48 『報告書』
話し終えた橘は、壁に掛けられた時計へ目を向けた。
時刻は、深夜一時を回っていた。
いつの間にか、ずいぶん時間が経っていた。応接室の窓は暗く、ガラスには、向かい合って座る三人の姿と天井の照明が映り込んでいる。廊下を行き交う足音も、今はほとんど聞こえなかった。
橘は背もたれに体を預け、ゆっくりと息を吐いた。長く話していたせいか、喉が少し乾いていた。
「さあ……そろそろ帰るか」
そう言いながらも、すぐには立ち上がらなかった。向かいに座る篤史と佐々木を、改めて見据える。
「篤史、佐々木。これが、今まで俺たちが追ってきた事件の真相なんだよ」
篤史は口を結んだまま、小さくうなずいた。佐々木も顔を上げたが、何か言いかけるように唇を動かしただけで、言葉にはしなかった。
「そして、俺たちが追っているのは杉田鉄也……こいつなんだ」
橘の声に、二人の表情が引き締まった。
これまで断片的にしか見えていなかった出来事が、橘の話によってつながった。その中心にいる男の名を聞き、佐々木は膝の上で組んでいた手に力を込めた。
橘は、その様子を見逃さなかった。
「でもな、佐々木」
「はい」
「絶対に突っ走るなよ。いいな」
佐々木の目を見たまま、念を押す。
「真相が見えたからって、一人でどうにかできると思うな。これはチームでやっていかないと、絶対に奴には勝てない」
佐々木は背筋を伸ばした。
橘の口調は厳しかった。しかし、ただ若い刑事の逸る気持ちを抑えようとしているのではないことは、その顔を見れば分かった。
「俺も、苦い飯を食わされたからな」
そこで、橘はわずかに視線を落とした。
思い返したくないことまで、今夜は二人に話した。その記憶がまだ胸に残っているのか、しばらく言葉が続かなかった。
佐々木は橘を見つめていた。いつもならすぐに返事をするところだったが、今は軽々しく答える気になれなかった。
「……分かりました」
やがて、そう言ってうなずいた。
橘はもう一度、佐々木の顔を確かめた。それから、膝に手を置いて立ち上がる。
「よし。じゃあ、帰ろう」
篤史と佐々木も席を立った。長い間座っていた体を動かすと、疲れを思い出したように肩が重く感じられた。
三人は応接室を出て、自分たちのデスクがある部屋へ戻った。
日中は電話の音や話し声が絶えない室内も、この時間になると静まり返っている。照明に照らされた机の上には、書類の束や使いかけの筆記具が残されていた。三人の靴音と、衣服の擦れる音が、いつもよりはっきりと聞こえた。
自分のデスクまで戻った橘が帰り支度を始めると、少し後ろから佐々木が声を掛けた。
「橘さん」
「ん?」
「俺、報告書がまだでした」
佐々木は自分の机を見ながら言った。
「今日、ここに泊まっていきますから。お二人は先に帰ってください」
隣で荷物を手にしていた篤史が、動きを止めた。
「佐々木、お前、さっき書き終わってたんじゃないの?」
「はぁ……」
佐々木は少し気まずそうに眉を下げた。
「なんて書こうか悩んでて……」
視線の先には、途中まで手を付けた報告書があった。机には向かっていたものの、考え込むばかりで、思うように進んでいなかったらしい。
篤史は佐々木の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫かぁ?」
からかうような響きの中にも、心配がにじんでいた。こんな時間まで残って、また一人で抱え込むつもりではないか。そう確かめるような目だった。
佐々木は顔を上げた。
「でも、もう大丈夫です。完全に吹っ切れましたから。しっかり書いていきますんで」
先ほどまでのためらいを振り払うように、はっきりと答えた。
篤史は、その言葉にわずかに首をかしげた。
「何が吹っ切れたんだか……」
小さくこぼしながらも、佐々木の表情を見て、それ以上は問い詰めなかった。
橘が二人の間に声を挟む。
「まあまあ。じゃあ、篤史、俺たちは先に帰ろう。車で送っていくから」
「ありがとうございます」
篤史は橘へ向き直り、軽く頭を下げた。
橘は荷物を持つと、佐々木のデスクの前で足を止めた。
「じゃあな、佐々木。無理しないで、早く休めよ。いいな」
帰りを促した時とは違う、落ち着いた声だった。
佐々木は橘を見て、うなずいた。
「ありがとうございます、橘さん」
その横から、篤史も声を掛ける。
「佐々木、頑張れな」
「はい、栗原さん。お疲れ様でした」
佐々木は二人に向かって頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
いつもより深く下げられた頭を見て、篤史は少しだけ表情を和らげた。
橘が扉を開け、篤史がその後に続く。廊下へ出た二人の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
佐々木は顔を上げ、その姿を見送った。
扉が閉まり、足音が聞こえなくなっても、しばらくはその場に立っていた。
先ほどまで三人で話していた部屋が、急に広く感じられた。机の並ぶ室内には、もう誰の声もない。かすかな空調の音だけが続いている。
佐々木は静かに椅子を引き、腰を下ろした。
デスクの上の報告書を、自分の正面へ寄せる。
書きかけの文章に目を落としたが、すぐには続きを書かなかった。応接室で聞いた話と、帰り際の橘の言葉が、まだ頭の中に残っていた。
――絶対に突っ走るなよ。
佐々木は一度、閉じられた扉を振り返った。
そして、再び机へ向き直ると、報告書をじっと見つめた。
警察署の外へ出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。
長い時間、明るい室内にいたせいか、駐車場の暗さに目が慣れるまで少しかかった。建物の窓には、まだ明かりのついている場所がいくつかある。橘は歩きながら、そのうちの一つへ目を向けた。
佐々木は今頃、机に向かっているのだろう。
帰り際の、妙にすっきりとした顔が頭に浮かんだ。
「橘さん?」
隣を歩く篤史の声に、橘は視線を戻した。
「ああ。こっちだ」
駐車場に並ぶ車の間を抜け、自分の車の前で足を止める。ドアの取っ手を握ると、ガチャッと短い音がして、鍵が開いた。
橘は運転席のドアを引いた。篤史も反対側へ回り、助手席に乗り込む。
二人がドアを閉めると、外の空気が遮られ、車内は急に静かになった。
橘は荷物を置き、シートに座り直してからシートベルトを引いた。篤史もそれに続く。金具が留まる小さな音を確かめ、橘がエンジンをかけると、低い振動が足元から伝わってきた。
暗かった計器盤に明かりがともり、フロントガラスの向こうに、ヘッドライトで照らされた駐車場が浮かび上がる。
橘は周囲を確認して、ゆっくりと車を動かした。
駐車場の出口でいったん止まり、左右へ目を向ける。深夜の道路に車の姿は少なく、少し離れたところを一台のタクシーが通り過ぎていった。
その後に続くように、橘はハンドルを切った。
車は警察署の敷地を出て、一般道へと滑り込んでいく。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。
車内にはエンジンの音と、タイヤが路面を転がる音が穏やかに響いていた。街灯の下を通るたび、二人の顔に淡い光が差し、すぐにまた暗くなる。
篤史は背もたれに体を預け、窓の外を眺めていた。営業を終えた店のシャッターや、人のいない歩道が、次々と後ろへ流れていった。
「篤史」
橘が前を向いたまま声を掛けた。
「はい」
「佐々木を見ているとさ、昔のお前を見ているような気になるんだよ」
篤史は窓から視線を戻し、橘の横顔を見た。
「ええ? 俺、あんな感じでしたか?」
「同じだよ」
迷いのない返事に、篤史は思わず笑った。
「そんなことないと思うんだけどなぁ……」
「自分じゃ分からないもんだよ」
橘の口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。
篤史は何か言い返そうとしたが、少し考えて、そのまま口を閉じた。昔の自分にも、周りが見えなくなるほど事件のことばかり考えていた時期はあった。
それを橘が覚えているのだと思うと、否定しきれなかった。
前方の信号が赤に変わり、橘はゆっくりと速度を落とした。停止線の手前で車を止めると、フロントガラス越しに赤い光を見上げる。
「今、なんとなく佐々木が心配なんだよ」
先ほどよりも低い声だった。
「無茶しなければいいんだがな……」
篤史の顔からも、笑みが薄れた。
警察署に残った佐々木は、確かにいつもと少し違っていた。「吹っ切れた」と言っていたが、その言葉だけで安心してよいのか、篤史にも分からなかった。
「あいつも、なんだかんだ言って体育会系ですからね」
篤史は膝の上で軽く手を握った。
「最後、話を聞きながら、ぎゅっと手を握ってましたもんね。ああいうところ、分かりやすいですよね」
「ああ」
橘は小さくうなずいた。
佐々木の熱意は頼もしかった。事件を自分のこととして受け止め、どうにかしたいと思っている。それは刑事として大切なものだった。
ただ、その思いが強いほど、足を止めることが難しくなる時もある。
橘には、それがよく分かっていた。
「今どき、珍しい若者だよ」
信号が青に変わった。
橘は交差点の左右を確かめてから、静かにアクセルを踏んだ。
「大切に育てていこうな、篤史」
篤史は橘の横顔を見て、それから前へ向き直った。
「そうですね。なんか、かわいいっすもんね」
少し照れくさそうに笑う。
「こっちが何か言うと、すぐ顔に出るし。隠してるつもりなんでしょうけど、全然隠せてないんですよ」
「そういうところも、お前に似てる」
「また、それですか」
篤史は笑いながら、シートに深く座り直した。
けれど、しばらくすると、自分でも気になったように口を開いた。
「……俺も、ああだったんですかね」
今度は、先ほどのように否定する調子ではなかった。
橘は前方の道を見つめたまま、穏やかに答えた。
「初めは、みんな一緒だよ」
ヘッドライトに照らされた白線が、車の下へと続いていく。
「少しずつ事件に携わって、いろんな人に会って、失敗もして……そうやって成長していくんだ」
篤史は黙って聞いていた。
「佐々木にとっては、この事件が初めて深く関わった事件だからな」
橘はそこで一度、言葉を切った。
自分の判断や行動が、事件の行方に関わる。その手応えを初めて得た時、人は慎重にもなるし、逆に、自分なら何かできると思い込むこともある。
今夜の話を聞いた佐々木が、どちらへ傾くのか。橘は、それを気にしていた。
「だから、注意して見ていてくれな」
「はい」
篤史は、今度はすぐに答えた。
「なんだかんだ言って、かわいい後輩ですからね」
佐々木の、少し不器用な受け答えを思い出す。心配になることもあれば、ついからかいたくなることもあった。それでも、放っておけない後輩であることに変わりはなかった。
「しっかり見てますよ。ビシビシ鍛えていきます」
篤史が胸を張るように言うと、橘は口元を緩めた。
「言うようになったなぁ、お前……」
「そりゃ、俺だって先輩ですから」
「そうだな」
橘の返事には、からかいだけではない響きがあった。
篤史もそれを感じ取ったのか、少し照れたように笑って前を向いた。
二人の笑い声が、静かな車内に重なった。
長い話を終えても、事件が解決したわけではない。杉田を追う日々は、明日も続く。
それでも、後輩のことを話しているこのひとときだけは、二人の肩から少し力が抜けていた。
車は、深夜の街を走っていった。
明かりの消えた建物が並ぶ道を抜け、次の交差点を通り過ぎる。街灯の光を受けた車体が一瞬だけ浮かび上がり、また夜の中へ戻っていく。
後ろに残った二つの赤いテールランプは、遠ざかるにつれて小さくなった。
やがて車が緩やかなカーブの先へ進むと、その赤い光も、暗闇に吸い込まれるように見えなくなった。




