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47『真相 3』


二人とも、何も言わなかった。


しばらくの間、応接室には重い沈黙だけが残っていた。


佐々木の膝の上では、握りしめられた拳がそのままになっている。


まいの父親。


姉の麗子。


そして、入院することになった母親。


ほんのわずかな期間に、まいが失ったものはあまりにも大きかった。


佐々木は何度も頭の中で、これまで自分が見てきたまいの姿を思い返していた。


明るく笑う姿。


周囲の人間を気遣う姿。


自分にまで優しく声をかけてくれた姿。


あの笑顔の裏に、これほどの過去が隠されていたとは思いもしなかった。


やがて橘が、静かに口を開いた。


「そして――」


佐々木が顔を上げる。


「そのあとだ」


橘はテーブルの上に置かれていた別の資料へ手を伸ばした。


「謙が事故に遭った」


「高木さんが……」


佐々木の視線が資料へ向く。


「ああ」


橘は短く答えた。


その表情には、それまでとは少し違うものが浮かんでいた。


まいの家族に起きた出来事を語っていたときとは違う。


今度は橘自身の、古い友人の話だった。


「事故そのものは大きかった。だが、幸いなことに命に別状はなかった」


佐々木は小さく息を吐いた。


しかし橘の表情は変わらない。


「ただ……」


橘が言葉を止める。


「謙は記憶を失った」


「記憶喪失……」


「ああ」


事故による記憶喪失。


命は助かった。


身体も回復し、やがて退院することができた。


だが――。


事故の前まで謙太郎の中にあったはずの記憶は、大きく失われていた。


橘は一度、視線を落とした。


「俺が謙と再会したのは、あいつが退院してからだ」


「退院後に?」


「ああ」


橘は頷いた。


「何年ぶりだったかな……。ずいぶん長いこと会ってなかった」


高校時代。


橘と謙太郎は同級生だった。


そして、同じ陸上部で汗を流した仲間でもあった。


毎日のように一緒に練習をした。


互いに競い合ったこともある。


練習が終われば、くだらないことで笑い合った。


高校を卒業し、それぞれが別の道を歩くようになってからは、いつしか会うこともなくなっていた。


だから橘にとって、その再会は本来なら懐かしいものになるはずだった。


何年離れていようと、顔を見れば昔のように話せる。


橘の中には、そんな思いもあった。


しかし――。


「久しぶりに会った謙は……俺のことを覚えてなかった」


佐々木が橘を見る。


「橘さんのことも?」


「ああ。一切な」


橘はわずかに苦笑した。


だが、その笑みには寂しさしはなかった。


「俺にとっては何年ぶりかに会う昔の友人だ。でも謙にとって俺は……知らない男だった」


「……」


「俺が名前を言っても、高校の同級生だったって話しても、同じ陸上部だったって言っても……駄目だった」


橘は自分のこめかみを指先で軽く叩いた。


「ここに、俺はいなかった」


佐々木は何も言えなかった。


記憶を失った本人の苦しみはもちろんだ。


だが、覚えている側にもまた、違う辛さがある。


同じ時間を過ごしたはずなのに、その思い出を共有する相手から自分だけが消えている。


「正直、きつかったよ」


橘はぽつりと言った。


「何年ぶりかの再会なのに、『久しぶり』じゃなくて『初めまして』みたいなもんだからな」


それでも橘は、謙の前で昔の関係を無理に押しつけることはしなかった。


覚えていないものを、覚えているふりなどできるはずもない。


ならば――。


もう一度、そこから関係を作るしかなかった。


橘は小さく息を吐く。


「ただ、問題は謙が記憶を失ったことだけじゃなかった」


佐々木の表情が引き締まる。


橘の声から、個人的な思いが消えていく。


再び刑事の顔に戻っていた。


「そのあとも、謙は命を狙われた」


「退院したあともですか?」


「ああ」


橘は頷いた。


「交通事故に見せかけてな」


佐々木の眉が寄る。


「また事故……」


「そうだ」


偶然の交通事故に見せかける。


それは、ここまで橘たちが追ってきた事件と同じやり方だった。


「危うく大事故に巻き込まれるところだった」


橘の声が低くなる。


「一歩間違えば、今度こそ命を落としていたかもしれない」


「そんな……」


一度事故に遭い、その事故で記憶まで失った。


それなのに――。


何者かは、それでも謙を放っておかなかった。


佐々木はテーブルの上に並ぶ資料を見つめる。


「でも、どうしてそこまで高木さんを……?」


橘は少し間を置いた。


「謙が連中にとって、それだけ邪魔な存在だったってことだ」


「……」


「記憶を失っていても関係ない。連中からすれば、いつ何かを思い出すか分からない」


記憶のどこかに残っているもの。


思い出されては困る何か。


だからこそ――。


謙は記憶を失ってなお、狙われ続けた。


「それから、謙とまいちゃんは北海道へ行った」


佐々木が顔を上げる。


「北海道……」


「ああ」


東京を離れ、遠く北海道へ。


少なくとも、それまで二人がいた場所から離れることになる。


だが――。


それでも、追跡は終わらなかった。


橘は眉間に皺を寄せた。


「北海道で、襲撃事件が起きた」


「そこまで……追ってきたんですか?」


「ああ」


橘は迷うことなく答えた。


「場所を変えたって関係なかった。北海道まで行っても、二人は襲われた」


佐々木は絶句した。


東京から遠く離れた北海道。


そこまで追いかけてくる。


もはや偶然などという言葉が入り込む余地はなかった。


明確な意思を持った何者かが、謙とまいを狙い続けている。


佐々木はここまで聞いた話を頭の中で整理しようとした。


病院内で行われていた横領。


それに気づいた麗子。


横領の濡れ衣。


父親の死。


麗子の事故死。


そして謙の事故。


記憶喪失。


退院後も続く命の危険。


北海道での襲撃。


あまりにも多くの出来事が、一つにつながっている。


しかし――。


だからこそ、一つの疑問が浮かんだ。


「でも……」


佐々木が口を開いた。


橘が視線を向ける。


「そこまで分かっているんですよね?」


「ああ」


「横領のことも、事故のことも。それだけ捜査が進んでいるなら……」


佐々木は少し考えてから尋ねた。


「会社の上層部は?」


橘は即座に答えた。


「全員逮捕した」


「全員……?」


「ああ」


橘は頷いた。


「横領に関わっていた上層部の人間は、全員逮捕されてる」


佐々木の表情がわずかに緩んだ。


ならば――。


終わったのではないか。


事件を起こした人間たちが全員逮捕されたのなら、少なくとも謙やまいがこれ以上狙われる理由はないはずだ。


しかし。


その考えは、すぐに消えた。


今も二人には護衛がついている。


橘も篤志も警戒を解いていない。


何より――。


二人はこの事件を、一度も「終わった事件」として話していない。


佐々木の表情から安堵の色が消えていく。


橘は、その変化を見ていた。


「……全員捕まったなら、もう終わったはずだ。そう思うよな」


佐々木はゆっくりと頷いた。


「はい」


橘の目が鋭くなる。


「終わってない」


短い言葉だった。


だが、その一言で応接室の空気が変わった。


篤志も黙ったまま、橘を見ている。


「一人だけ――」


橘はテーブルの上に積まれた資料へ手を伸ばした。


「まだ捕まっていない奴がいる」


佐々木の視線が、その手を追う。


橘は何枚かの資料をめくり、その中から一枚だけを抜き取った。


「そいつが、裏で指示を出していた」


橘の声が低くなる。


「だが、指示を出すだけの人間じゃない」


「……どういうことです?」


佐々木が尋ねる。


橘は答えながら、その一枚をテーブルの中央へ置いた。


「必要なら自分自身で動く」


佐々木の目が細くなる。


「つまり……実行犯でもある?」


「ああ」


橘は資料を佐々木のほうへ滑らせた。


スッ――。


静かな部屋に、紙がテーブルを擦る音が響く。


佐々木はゆっくりと視線を落とした。


資料には、一人の男の名前が記されていた。


橘はその男の名前を、はっきりと口にした。


「杉田哲也」


佐々木の視線が止まった。


橘は続ける。


「こいつが――」


一瞬の間。


「すべての指示役であり、実行犯だ」


カチッ――。


壁時計の秒針が一つ進んだ。


佐々木は資料に記された名前から目を離せない。


杉田哲也。


病院内の横領から始まり、いくつもの事故と死を経て、今なお謙太郎とまいを脅かしている男。


そして――。


まだ、捕まっていない。


応接室の白い蛍光灯の下で、佐々木はその名前をじっと見つめていた。

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