第八話 元勇者VS吸血鬼③
ペーテルは枷として用意した少年に催眠術を仕掛けていない。
人質の命を手中に握っていれば、状況を有利に進める事ができる。
しかしそれは、人質が救出者にとって価値のある者だった場合に限られる。
相手はドラゴンの奪還を目的とする青年だ。
人質は完全無視でドラゴンに直行する可能性もあった。
だからあえて子供を操りはしなかった。
偽装も、洗脳も、邪念も感じられない、生の感情。
死にたくない、死にたくないと、怯える弱者。
しかも子供の容姿も合わされば、心が正常な人間なら、多少は情が芽生えるだろう。
そして吸血鬼の術中にいないとなると、救出後に操られる危険もなく、リスクも軽減される。
助けるだけの理由を作る。
これが重要だ。
あまりに負担を背負わせ過ぎると、今度は切り捨てられる可能性が出てくるためだ。
見捨てるか、助けるか。
その二択に救出者を追い込むのが、ペーテルの目的だった。
現状は青年に浅くない傷を残し、上々の結果だと言えたが。
(これは、失敗したか……?)
青年から発せられる濃密な闘気。
出血が続いているというのに、明らかに不利だというのに、彼の双眸は爛々と輝き、強固な意志が垣間見える。
追い込まれるほど、真価を発揮する類の人間だ。
逆境に強い人間は嫌いだ。
弱く美しい物こそが至高であり、精神的にも実力的にも優れている物には、美を感じない。
探求し、弱きを愛する吸血鬼ペーテル=ブロゴヨヴィッチは、この戦いが終わりに近い事を予感しながら、再度、青年と対峙した。
あらゆる物を斬り裂く剣。
対処法としては近付かない事が第一だろう。
どんな高威力だろうが、当たらなければ意味を為さない。
幸いにも、道端に転がっているような石ころでさえ、和也が投げれば破壊力抜群の殺傷道具だ。
電撃能力も加えれば、遠距離攻撃能力は充分にあると言える。
よって和也は吸血鬼と向かい合った瞬間。
ペーテル目掛けて突撃した。
「そうきたか!」
ペーテルは目を見開き、口元を緩ませた。
驚愕と歓喜が入り混じった表情だ。
普通に攻略しようとするのなら、接近をしようだなんて発想は初めから捨てる。
下手に近寄れば剣の餌食となり、不老不死の吸血鬼の耐久力を前にして持久戦は不利だ。
剣の脅威も、ペーテルの実力も、既に身を以って知った後。
尚更肉弾戦は選択肢から外れる。
そう、普通は考える。
だから、その逆を突く。
近距離戦は仕掛けてこないと、相手が高を括っている間の隙を、逃さず攻める。
目論みは上手くいった。
反応に遅れたペーテルの左腕を、和也の拳が抉り取った。
剣が横薙ぎに振るわれる。
半身にし、回避。
追える。
吸血鬼の動きも、剣の軌跡も。
剣撃と拳撃の応酬。
「そんなに暴れていいのか! 子供が、死ぬ、ぞ! ぐっ!」
和也は通路を破壊の渦に巻き込んでいた。
無用に物を壊し、被害も考えずに、暴れてしまったら。
超人の暴力に為すすべもなく、吸血鬼の城は崩壊していくだろう。
勿論無力な人間の子や、ドラゴンも巻き添えだ。
そんな当たり前の事を理解できない筈がない。
和也を注視し、ペーテルは死闘を演じる。
しかし、他は先程の戦闘と変化のない内容だ。
命を懸けた戦いだとしても、同じ動作で、数百年を生きる吸血鬼が殺されるわけがなかった。
当然、体術と身体能力で打倒できるとは、和也も初めから思っていない。
異能『結界障壁』を展開。
通路中に四角形、三角形、球体など、様々な形をした小さな壁が出現した。
「無駄だ!」
視界を塞ぐように広がる障壁を排除すべく、ペーテルは剣を縦に、横に斬る。
障害物を増やしたところで、万物を斬る剣の前には無意味だ。
不死身の肉体をフルに活用し、和也の動きを窺いながら、思考する。
無駄な異能の発動に、何かしらの理由があるのは明白。
罠か、馬鹿正直に目眩ましか。
闇雲に斬らず、間合いを一定に保つ。
ペーテルは不意を突かれても、いたって冷静だった。
油断すれば一瞬で殺されるような相手でも、己の鮮血が舞うのを見ても、まるで映画でも見ているかのような感覚で、落ち着いて状況を視ていた。
数瞬の攻防の中、和也がポケットに手を忍ばせ、何かを引き抜くのをペーテルは見逃さなかった。
途端に眼前に結界を張られ、視界が狭まる。
すぐさま斬り捨てるが、既に和也は折れた銀の小刀を、ペーテルの首を狙い、放つ。
刃が半分ないとはいえ、鋭利な刃物だったには違いなく、武器としては充分機能する。
至近距離からの投擲。
迫る凶器。
思考するのを放棄し、反射的に首をあらぬ方向に曲げて、逃げる。
辛うじて反応できたペーテルは見事に躱し、小刀は空を斬る。
骨がスナック菓子並に簡単に折れるが、不死の力があるために、瞬く間に再生する。
迫った脅威から逃れても、一息吐く暇はなく、即座に前方へと意識を戻す。
目前の強敵から目を離せば、一瞬で命が消えるのはペーテルもよく理解していた。
外れた武器を認識から外すのは、妥当な判断だ。
そして回復した左腕から電撃を纏わせ、反撃に移行した。
同時に。
和也は異能『電気』を肉体から迸らせる。
白い光が狭い通路を照らし、激しく音を鳴らす。
この異能の効果は、劣化した現在においては、実質磁力の操作。
それさえ、元の能力より劣る。
操れる重量も、捜査範囲も狭い。
しかし、充分だった。
ペーテルは猛烈な危機感に身を震わせる。
長年の経験だったかもしれない。
生存本能だったかもしれない。
偶然だったかもしれない。
とにかく体を強引に捻じり、振り返って、ソレを剣で叩き落とした。
ソレはペーテルに避けられ、奥に消えた銀の小刀。
これまでは全て仕込みだ。
乱造される結界も、和也の怒涛の体術も、小刀の投擲も、だ。
初めの小刀は当たれば運がいい。おそらくその程度だ。
外れれば、磁力操作で再度後方からの一撃。
単純な戦闘能力に頼らず、小細工にも手を出してきたとなると厄介だが、これで終わりだ。
「まだだよ」
ペーテルの頭上、四角形の結界が展開されていた。
他の結界と違い、中身がある。
外枠と同様の、透明な液体。
認識できたのはそこまで。
展開を解除され、中身が重力に従って降りかかる。
完全に回避する術は、もうなかった。
「ッあああああ!」
体が、肉が、焼ける、溶ける。
外見は普段口にする水と何ら変わりない、透き通った液体だ。
その聖水と呼称される液体を浴びた途端に、吸血鬼の顔面を焼き尽くす。
肉、血、そんな生ぬるいモノを超え、吸血鬼ペーテル=ブロゴヨヴィッチを構成していた全てが、崩壊していくのが解った。
血が垂れ、翡翠の粒子として蒸発し、形を失っていく。
和也が想定した以上に、効果は劇的だった。
妖怪の弱点とはいっても、せいぜい有効な攻撃手段としか思っていなかった。
対妖怪に関して、経験も知識も足りないと改めて認識できる。
これはもはや必殺だ。
命中さえすれば、勝負を決定付けるまでの一撃。
和也は知識不足の影響で答えを捻り出せないが、存外不思議な話でもない。
大抵の妖怪には弱点が設定されている。
そして大抵の弱点には共通事項がある。
戦闘技術は不要。
必要なのは度胸と知識。
自然の猛威にも、狂った人間にも、勘違いの妄想にも、屈したくない負けたくない人の想いが妖怪を造り上げた。
和也のような超人的な肉体でなくとも、魔王のような圧倒的な暴力でなくとも、普通の人間が確実に妖怪を殺せるよう、怪異は存在している。
法則に従えば、確かに妖怪は理不尽でもあるが、それを引っくり返す手段があるのも、また妖怪の特徴だ。
一般人が追い詰められていようとも逆転できる、勝てる。
故に妖怪は弱点を突かれる事に関して、非常に弱い。
吸血鬼の場合は聖水をかぶって、肌が焼かれる、痛みに悶え苦しむ。
傍から見れば水を浴びただけでも、弱点と言うのなら話は別だ。
致命的なまでの極限の苦痛。
それが妖怪の摂理だ。
「まだ、まだ私は終わらんぞ!」
不死の王としての矜持が、彼を突き動かす。
始まりの吸血鬼であり、数百年を生き、知識を得て、未知を知る。
ペーテルが味わっていない未知の快感が世界中にあるというのに、こんなところで朽ち果てては欲望を満たせなくなってしまう。
さらに今は、長年謎だったドラゴンの正体を掴めそうなのだ。
終わらせてなるものか。
塵も同然となった皮膚を引き千切り、聖水との接地部分を強引に消失させる。
剣を持つ腕は原型を無くし、剣と共に、ずるりと地に落ちた。
最大の武器を一時でも失うのは手痛いが、使えぬ腕があっても邪魔だ。
止めを刺そうと迫る和也を、迎え討つ準備を整える。
だが、もう遅い。
和也は横の壁を殴り付けた。
戦闘中に傷付けた個所から罅割れが急速に始まる。
そこから始まる衝撃が、連鎖的に伝わっていき、壁と天井を崩していく。
予想出来ていた和也は無事に離脱し、吸血鬼は岩の濁流に呑み込まれていった。
結界も、銀の小刀のブーメランも、聖水も、全てが布石。
何もかもが、この部屋の下にペーテルを誘導する為の囮だ。
丁度ペーテルの頭上にあった部屋は、超高温の岩が敷き詰められた拷問部屋。
和也が城を探索中に発見した、趣味の悪い一室。
そんな熱の雨が降り注ぐ地点に居たペーテルは、一瞬にして押し潰されていった。
「……火に弱いなら熱にも弱いだろ」
吸血鬼の弱点の一つ、火。
残念ながら本物の火を用意する事はできなかったが、代替は利く。
火に弱い、つまりは熱に弱い。
違いは光があるかないか。
火に包まれるのも、高温の石に覆われるのも、ほぼ同義だ。
(よし、後は男の子を回収して、フリーネさんを助けに行こう。この際壁を壊していけば、時間も短縮できる。……それにしても見回りの妖怪の気配が消えたな。様子でも見てるのか……まあ放っておいてくれるなら、今の内に動くか……)
岩に埋め尽くされた通路を一瞥すると、少年の元に歩き出す。
背中の裂傷は薄い膜が張られ、出血が抑えられてきている。
吸血鬼が語っていたように、和也に再生能力と呼べるモノは備えられていない。
ただし怪物染みた肉体なせいか、傷の治りは異常に早い。
腕が無くなるレベルにもなると、超人的な体でもどうにもならないが、傷は塞げる。
それにあの吸血鬼は強敵であった。
地球に帰還してからも、様々な相手と遭遇したが、その中でもトップクラスに厄介な敵だ。
五分五分の状況を楽しみ、外道な手段を躊躇なく行い、数百年という経験から裏打ちされた実力。
どれを取っても、油断ならない妖怪だった。
異世界での魔王軍は搦め手を好まず、戦いの方向性が、彼らと吸血鬼とでは違っていたので、余計にやりにくかった。
「………………」
結果は和也の勝利で終わったが、未だに言い様のない不安感が胸を圧迫する。
吸血鬼ペーテル=ブロゴヨヴィッチ以上の脅威が存在しているのか、それとも。
目を瞑り、雑念を打ち払う。
今更敵の戦力を想定し直しても、どうにもならない事だ。
目前の敵を、全力を以ってして排除し、フリーネを救出する。
そう思い、目を開く。
「終わったと思ったか?」
直感的に、和也は体をずらした。
しかし既に遅かった。
和也の右腕が宙に舞い、切り口からは夥しい量の鮮血が噴出。
声の主はペーテル=ブロゴヨヴィッチ。
視認した彼の姿は、酷く焼けただれ、臓器も骨も外に露出している無残な姿だ。
だが瞳は生気に溢れ、確かな活力があった。
なぜ?
どうして?
頭を駆け巡る疑問よりも早く、咄嗟に和也は動く。
腕を失った激痛を認識する間、剣を腕ごと捥ぎ取り、斬られた腕を口に咥え、全速力で離脱しようと試みるが。
ペーテルの雷撃が空間を光で包む。
戦闘の影響で脆くなっていた壁や天井が崩壊し、和也を巻き込む。
上の階が偶然にも、人間の血を貯蔵する倉庫だったせいで、瓶や樽に保存されていた物が落下の衝撃で瓦礫を赤く彩る。
破壊の後、残されたのは静寂。
溢れる赤い液体が、ペーテルの足元にまで届く。
念の為身構えるも、一向に青年の姿は見えてこない。
全く音がしなくなったのを確認すると、ほっと息を吐く。
「せっかく溜めていた血が……まあいい、集め直せばいいだけだ。それにしえもようやく終わったか。いや疲れた疲れた」
一気に疲れが押し寄せる。
いくら傷が再生するとはいっても、精神的な疲労や体力はどうにもならない。
全神経をすり減らしての、何とか掴み取った勝利だ。
「頭部を咄嗟に剣で庇わなければ、彼に妖怪の知識があれば、確実に死んでいたな。火に弱い生き物だったら、今ので終わりだったが……。残念な事に吸血鬼の弱点に熱などありはしないぞ」
吸血鬼の弱点は、太陽光、火。
其処に熱というエネルギーは含まれてはいる。
けれども、吸血鬼が苦手とするのは太陽であり、火であり、熱ではない。
太陽、火という概念が吸血鬼を殺す。
形成する要因は一切関係ない。
どんな伝承にも、吸血鬼を殺す手段に、熱など記されていない。
人間に弱点と認識されていなければ、それは弱点になりえないのだ。
妖怪は、生き物の形状をした何かだ。
どんなに人の形をしていようが、人とは違う法則に従って生まれた現象だ。
あくまで彼らは怪物で、化け物で、怪異。
不死身の怪物には、不死身の怪物の殺し方がある。
生き物の殺し方では殺せない。
その差異が、勝敗を分けた。
「しかしこの戦闘能力で、妖怪の知識もないとなると……エクソシストやら島国のニンジャなら、こんな初歩的な過ちは絶対にありえない。修羅場馴れした若者が、急に出現したのも不可解だが……」
ペーテルが興味深そうに呟く。
対妖怪のプロフェッショナルなら、起こる筈もない失態だ。
妖怪を斃す手段は、大まかに二つ。
一つ。
服部武蔵が所有する超戦士装甲は、対象を塵と化す超火力の光剣を装備している。
甲賀忍者は自動操作の機械人形による、銃火器の一斉掃射で妖怪を撃滅していた。
妖怪の弱点からかけ離れた、質量と物量の力押し。
これは妖怪に有効だ。
弱点は非力な人間でも殺せる、というだけで、普通の妖怪は弱点以外の手段でも充分に対応可能だ。
不死身の特性持ちの妖怪以外は、大抵肉体ごと消し飛ばせば、死ぬ。
二つ。
伝承に残る、妖怪の弱点を突くこと。
これは非常に有効だ。
弱い部分を攻撃すれば、不死身だろうが何だろうが討伐できる。
不死身系の妖怪は例外なく、弱点を攻められる。
そうでないと不死身に勝てないからだ。
「そのどちらとも仕掛けてこなかった、となれば。妖怪に関しては素人か。ふむ……もしや」
離れ離れになっていたピースが連なり、一体化したような感覚。
ペーテルには心当たりがあった。
「勇者、か。例の異世界帰りというのが本当だとしたら、それが妥当と云ったところかな。まさか現代で英雄と相見える事となろうとは……長生きもしてみるモノだ」
異世界から帰還した勇者が日本に居る。
それだけはペーテルも知っていた。
興味はそそられたが、何分確定情報でもなかったので、記憶の奥に忘れ去られていた。
ここ数か月の間に、突如として現れた怪物の説明を付けるには、荒唐無稽だとは思ってはいる。
だとしても、異世界帰りの勇者、これが一番納得がいくものだった。
「妖怪の知識さえ、あればな。私も簡単に殺されてしまっていただろうが……残念だったな、勇者君」
勇者と言えど、妖怪に疎いとこうなってしまう。
どんなに力があっても、妖怪相手には足りないのだ。
ペーテルは少し考え込むと、遮る壁がなくなり、強度に不安が残る上階を見た。
自問自答の末、満足のいく答えを導き出せた。
もう此処に留まる意味は消え失せてしまった。
瓦礫や死体の片付け、剣の回収もしておきたいが、ひとまずドラゴンの様子を見に戻っておく。
野放し中の少年は仲間に回収させる。
放っておくと見回りの妖怪に喰われて、悲鳴を聞いたドラゴンが激怒、などという最悪の展開は避けたい。
進撃を続けている魔王の対処も必要だ。
ペーテルにとって最高の環境であった城とは打って変わり、敵は外。
魔王などという凶悪そうな肩書きも考慮すれば、勇者に通じた戦法は避けるのが無難だろう。
「魔王にはあの二人を使えば何とかなるか? いやこれ以上戦力を割くのは危険か。しかし現在の手駒でアレを斃せるとも思えん……まったくこれだから隙のない強者は嫌いだ。………む?」
静まり返っていた空間に、ペーテル以外の何かが音を発した。
其処は勇者、桐生和也が埋まっていた地点。
石ころが転がり、血が滴って、岩の破片が震える。
明らかに生きた何かが、瓦礫の下にいる。
そして何かなんていうのは、あの青年に決まっていた。
次の瞬間、轟音と共に、瓦礫は吹き飛び、粉塵を撒き散らす。
ペーテルは臆さず、前方を凝視し、舌打ちする。
片腕を無くし、血に塗れ、肩で息をする青年。
あれほどの傷を受け、まだ倒れないのか。
何が彼をそこまで駆り立て、突き進ませせるのか。
そう思わずにはいられない圧迫感が、肌にひしひしと伝わってくる。
客観的に見て、負ける要素がない。
それでも、ペーテルから見れば、勝てる要素が見当たらなかった。
「何故、お前は立ち上がる」
「……下手だけど、確かに呼ぶ声が聴こえた。連れて帰ったら練習かな」
ペーテルが知る勇者とは、せいぜい御伽話上で架空の存在だ。
英雄と遭遇した経験は一度もない。
確かに桐生和也の戦闘能力の高さは身を以って感じた。
しかしそれは腕っ節の強さであり、勇者の強さではない。
勇者の名を持つ意味を、ペーテルは知らない。
勇敢な行いをした者、偉業を成し遂げた者、言葉の意味は知っている。
だが彼はあまりにも、知らな過ぎた。
桐生和也を。
『世界を救った勇者』を。
「また、始まった……?」
口笛の練習を止めて、フリーネが心配そうに上を見つめた。
天井から振動し、埃がひらひらと落ちてくる。
一旦静かになったと思ったらこれだ。
人質の少女を眺めながら、いざとなったら庇えるように態勢を整えておく。
問題の根本的な解決には至らないが、無関係の少女が傷つくのは嫌だ。
首元に突き付けているナイフも、見ているだけで痛々しく、フリーネの心が軋む。
心配そうに少女を瞳に映すフリーネだったが、ここである事に気づく。
(うわ、あの本危ないなぁ。今にも落ちそう……)
少女の背後にある本棚のてっぺん、そこから本が落ちかかっている。
ペーテルがフリーネの暇潰し用に用意した物だ。
本人が微塵も興味を示さないので、無用の長物となっていた。
そこで、ある事が頭をよぎる。
――あれをターちゃんの頭に落っことしたら、どうなるんだろう?
フリーネは直接手を下せない。
だから周りの物を利用してどうにかするしかない。
丁度いい事に、本もそこそこの重量がありそうだし、あれが頭に落ちたら、気絶ぐらいしそうだ。
意識を失えば、催眠術も途切れてしまい、フリーネも自由に動ける。
そうすれば此処からも解放され、少女も救出でき、吸血鬼も斃せる。
一石三鳥だ。
我ながら名案だと思った、が。
(あ、でもどうやってあの位置にまで移動させればいいのかな? 今の場所だと、ちょっとずれてるし)
いくら背後にあるとはいえ、微妙に距離が空いている。
ピンポイントで狙うには少々無理があった。
自分の作戦が早々に不可能だと悟り、がっくりと肩を落とす。
「…………」
フリーネの突然のリアクションに少女が一歩下がる。
催眠術の支配下による物とはいっても、距離を置かれて地味に心が痛くなった。
子ども大好きドラゴンには、意外とくる物がある。
そういえばフリーネが何かしらの行動をすると、少女は反応して、距離をおいたり、ナイフを首に刺そうとしていた。
腕を組み、唇を尖らせ、なけなしの知恵をフル回転させる。
少女に触れようとするのは駄目。
部屋を出ようとするのも駄目。
ドラゴンに変身するのも駄目。
フリーネが近づこうとすると、ナイフが自然に押し付けられてしまうので、力づくも駄目。
この何重もの制限の中で、少女を無力化するには――
おもむろにフリーネは椅子から立ち上がって、少女に近寄ったり、遠ざかったりと試す。
するとどうだ。
少女は面白いように、一定の距離を保とうと、フリーネと同時に移動し始めるではないか。
ナイフの間隔が縮まったり、移動自体も大した程ではないが、それでも充分だった。
これは使えるかもしれない。
「ふぅん……」
フリーネは、それこそ悪役のような笑みを浮かべ、少女の救出へと行動を開始した。
更新が遅くて申し訳ございません。
次回でVS吸血鬼は終わりです。4章は残り2話ほどになりそうです




