翌春
平塚原の翌春。結城は帰ったが、佐竹の釘は片野と柿岡に残っている。丘の塩が初めて桶になり、太田の物見が道を試す。
春になって、朱羅が谷から戻ってきた。
手には油紙の封が三つ。いつもより厚い。藤沢の裏に並べた丘のうち、一番古い背の表面を削り、煮て、朝まで置いたものだ。
「桶になりました」
土浦の部屋で、氏治が封を受け取る。去年までは椀だった。三十挺の口を、霧の朝に八つだけ生かす分が、一季節では減りきらない。
「城へは入れるな」
「入れません。谷に置きます」
岡見治資が扉の外で聞いていた。入ってきて、封ではなく氏治の顔を見る。
「結城は帰りました。次は片野です。釘を抜くなら、今です」
「抜かない」
「太田は城を太くしています。このままでは、また城下が焼かれます」
「焼く手が来る道は、もう汚してある。城は取りに行かない」
治資は黙って出た。怒りは、平塚の夜より小さい。それでも残っている。
十日後、その道に人影があった。
片野から下りてきた物見が十騎。荷はない。焼くためではなく、小田の鉄砲がまだ居るかを見に来ている。太田資正は、平塚で結城が何もできずに帰ったと聞いている。聞いたうえで、自分の目で確かめる老人だ。
朱羅は六挺を窪に伏せた。同時に開ける火は、今日は四つまでと言う。
「人は撃たないでください。馬の前の杭だけです」
若い者が頷く。雨覆を前に倒し、火蓋はまだ閉じている。春の霧は薄い。防雨式なら、このくらいの湿りは持つ。
十騎が畦の細い場所へさしかかった。音が二つ。杭の頭が欠け、先頭の馬が跳ねる。もう二つは来ない。物見が窪を見ても、窪は空だ。火縄の匂いだけが残る。
十騎は杭の欠けた道を、北へ戻っていった。
夕方、治資が報告を聞きに来た。
「追いませんでした」
「追わなくてよい。戻った、で足りる」
「太田は、また来ます」
「来る。来るたびに、杭が一本欠ける。城を取りに行けば、坂の上で待たれる」
信太が帳面を持ったまま言った。
「村は動いていません。結城が帰ってから、佐竹へ流れた家はありません」
「流れる前に、道が汚れているからです」
朱羅は棚の封を一つ戻した。今日は四発。桶は、ほとんど減っていない。
若い鉄砲持ちが聞いた。
「片野は、このままですか」
「このままです。釘は抜けない。錆びて、道が遅くなればよい」
氏治は窓の外を見た。東の空に、片野の台は見えない。見えない場所で、太田が今日の報告を聞いている。鉄砲はまだ居る。数は分からない。小田の本隊は、また原に出てこない。
春の丘は、表面を削られたあとも背中を残している。来年も、同じ高さで塩を覚える。結城は帰った。佐竹は帰っていない。帰っていない相手を、城ごと取りに行かない春だった。




