑んだ。
「見てれば、わかります。柚葉先輩が凛先輩を見る時の顔——私が柚葉先輩を見る時と、同じだから」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
「それは、柚葉先輩が決めることです」
柚葉先輩は、何も言えないでいた。
「でも、私は——柚葉先輩が幸せなら、それでいいです」
嘘じゃなかった。嘘じゃないと、思いたかった。
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みんなのところに戻った。花火が、夜空に広がっている。
「真白、どこ行ってたの」
小春が聞いた。
「……ちょっと」
「そう」
小春は、それ以上聞かなかった。でも、心配そうな目で、私を見ていた。私は、花火を見上げた。きれいなはずなのに、よく見えなかった。視界が、滲んでいた。
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## 十・涙の夜
花火大会が終わった。みんなと別れて、小春と二人で帰り道を歩いた。
「真白」
「……何」
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「嘘。全然大丈夫そうじゃない」
小春は、私の顔をじっと見た。
「何かあった?」
「……後で話す」
「わかった」
小春は、それ以上聞かなかった。
帰り道の途中、小さな公園があった。
「ここで、話そう」
小春が言った。
ベンチに並んで座った。夜の公園は、静かだった。遠くで、虫の声が聞こえた。夜風が、頬を撫でた。
「真白、何があったの」
小春が、静かに聞いた。
私は、黙っていた。言葉が、出てこなかった。喉が、詰まっていた。
「……言いたくないなら、いいよ。でも、わたしはここにいるから」
小春が、私の手を握った。温かい手。小春の手は、いつも温かい。その温もりに、何かが崩れた。
「……柚葉先輩に、告白した」
「え」
「断られた」
「真白……」
「わかってたの。凛先輩がいるって。私なんかじゃ、敵わないって」
声が、震えた。
「でも、言わずにいられなかった。後悔したくなかったから」
「……」
「でも、やっぱり、痛い」
涙が、溢れた。柚葉先輩の前では堪えた涙が、止まらなかった。頬を伝って、浴衣の襟に染み込んでいく。
「痛いよ、小春……」
「真白……」
小春が、私を抱きしめた。小春の胸に顔を埋める。小春の浴衣が、涙で濡れた。小春の匂いがした。いつもの、優しい匂い。
「泣いていいよ。わたししかいないから」
「……うん」
私は、小春の胸で泣いた。声を殺して、泣いた。小春は、何も言わずに、ずっと抱きしめていてくれた。小春の手が、私の背中を優しく撫でた。
どれくらい泣いただろう。涙が止まった時、小春が言った。
「真白、えらかったね」
「……何が」
「ちゃんと伝えたこと。怖かったでしょ」
「……うん」
「真白は、強いよ」
「……強くない。こんなに泣いてるのに」
「泣けるのも、強さだよ」
小春が、私の涙を拭いてくれた。指先が、頬に触れた。温かかった。
「わたしには、泣いていいからね。いつでも」
「……ありがとう」
小春がいてくれて、よかった。心から、そう思った。
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## 十一・夏の終わり
夏休みが明けた。学校に行くのが、少し怖かった。温室に行けば、柚葉先輩に会う。顔を合わせられるだろうか。
でも、温室に行った。柚葉先輩は、いつも通りだった。優しく微笑んで、声をかけてくれた。
「真白ちゃん、おはよう」
「……おはようございます」
その優しさが、ありがたかった。同時に、少し辛かった。でも、これでいいんだと思った。柚葉先輩は、何も変わらずにいてくれている。私も、普通にしなきゃ。
小春が、さりげなくそばにいてくれた。
「真白、今日のお弁当、卵焼き入ってる?」
「……入ってる」
「一個ちょうだい」
「……勝手に取らないで」
「へへ」
いつも通りの、小春。その「いつも通り」が、救いだった。特別扱いしない。でも、そばにいてくれる。小春は、そういう友達だ。
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## 十二・遥の視線
秋になった。遥が、よく私のそばに来るようになった。
「真白先輩、一緒に当番していいですか?」
「……いいよ」
「ありがとうございます」
遥は、控えめな子だった。でも、なぜか私のそばにいたがる。
「なんで、私なの」
「え?」
「小春とか、詩先輩とか、他の先輩もいるのに」
「……真白先輩が、一番気になるからです」
「気になる?」
「はい。なんでかは、わからないけど」
遥の言葉は、不思議だった。でも、嫌じゃなかった。
遥といると、落ち着いた。小春といる時とは、違う落ち着き。小春は明るくて、一緒にいると元気をもらえる。遥は静かで、一緒にいると穏やかな気持ちになる。どちらも、大切な時間だった。
遥の手が、私の手に触れる時がある。水やりのじょうろを一緒に持つ時。土を触る時。その温もりが、心地よかった。
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## 十三・報告
十一月。柚葉先輩と凛先輩が、付き合うことになった。温室で、報告された。
「あたしと柚葉、付き合うことになった」
そうか。わかっていた。いつか、こうなると。でも、やっぱり、胸が痛んだ。息が、一瞬止まった。
「……おめでとうございます」
小さな声だった。でも、震えてはいなかった。夏の花火の夜に泣いたこと。「好きでした」と過去形で思えた夜。全部、今のこの瞬間のためにあったのだと——そう、思えた。
柚葉先輩が、「ありがとう、真白ちゃん」と優しく言った。
私は、もう一度、顔を上げた。
「凛先輩」
「うん」
「柚葉先輩を、よろしくお願いします」
凛先輩は、少し驚いた顔をした。それから、まっすぐ私を見て、頷いた。
「うん。任せて」
私は、小さく——でも確かに、笑った。
帰り道。小春と二人で歩いた。冬の空気が、冷たかった。頬が、少し痛いくらい冷たい。
「真白、大丈夫?」
「……大丈夫」
「本当に?」
「うん。わかってたことだから」
私は、空を見上げた。空は、晴れていた。冬の青い空。
「柚葉先輩が幸せなら、それでいいんだ」
「真白……」
小春が、私の手を握った。
「真白、強くなったね」
「……小春のおかげ」
「え?」
「あの時、泣かせてくれたから。小春がいてくれたから、ここまで来れた」
「……」
「ありがとう、小春」
小春が、少しだけ泣きそうな顔をした。
「何よ、急に」
「事実だから」
「……もう」
小春が、私の手をぎゅっと握り返した。小春の手は、冷たい冬の空気の中で、温かかった。
「これからも、そばにいるからね」
「……うん」
私も、小春の手を握り返した。
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## 十四・冬の温もり
十二月。遥が、また私のそばにいた。
「真白先輩、一緒にリースを作りませんか」
「……いいよ」
「ありがとうございます」
遥の手が、私の手に触れた。温かい。そう思った。冬の温室は、外よりずっと暖かかった。窓ガラスが曇って、外の景色が滲んで見えた。
最近、気づいたことがある。遥の視線を、感じる。私を見ている。ずっと、見ている。
「遥」
「はい」
「私のこと、なんで見てるの」
遥の顔が、少し赤くなった。
「……見てましたか」
「うん」
「すみません」
「謝らなくていい。嫌じゃないから」
「……本当ですか」
「うん」
遥が、ほっとしたように微笑んだ。その笑顔を見て、心がふっと軽くなった。
これは、何だろう。柚葉先輩への気持ちとは、違う。でも、何か、特別な感じがする。
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## 十五・卒業の日
三月。卒業式。柚葉先輩、凛先輩、詩先輩が卒業した。
柚葉先輩を見送る時、少しだけ胸が痛んだ。でも、前ほどじゃなかった。春の冷たい空気が、頬を撫でた。桜の蕾が、もうすぐ咲きそうだった。
「真白ちゃん、元気でね」
「……はい。先輩も」
「ありがとう。部活、頼んだよ」
「……はい」
柚葉先輩が、優しく微笑んだ。私は、その笑顔を目に焼き付けた。
さようなら、初恋。
小春が、隣に来た。
「真白、大丈夫?」
「……うん。もう、大丈夫」
「そっか」
遥が、そっと近づいてきた。
「真白先輩」
「……何」
「私、ここにいます」
「……」
「これからも、ずっと」
遥の声は、静かだった。でも、力強かった。遥の目が、真っ直ぐに私を見ていた。
「……ありがとう」
私は、小さく呟いた。
遥がいてくれて、助かった。この一年、いろいろあったけど、遥がいてくれたから、乗り越えられた。小春と、遥と。二人がいてくれたから、私は今、ここに立っていられる。
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## 十六・カスミソウ
四月。新学期。私は三年生になった。園芸部の部長になった。遥は二年生になった。
「今年も、よろしくお願いします」
「……よろしく」
遥が、嬉しそうに微笑んだ。
小春は、副部長になった。
「真白、部長頑張ってね」
「……小春も、副部長よろしく」
「任せて」
小春が、胸を張った。中学から、ずっと一緒。高校でも、ずっと一緒。これからも、きっと、ずっと一緒。小春は、私にとって、かけがえのない親友だ。
温室で、遥と二人きりになった。四月の午後。温室の中は、春の陽射しで温かかった。窓辺に、カスミソウの鉢があった。白い繊細な花。控えめに咲く花。
「真白先輩」
「何」
「私、真白先輩のこと、ずっと見てました」
「……知ってる」
「え?」
「遥の視線、気づいてた」
「……恥ずかしいです」
「別に。嫌じゃなかったから」
私は、遥を見た。
「遥」
「はい」
「私、まだ、自分の気持ちがよくわからない」
「……」
「でも、遥といると、落ち着く」
「真白先輩……」
「だから、もう少し、そばにいてほしい」
遥の目が、潤んでいた。
「……はい。いつまでも、そばにいます」
「……ありがとう」
私は、小さく微笑んだ。
柚葉先輩のことは、もう、遠い記憶になりつつある。初恋は叶わなかった。でも、それでよかったのかもしれない。
あの痛みがあったから、小春の大切さがわかった。あの時間があったから、遥と出会えた。今、私の隣には、二人がいる。親友の小春。そして、遥。私を見つめてくれる、優しい眼差し。
窓辺のカスミソウが、風に揺れた。白い花びらが、陽射しを透かして、薄く輝いていた。控えめに咲く花。誰かのそばで、静かに寄り添う花。
いつか、この気持ちに名前をつけられる日が来るかもしれない。その日まで、私は、ゆっくり歩いていこう。みんなと一緒に。
温室のガラスが、春の陽射しを受けて、きらきら光っていた。




