10.いないはずの竜
いつの間にか、二人のそばに鋭い目つきをした全身赤黒い竜がいた。
暗い赤の瞳はぎょろりとして大きく、最初に出遭った狼の魔物より危険そうだし、怖い。
二階建ての家よりも高く大きく、背後には尾もあるが長くて先が見えなかった。ついでに言えば、かなりの太さ。
そんな図体だから手足も太く、手(前脚と呼ぶべきか)には「きっと切れ味がいいんだろう」と思われる鋭い爪。特大サイズの鎌みたいだ。
さらには、その背中に大きな翼まで付いて。
こんな大きな生物が、まるで気配も感じさせずに現われていたのだ。
師匠のうそつきぃ。竜はいないんじゃなかったの? 存在は確認されていないって、言ってたじゃない。こんなフェイント、なしよぉ。
竜を見てみたい、と思っていたキャルンだが、さすがにその大きさと迫力に呆然となる。
それに、残念ながらどう見ても、相手の目は友好的なものではない。いくらキャルンでも、ここで楽観はできなかった。
竜は十中八九、こちらをエサとして見ているのだ。竜が人間を喰う、という話は聞いたことがないが、キャルンが知らないだけかも知れない。
人間を捕食対象としている竜が存在する、ということを。
今落ちて来た所を上がって……逃げられるかしら。
キャルンはすぐに、逃走経路を頭の中で描いた。
落ちて来た段は高くないから、キャルンやスィードでも楽に上がれる。その後は、今まで歩いて来た道をたどり、とにかくふもとを目指して一目散に走るしかない。
ただ、ずっとレオスタークと話しながら歩いていたので、自分達がどれくらいの距離を歩いて来たのか、よくわからなかった。
人があまり入らないような山なのだから、もっと獣道みたいな所を通ると想像していたのだが、レオスタークは歩きやすい道を通ってくれていたような気がする。何かにつまづいた覚えがない。
とは言え、それがふもとまでの最短ルートかどうかは別の話。
それよりさらに問題なのは、この竜の追って来る速度がどれくらいか、ということだ。
身体が大きいと動きは鈍い、というのはありがちだが、ざっと見た感じでは筋肉もしっかりついていそうだ。
ということは、走ってもそれなりのスピードが出る可能性がある。
飛んで追って来る、ということも想定しておくべきだろう。あの大きな翼が、単なる飾りとは思えない。
あれこれと考えるキャルンだったが、逃走経路もへったくれもなかった。
こちらが逃げる構えも見せないうちから、竜はいきなり火を吐いてきたのだ。
とっさにキャルンは、防御の壁を出す呪文を唱えていた。
「うわっ」
スィードは頭を抱えて地面にうずくまったが、火の熱さは感じない。
不思議に思ったスィードがそっと頭を上げると、キャルンが防御の壁で竜の火から守っていた。
よく不発に終わってしまうキャルンの魔法が、今はちゃんと発動してくれたのだ。
あねきって、本番に強いタイプなんだ。
そんな場合ではないが、スィードはちょっとばかり感心していた。あの狼に向けた火の魔法を思い返せば、すごい差だ。
しかし、ずっと感心してはいられない。
防御の壁を支えるかのように、腕を前に突き出しているキャルンだが、その腕がだんだんと震え始めた。
竜はキャルンが壁を出しても火を吐くことをやめず、その勢いにキャルンの力が押されている。
少女が必死に押さえるドアを、大男が力ずくでじわじわ押し開こうとしているようなものだ。
「スィード、逃げて……」
キャルンが声を絞り出す。
「あねき……」
「真っ直ぐ走れば、何とかなるから」
本当に何とかなるかは、わからない。とにかく、助かるための第一歩は、ここから……竜のそばから逃げるしかないのだ。後は、運次第。
キャルンが汗を流し、必死に耐えている。なのに、スィードには何もできない。キャルンの作る見えない壁から少しでもはみ出せば、竜の火に焼かれてしまい、彼女に手を貸すどころではなくなる。
その壁も、自分達がかろうじて隠れられる程度の小さなものだ。
それでも、キャルンの真後ろから真っ直ぐに走れば、あるいはこの場から逃げられるかも知れない。
だからと言って、スィードがこのままキャルンを置いて逃げられるはずもなかった。
竜に肺活量というものは、存在するのだろうか。吐くと言っても、口から出ているというだけで、息と火ではそもそも出る仕組みが違うのか。
そんなことを考えてしまう程、竜は一度も息継ぎをすることなく火を吐き続ける。
一度くらい火を止めてくれればいいのに、ずっと攻撃されっ放しで体勢を整えることもできない。
ただでさえ半人前のキャルンには、これ以上壁を維持することは困難だった。
壁が……消えちゃう……。
結界と防御の壁では、出していられる時間が違う。
どちらも攻撃から守る手段ではあるが、長く保つことを前提とした結界と瞬時に身を守る盾代わりの壁は別物。壁を長時間出していることは、魔法使いにとってはかなり酷なことだ。
壁が薄れてゆくのが、術者のキャルンにははっきりわかった。完全に消えれば、いや、完全に消える前に壁が割れてあの火が自分達を黒焦げにしてしまう。
この勢いからすれば、こんがり焼けるのはあっという間だ。残るのは、炭か灰か。
もうっ。何やってんのよ。あたしってば、根性なしっ。
自分にハッパをかけようとしても、限界はもう見えていた。
振り絞れるだけ絞った力が、尽きようとした瞬間。
キャルンの目の前で、何かがきらめいたように思えた。
え……何?
それが竜の気をそらし、火が弱まる。いや、完全に遮断されていた。
「来いっ」
きらめいたそれが何かを確かめる暇もなく、キャルンはいきなり手首を掴まれて引っ張られる。それは、スィードも同じだった。
とにかく「逃げられるチャンスらしい」ということだけは、酸素不足になりかけの頭でもわかり、キャルンは必死に足を動かす。
後ろから竜が吠えているのが聞こえ、今更ながらに背中が寒くなった。
☆☆☆
誰? スィードじゃないし、レオスターク……でもなさそう。まさか……。
転ばないように走るのに必死で、前も横もあったものではない。
引っ張られるままに走っているキャルンには、スィードどころか自分がどういう状態で動いているのかも怪しかった。自分の状態も体勢も把握できない。
やがて、小さな洞窟が現われ、そこへ駆け込む。
キャルンとスィードはようやく手を離され、地面に座り込んだ。肩で息をし、のどの奥がからからになって、変な呼吸音が出る。
少ししてようやく顔を上げると……軽く呼吸を乱しながらも、目の前で仁王立ちになっているフェルーニがいた。
「ししょ……」
「少しは懲りたか」
「ごめん……なさ……」
かすれた声で、それでもどうにかキャルンは謝罪の言葉を口にした。
目が怖い。フェルーニをこんなに怖いと思ったのは、初めてだ。これなら、いつものように怒鳴られる方がいい。
いっそ「こんな無茶しやがって」と頬でも叩かれる方がましだ。
「山を降りたら、村へ帰れ」
「師匠!」
いつも口にする言葉だが、今のフェルーニの口調は完全に本気だった。
「俺は弟子の訃報なんか、聞きたくない。師匠の忠告一つすら聞き入れないような弟子も、必要ない。そんな奴がいたら、迷惑だ」
今思えば、あっという間に時間が過ぎたような気がする。だが、キャルンはさっき、確かに殺されかけたのだ。
フェルーニが「危険だから行くな」と言った山へ、勝手に来たために。
今はフェルーニが間一髪で二人を見付け、助けてくれた。わずかでも遅れていれば、竜の火で二人は焼死だ。
師匠の言うことを聞かなかったために。
「待ってくれよ、フェルーニ。オレがあねきを巻き込んだんだ。だから、あねきは悪くないっ。オレがあねきにどうしてもって無理言って、一緒に来てもらったんだから」
フェルーニの言葉に、キャルンよりもスィードの方が青くなって慌てる。
予期していたことが、現実になってしまった。このままキャルンが破門になったら、彼女の将来を台無しにしかねない。
そんなスィードの気持ちを知ってか知らずか、フェルーニはあっさり言い返した。





