12時間目 遠い一歩
窓一枚隔てた向こう側から、くぐもった話し声が聞こえてくる。
そっとカーテンを開けてみると、ベランダでユキが電話を片手に誰かと話していた。
穏やかで優しげな表情。
きっと電話の相手はサヤかルキアなのだろう。
ナギはそれを見つめ、しばらくするとそっとカーテンを閉じた。
(今の感じで笑うと、あんな感じなんだ…)
さっき見たユキの顔をしみじみと思い返すと、なんだか顔が熱くなってきた。
ナギは頬をほんのりと染め、自分の両頬を手で挟んだ。
最近はちょっとずつユキの顔を見ることにも慣れてきたが、やはり初めて見る表情にはこうしてどぎまぎとしてしまう。
(ほんとにかっこいいな、もうっ…)
心があっという間に舞い上がってしまう。
でも、いちいちしつこいなんて怒らないでほしい。
ユキが泊まれと言ってから約一ヶ月。
誰よりも近くで、誰よりも長くユキのことを見つめてきた。
部屋に戻ると必ずシャワーを浴びて、お気に入りのメーカーの紅茶を飲んで一息。コーヒーも普通に飲めるそうなのだが、どうしても無意識に紅茶に手を伸ばしてしまうらしい。味以上に香りが好きなのか、カップの前で深呼吸をしてほっと表情を和ませることが多い。あんなユキを見られたのはラッキーだと思う。
夕食を済ませた後はどんなに忙しくても一時間は課題とか勉強をして、さらに一時間は経済のニュースを読み込みながら株価を眺めている。
なんでも、かれこれ半年くらい前から趣味で投資活動を始めていたらしい。今のところ失敗も多くて得になることは少ないらしいけど、予測と分析が楽しいから全然気にならないそうだ。ちょっとパソコンの中身を見せてもらったら、論文並のデータが大量に蓄積されていて、さすがにびっくりしてしまった。
今は受験勉強もあるから厳しいけど、本当は投資した企業の経営理念とか戦術までちゃんと理解したいんだって。凝り性というのは本当みたい。
勉強と趣味が一段落する頃には、日付が変わっていることも多い。普段はこうならないように意識してるけど、今はイベントの準備で帰りも遅くなるし仕方ないなと苦笑いしてた。それでも勉強と趣味の時間を潰すのは、気持ち悪いし嫌なんだって。いつも柔軟なくせにそこは融通利かないんだねって言ったら、やらなきゃいけないことと好きなことなんだから仕方ないだろと拗ねられてしまった。
最後に歯を磨きながら次の日の準備をして、ベッドに潜って電気を消す。自分も寝つきがいい方だろうなと思ってたけど、ユキは自分以上に寝つきがよかった。早いと五分くらいで眠っちゃう。
そして朝が来ると、目覚ましもかけていないのにきっちりと同じくらいの時間に起きる。ユキの体内時計って精密過ぎて怖いくらい。几帳面な性格が、そのまま体質になってるんだろうな。起きるのがつらいことはないのって訊いたら、目が覚めた時間に起きるからつらくないとのこと。逆にその時にちゃんと起きないと、今度は全然起きられなくなるらしい。
爆睡型なのかなーなんてユキが呟くから、試しに真夜中にユキを起こしてみたことも。そしたら「眠いからまた後でー」なんて、すごく可愛い言葉と仕草と表情の三点セットが返ってきた。ユキ本人は全然覚えていないっぽいから、絶対に言わないでおこうと思っている。あの可愛いユキは、自分だけの宝物にするんだ。
毎日色んなユキを、毎日違ったユキを見られる。
こんな嬉しいことってあるだろうか。
今日も明日も明後日も、大好きな人と一緒に過ごして、大好きな人のことをたくさん知れるんだ。
そう思うだけで、心は常に浮き足立っている。毎日、頬が緩みそうになるのを我慢するので必死なくらい。
今日はどんなことを訊いてみよう?
明日はどんなユキが見られるだろう?
夢見心地でそんなことを考えて、一つ思いついては胸を躍らせて、また一つ思いついては飛び跳ねたくなる。
だって今は、ユキが自らこちらを受け入れてくれている時間なんだ。一緒にいても嫌な顔をしないし、ごく自然に自分のことを話してくれる。こちらも勉強と趣味の時間は邪魔をしないようにしているからか、その内肩の力を抜いた自然な姿を見せてくれるようになった。
きっと今、自分はものすごくユキの近くにいる。
サヤやルキアほどじゃなくても、トモやルズよりはずっとずっと近くにいる。
それがとても嬉しい。
キスをしたいとか、襲いたいとか、そういった衝動が霞むくらい、今の生活に充実感を得ている。
こんな時がもっと、いっそずっと続けばいい。
そう思うのに、時間は無情で。
明日は創立祭当日。
夢みたいなこの時間も、そろそろ終わりを告げる。
「………」
舞い上がった気持ちが、今度は一気に落ち込んでしまった。
「あーあ…明日になんて、ならなきゃいいのに。」
ぽつりと呟いて、窓横の壁に身を預けて溜め息をつく。
すると、ちょうどそのタイミングで窓が開いた。
「うわっ、びっくりした。まだ起きてたのか。先寝てていいって言ったのに。」
電話から戻ってきたユキが、こちらに気づいてぱちぱちと瞼を叩く。
(オフのユキって、ほんとに可愛く見えるなぁ…)
締めつけられるようにときめく胸の内を隠し、ナギはくすりと微笑んで首を振った。
「俺が待ってたかったの。ルキアたち、明日来るって?」
「ああ。昼前にはこっち着くように出るってさ。」
「いいなー。俺もルキアと会いたかったのにー。」
唇を尖らせて不満を言うと、途端にユキがうっと言葉に詰まった。
「それはその……仕方ねぇだろ。ルキアも残念がってたよ。落ち着いたら、今度また寮に呼んでやるから。」
ユキは逃げるようにベッドの方へと行ってしまう。
別にこれはユキのせいじゃないのに。こちらが講演会に出ている間、自分は家族と会って悠々自適に過ごすわけだから、それが気まずいんだろうな。
なんとなくユキの思っていることが分かるようになってきて、ナギはユキにばれない程度にくすくすと肩を震わせた。
「どうする? 今日はこっち使うか?」
ユキがふかふかのベッドを指差して問いかけてくる。
いつも自分はベッドの横に敷いた来客用のマットレスで寝ているんだけど、ユキはこうして定期的にベッドを勧めてくれる。
しかもそのタイミングは、大抵自分がいつも以上にへとへとに疲れている時。
他の人は全然そんなことに気づかずに仕事を投げてくるのに、ユキだけはいつも違うんだ。
どこでどうやって見抜いているんだろう。
まるで息をするようにそんなことができるくらい、ユキにとっては他人を気遣うのが普通で、他人を見ることが普通なんだろう。
「ナギ?」
いつまで経っても返事をしてこないナギに、ユキが怪訝そうに首を捻る。
ナギはハッとして両手を振った。
「ううん。今日は大丈夫。」
「そうか?」
ちょっと腑に落ちない感じのユキだったが、彼は特にそれ以上は突っ込んでこなかった。
「じゃあ電気消すぞ。」
「あ、うん。」
律儀に自分が答えるのを待ってから、ユキが枕元のリモコンで電気を暗くする。
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
毛布の中に潜り込んで目を閉じるユキ。
そんなユキを見つめていたナギは、ふと瞳を伏せた。
こうして他人の歩幅に合わせて、自分にも相手にも心地よい空気を作るのがユキの普通。
これは別に、自分が彼の特別だからじゃない。
それは分かっている。
分かっているけど…
分かっているから……
「………」
ナギはそっとユキの枕元に手をつく。
「ん…ナギ?」
目を開けたユキが不思議そうな顔でこちらを見上げてきた。
すでに眠そうなユキは完全に油断しきっていて、普段のしかめっ面の下に隠れている柔らかい表情が出てきてしまっている。
オンとオフの差が激しすぎる。
こんなの、どうしたって夢中になってしまうじゃないか。
「そんな顔……俺以外の人に見せないでよ…?」
するりと零れ落ちていく気持ち。
「え、ごめん……なんて?」
何か話があると思ったのか、ユキが目をこすりながら体を起こそうとする。
いっそのこと、真夜中みたいに眠いから後にしてくれと突き放してくれたら、どんなに気持ちが楽か。
ナギは涙をこらえるようにぐっと目元に力を込め、ユキの毛布の中に身を滑らせた。
「え……ちょっ⁉」
一瞬で眠気が吹っ飛んだらしいユキが途端に慌てふためく。
「ちょっとだけ。」
起き上がろうとしたユキの体を毛布の中に引きずり込み、ナギはそっとその唇に自分のそれを重ねる。
「………っ」
固く強張るユキの体。
それ以上の行為には及ばずに唇を離してユキと視線を合わせると、明かりが落ちた薄闇の中でも彼がどこか怯えた表情をしているのが分かった。
(やっぱり、この先は怖いんだね…)
感じるのは深い溝。
誰のことも差別せず、どんな人も平等に気遣うのはユキのいいところだけど…
そんなところが、自分は時々とても憎たらしく思ってしまうんだ。
ユキ、気づいてる?
誰にでもそんな優しかったら、みんながユキのことを好きになっちゃうでしょ?
あんまり恩着せがましいのは嫌だからって普段は何も言わないけど、それって全然意味ないよ?
いつもは厳しくて無愛想なユキがすごく気遣い屋だってこと、みんな普通に気づいてるよ。
だってユキは、それだけみんなのことを見てくれているんだもん。そうじゃなきゃ、あんな風に誰からも不満を持たれない動き方なんてできないでしょ?
余計な揉め事を避けたいから?
違うでしょ?
みんなが心から過ごしやすいように。
本当はそういうことでしょ?
でもね―――俺は、みんなの中の一人じゃ嫌だよ。
本当はいつだって、ユキがみんなに向ける優しさを独り占めしたい。いっそのこと、世界中のみんながユキを嫌ってくれたらって思ったりもするんだ。
ねぇ、ユキ。
俺のことしか見ないでよ。
他の人なんてどうでもいいから、俺のことだけをとびきり甘やかして、俺だけを大事にしてよ。
ここまで近くに入れてくれるなら、このまま俺をユキの特別にしてよ。
―――なのに、どうしてあと一歩がこんなに遠いの…?
「ユキ…」
ナギはユキの胸に自分の顔をうずめ、甘えるように頭を刷り寄せた。
「こ、こら…っ」
思い出したように慌て始めたユキが、ナギの体を遠ざけようとその肩に手を置く。
「いいじゃん。これ以上は何もしないから。」
押し返そうとしてくるユキに反抗するように、ナギはぎゅっとユキの服を掴んでより一層体を近づけた。
「だって、明日と明後日…ほとんど会えないでしょ?」
言うと、ユキの体がぴくりと震えて、手に込められた力が一気に弱まった。
「それは…仕方ない、だろ。明日はルキアたちが来るし、明後日はクラスの方を手伝わないといけないし。」
「分かってる。さすがに明日も明後日も一緒にいてなんて、そんな我が儘は言わないよ。」
ああ、こんなの嘘だ。
本当は、ずっと一緒にいてほしいのに。
ちょっと前までの自分なら、何も考えないで素直にそう言えたのに。
なのに今は、口が勝手に本音と裏腹な言葉を紡いでいく。
ユキにあんな怯えた表情をさせたくない。
ただその一心で。
好きなのに。
この気持ちをもっともっと伝えたいのに。
好きだからこそ動けないなんて……
もどかしさが体中を暴れ回る。
それから逃れたくて、ナギはユキの胸に必死にすがりついた。
「二日分、今一緒にいさせて。」
ささやかな願いが切なく空気を揺らす。
「………」
ユキが完全に体から力を抜いた。
どうやら諦めがついたらしい。
「それは…ここまでくっつかなきゃいけないのか?」
諦めはついても素直に「いいよ。」とは言えないようで、ユキはそんなことを問いかけてくる。
「だーめ。」
すでに勝ちを確信しているナギは、さらに甘えてユキの胸に頬を寄せた。
「できるだけ近くにいたい。近くにいるだけで、すごく安心するから…」
深く息を吸い、ナギはそっと目を閉じる。
ちょっと早い鼓動。
きっと、急にベッドに潜られたからびっくりしたのだろう。
ふんわりと漂ってくるユキの香り。
柔軟剤の香りに混ざって甘い匂いがするのは、明日来るダニーへの差し入れを作っていたから。
そっとした息遣いも、温かい体温も全部。
ユキの傍にいるという証。
それに触れられることが、こんなにも嬉しくて安心する。
ほら、あっという間に意識が幸せな微睡みに消えていって……
「ユキ…大好き……」
溶けてしまうような告白と一緒に、ナギは一瞬の内に深い眠りについてしまった。
だから知らない。
胸の中で穏やかに目を閉じるナギを見つめるユキが、どんな表情をしていたかなんて―――




