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18時間目 ユキの家へ

 さすがに受験を控えた三年生ともなると、非常に毎日が忙しい。

 創立祭が終われば期末試験、期末試験が終われば模試に面接練習、願書に関わる書類準備にと、ほとんどの生徒は悲鳴を上げるほどに目まぐるしい日々を送った。

 皆がそうなのだ。それに加えてバイトがある自分や、海外出張や研究室があるナギの忙しさはそれ以上で…。

 結局ナギが言ったとおり、互いの都合がかち合う頃には季節が変わって、学校は夏休みに入ってしまっていた。

「ユキー! 早くー‼」

 改札を通り抜けたナギが、ぶんぶんと手を振ってくる。

「そんなはしゃぐな。恥ずかしいだろ…」

 ナギからかなり遅れて改札を抜け、ユキはやれやれと溜め息をついた。

 学校の最寄り駅から一時間。大きいわけでも、逆に小さいわけでもない規模の駅。その駅の規模に表れているように、普段はさして困りはしないのだが、遊びに行こうと思ったらいくつか離れた駅に向かった方がいい。

 自分が育ってきた町はそんな感じ。人はそれなりに住んでいるが、そのほとんどが仕事に学校にと外へ出かけていく。いわゆるベッドタウンというやつだ。

 ユキは辺りの風景を眺める。

それにしても、本当に複雑な気分だ。

 まさか、本当にナギを連れて地元に戻ってくることになろうとは。正直、予定を調整している間に心変わりしてくれることを密かに祈ったのだが、最初から最後までナギの希望が変わることはなかった。

(そんなに…気になるもんなのかな……)

 断り切れずにこんな所まで来てしまったが、胸中は複雑だ。

 ナギは自分のことを知りたいと言う。

 でも自分は、必要以上に自分のことを知られたくない。

 ささやかな、でもとてつもなく大きな違い。

 何かが変わってきている。

 日々変化していくナギじゃなくて、それを見守り受け止める自分の中の何かが。

 今はできるだけ、そのことを考えないようにしている。

 そんな暇なんてないというのもあるけれど、何よりもその変化を自覚するのが怖くて。

(オレは…何をこんなに怖がってるんだろう……)

 目を伏せるユキ。

 そんなユキとは対照的に、浮足立った様子のナギは左右に伸びる出入り口への通路をきょろきょろと交互に見ている。

「ユキー? どっちに行けばいいのー?」

 無邪気な声が雑踏の中でもよく聞こえてくる。

「…こっちだよ。」

 右側の通路を指し示し、ユキはナギを先導するように見慣れた景色の中を行く。

 歩み出すと同時に、胸にわだかまる不安を拭い捨てるように。

 そうやって強く、強く目を閉じた。


 ★


「いらっしゃ~い。待ってたわよ~。」

 サヤはとてもにこやかにユキとナギの二人を出迎えた。

「にぃにーっ‼」

「うおおっ」

 玄関に入るや否やサヤの後ろから飛び出したルキアにロケットのような勢いで突撃され、ユキが少し苦しげな声をあげる。そんなことなどお構いなしに、ルキアは猿のような身軽さでユキの体をよじ登る。すると、ユキがいつものようにルキアの体を支えて、ルキアの体を自分の胸元に抱き上げた。

「今日の出迎えはまた激しいな…」

「そりゃそうよ。」

 サヤが肩をすくめて息を吐く。

「今年は家に帰らないなんて言うから、ルーちゃんをなだめるの大変だったのよー。」

 ちょっぴり不満げなサヤの目がユキを射る。

 本当に大変だったんだからね?

 茜色の瞳がそう語っていた。

「仕方ないじゃん。さすがに、今年は受験勉強に集中したかったんだからさ。」

 サヤの言葉に渋い顔をするユキ。

 すると、サヤは悪戯っぽい顔で破顔した。

「ふふふ、冗談よ。ルーちゃんも我慢とお兄ちゃん離れを覚えなきゃいけないし、ちょうどよかったわ。めいいっぱい勉強に集中しなさい。」

「………」

 ユキがさらに唇をへの字に曲げる。

 複雑そうなユキを横目に、ナギはふと過去のやり取りを思い出していた。

 そういえば、お母さんの悪戯好きには困ることが多々あると、ユキがそんなことを話していたことがあった気がする。同級生になら多少強くも言えるが、母親となるとどうしても受け一手になってしまうのだそうだ。

 何か言いたそうなのに何も言わないユキ。

 なんだか新鮮だ。

 ナギが面白げにそれを見ていると、ユキに抱かれて機嫌をよくしていたルキアがぐいぐいとユキの服を引っ張った。

「にぃに、こっち! 早くー‼」

「あー、はいはい。分かったから引っ張るな。」

 ユキは慣れた様子で廊下を奥へと進んでいく。

「…あらやだ。お客様を放置しちゃって。」

 残されたサヤとナギは互いに顔を見合わせた。

「ごめんねぇ。ルーちゃんはあれでも、昨日はあなたに会えるってとっても楽しみにしてたのよ。今はお兄ちゃんしか見えてないみたいだけど…」

「え、えっと……大丈夫…です。」

 ぎこちなくなる空気。

 ナギはおろおろと視線を右往左往させた。

(ユ、ユキのお母さん……ど、どうやって話せばいいんだろう…!?)

 さすがに行動には出さなかったが、本音は頭を抱えたくて仕方なかった。

 しまった。ユキのことを知りたいという気持ちと、ルキアに会いたいという気持ちだけでここまで来てしまった。ユキの家に行くんだから、そりゃもちろん母親だっているに決まっているじゃないか。

 どうしよう。サヤの年代の知り合いなんて研究所の人や教師くらいしかいないから、学問に関わること以外で何を話せばいいのかが分からない。どんな態度を取るのが正解かも、全然検討がつかない。

「……ごめんなさい? さすがにちょっと、馴れ馴れしすぎたかしら?」

 不意にサヤがそう訊ねてきた。

「不愉快な気持ちをさせるつもりじゃなかったのよ? ユキがお友達を家に連れてくるなんて何年もなかったものだから、嬉しくてつい、ね。でも、そうよね。確かあなたって、すごい有名な人なんだっけ? こんなおばさんにフレンドリーにされても困っちゃうかしら? ごめんなさいね。私テレビとか見ないもんだから、ユキに言われるまであなたのこと全然知らなかったのよ。」

「あ、その…」

「……やだ。馴れ馴れしすぎるって言ったそばから。とりあえずお茶を出すから、リビングに案内するわね。」

 気遣わしげに微笑んだサヤが廊下の先を示す。

 どうしよう。

 何か言わなきゃいけないのに、何も言葉が出てこない。

 何か言おうと思うほどパニックになって、頭が真っ白になってしまう。

「どうぞ。」

 ずっと待っているのも気まずいかと思ったのか、サヤはもう一言だけナギに声をかけて先に進もうとした。

 表情を見る限り、きっとサヤはこちらの態度を不快に思っているわけではないのだと思う。

 でも彼女がこちらに背を向けた瞬間、不安で不安で仕方なくなって。

「ま、待って!」

 思わず手を伸ばし、ナギはサヤの腕を掴んでその場に引き留めた。

「ち、違う…。馴れ馴れしいとか、そんなこと思ってない。」

 引き留めたはいいものの、上手い言葉なんて見つからず。

 それでもサヤに誤解だけはさせたくない。

 結果、ナギは子供のようにぶんぶんと首を横に振るしかなかった。

「俺……もっと考えてしゃべらないとだめだって、みんなが嫌な気持ちになるからって、いつもユキに怒られてて。でも今までそんなこと考えたことなかったから、何をどう話せば嫌な気持ちさせないんだろうって、考えても全然分かんなくて。だからその……不愉快とかじゃなくて、上手くしゃべれないだけで…。だってユキは俺が初めて一緒にいたいって思った人だし、だからユキのお母さんにも嫌われたくないし……えっと…えっと……」

 あれ?

 自分は何を言ってるんだろう?

 学術的なプレゼンなら、何も考えなくたって勝手に口が動いてくれるのに。

 パニック継続中のナギは、しきりにあーだうーだと呻いている。

 そんなナギにぱちくりと瞼を叩いていたサヤは……

「……ふふっ」

 突然肩を震わせて吹き出した。

「⁉」

 まさか笑われるとは思っておらず、ナギは思わず真っ赤な顔を上げてサヤを見つめた。

「あははははっ、やだもう!」

 大笑いするサヤは、ナギの肩を強く叩く。

「どうしてそこまで固くなっちゃってるの? 嫌われたくないってそんな、結婚前のご挨拶じゃあるまいし!」

 ぶっちゃけ、それに近い気持ちはあります。

 なんていうナギの心境など露知らず、サヤは面白おかしそうに笑っている。

「ははーん、なーるほど。ユキがほっとけないわけだわ。可愛いわー。うんうん、よしよし。」

 ひととおり笑ったサヤは表情を和らげると、ナギの両手をそっと握った。

「大丈夫よ。難しく考えないで、ゆっくり羽を伸ばしてちょうだい。心配しなくても、こんな可愛い子嫌わないわよ。ユキにもちゃんと言われてるしね。」

「ユキが…?」

「そうそう……あっ…」

 はたと何かに思い至ったサヤがくるりと後ろを振り返る。しばらくじっとしていた彼女はうん、と一つ頷き、またナギに向き合った。

「ユキには内緒ね。多分、余計なこと言うなって怒るから。」

「うんうん。」

 ユキのお母さんと内緒話と思うと、ちょっと心が躍る。

 興味津々で頷いたナギと距離を詰め、サヤはそっと口を開いた。

「頭はいいけど中身はルキア並みのお子様だから、空気を読まない言動をするくらいは流してやってくれって。」

 ひどい言われようだ。

 とはいえ、まったくもってそのとおり。

「うう…信用ないなぁ……」

 思わずぼやいたものの、文句を言う余地など全然ないわけで。

 情けなく眉を下げるナギに対し。

「あとね。」

 と、サヤは優しく続けた。

「すごく有名な子ではあるけど、そういう扱いをされるのが好きなタイプじゃないから、できることならそういうのを抜きにあなた本人を見て、思ったままの態度で接してほしいって。」

 それはまた、初めての経験だった。

 ナギは大きく目を見開く。

 今まで他人の家に招かれたことは何度もあるが、その時は誰もが自分への態度をものすごく気にしていた。ほとんどの人間は下心があって自分を招いているわけだから当然だし、名誉のためにも自分のご機嫌を取っておけと、裏で話されているのを聞いたこともある。

 思ったままの態度で接してくれ、なんて。

 みんなとはほぼ真逆の発想。

 でも、なんだかそれは……

「あはは。ユキらしいや。」

 家に遊びに行きたいと言う自分に、あんなにも嫌そうな顔をしていたくせに。

 裏ではこうして自分のために手を回しておいてくれている。

 優しいくせに、なかなかその優しさを表立っては示さないユキならではだ。

「ふふふ、ちょっとは肩の力が抜けたかしら?」

「あ…」

 言われて気がついた。

「ほんとだ。」

 さっきまでガチガチに体が強張っていたのに、いつの間にかごく自然に笑えるようになっている。

「よかった、よかった。さ、いつまでも立ち話もなんだし、こっちにいらっしゃい。ユキが一番気に入ってる、ちょっとお高めの紅茶買ってきたのよー?」

「え⁉ 飲みたい!」

 笑顔で先を行くサヤに、ナギも表情を輝かせてついていく。

 その時、奥のドアからルキアとユキが出てきた。

「にぃに、今度はこっち!」

「分かった、分かったから。家の中は走らない! あああ、母さん! 悪いけどナギのこと頼む! ナギ! ひとまず、ある程度ルキアを落ち着けたらそっち行くから! 適当に暇潰しといてくれ!」

 ルキアに引きずられ、ユキは慌ただしく二階へ続く階段を上っていってしまった。

「ユキって、家ではいつもあんな感じなの?」

「そうね。大体あんなかしら。」

 頬に手をやり、ほうと息をつくサヤ。

「ルーちゃんがユキのことを好きすぎるってのもあるけど、ユキもユキでルーちゃんには甘いもんだから…。こっちにいる時はいっつも二人一緒よ。」

「そうなんだ。」

 ナギもサヤの視線を追って階段の上を見上げる。

 普段はぐいぐい迫られるのは嫌だって言っているくせに、ルキアに引っ張られていったユキは全然嫌そうじゃなかった。

 それはルキアが家族だからで、ユキにとって大事な相手だからなのだろう。

 そう思うと、ちょっとだけ胸が寂しくなった。

「ごめんね。」

「……え?」

 突然謝られてしまい、ナギはきょとんとしてサヤに視線を戻した。

 サヤはなんだか申し訳なさそうに眉を下げていた。

「だって、ルーちゃんに会いに来てくれたんでしょう? 肝心なルーちゃんがあんなもんだから…」

「……あっ!」

 それで状況を察した。

 ユキったら、ここまで色々と準備をしておいてくれたくせに、一番大事なところの説明をはしょったらしい。

 まあユキの性格上、あえて言わなかったんだろうけど。

「あの、実はね…」

 ナギはそろそろと口を開く。

「ルキアに会いたかったのも確かにあるんだけど……本当は、そっちはおまけなんだ。」

「あら、そうなの?」

 驚いた様子のサヤがそう訊ねてくる。

 ナギはこくりと頷いた。

「本当は、もっとユキのことを知りたくて…それで、ユキの家に行きたいって我が儘言ったの。」

「まあ…ユキのことを?」

「うん……だってね…?」

 ナギは訥々と語る。

「俺はユキと仲良くなりたいって思ってて、その分ユキのこと色々と知りたいって思うのに、ユキは全然自分のこと話してくれないんだもん。そのくせ、ユキはどんどん俺のこと知っていってさ…。そりゃ、ユキはそういうのが得意だから、いちいち聞かなくても分かるんだろうけどさ。俺はまだ、見ただけで何もかもは分かんないもん。…って言ったところで、結局ユキは自分からは自分のことを話してくれそうにないから、こうなったら自分で探りに行くしかないかと思って。」

 ユキのことだからなのか。

 それとも、サヤの温和な雰囲気に気が緩んだのか。

 常々思っていたことが、ぽろぽろと口をついて出ていってしまう。

「んー、そうねぇ。あの子は昔から大人だから、勝手に察して黙って動くのが癖みたいなところがあるのよねぇ。」

 サヤはのほほんとした空気でそう返してくる。

 やっぱりユキのお母さんだな、と。

 そう思った。

 彼女もユキと一緒で、自分を特別扱いもしなければ無関心を決め込もうともしない。ユキにあらかじめ言われていたというのもあるだろうが、ぎこちなさがない辺り、きっとこれが等身大のサヤの態度なのだろうと思う。

「だからいつも分かりにくいんだよ、ユキはあ…」

 思わず苦言を一つ。

 その苦言に対し、サヤは全く気分を害した顔をしなかった。

「そうね。確かに分かりにくいわね。家でも全然学校の話なんてしないし、オレのことはどうでもいいからーとか言うのよ?」

「どうでもよくないよ。」

「ねぇ?」

 軽いテンポで言葉を投げ合い、ナギとサヤはくすくすと笑う。

「ナギ君、だったわよね。ユキたちを待ってる間、おばさんと楽しくお話ししましょうか?」

 サヤが笑顔に悪戯っぽい色を含ませる。

 きっと今、彼女は自分と同じことを考えているだろう。

「うん!」

 ナギは強く頷き、足取りも軽くサヤの後ろについていった。

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