46『真相2』
橘は、テーブルの上に広げられた資料へ視線を落とした。
先ほどまで淡々と事実を並べていたその表情が、わずかに曇る。
佐々木は何も言わず、次の言葉を待っていた。
ここまで聞いただけでも、十分すぎるほど異常な事件だった。
何の関係もないように見えた複数の人身事故。
事故を起こす前、多額の借金を抱えていた加害者たち。
事故のあと、なぜか綺麗に清算されていた借金。
そして、その事実を調べ始めた途端、一人の加害者が殺され、残された者たちまで命を狙われ始めた。
だが、橘の表情を見る限り――。
まだ、その奥に何かがある。
橘は資料の端に指を置いたまま、ゆっくりと口を開いた。
「この事件の真相はな……病院内で行われていた横領なんだ」
「病院内の……横領?」
佐々木は眉を寄せた。
ここまで聞いてきた人身事故や殺人事件とは、あまりにもかけ離れた言葉だった。
橘は小さく頷く。
「ああ。病院の内部で金が不正に動かされていた。そして、そのことに気づいた人がいたんだ」
橘は一度言葉を止めた。
「まいちゃんのお姉さん――朝比奈麗子さんだ」
「麗子さんが……」
「ああ」
橘は静かに続けた。
「麗子さんは病院内の金の流れに不自然なところがあることに気づいた。最初は小さな違和感だったのかもしれない。だが調べていくうちに、どう考えても説明のつかない金の動きがあることが分かった」
佐々木は黙って聞いている。
「ただ、一人で調べられることには限界がある。それに、自分の勤めている病院の内部だけを見ていたんじゃ分からないこともあった」
橘は資料を一枚めくった。
「そこで麗子さんは、別の病院に勤めていた知り合いに協力を求めたんだ」
「別の病院……」
「ああ。それから協力してくれる人間が増えて、最終的には三人で調べ始めた」
誰にも知られないように。
少しずつ。
慎重に。
自分たちが見つけた不自然な金の流れが何なのか。
誰が、何のために金を動かしているのか。
三人はそれを確かめようとしていた。
しかし――。
「その動きを、知られた」
橘の声が低くなった。
佐々木の目がわずかに細くなる。
「誰にですか?」
橘は短く答えた。
「会社の上層部だ」
その瞬間、佐々木の表情が変わった。
そこまで聞けば、この先に何が起きたのか。
嫌でも想像してしまう。
佐々木は無意識に息を呑んだ。
「それで……命を……」
小さな声だった。
しかし橘は答えなかった。
代わりに、隣に座っていた篤志が口を開いた。
「それだけじゃないんだよ」
「え?」
佐々木が篤志を見る。
篤志はテーブルの上に置かれた資料を見つめていた。
「もっと酷いことをされた」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
佐々木は黙って続きを待つ。
篤志がゆっくりと顔を上げた。
「横領をしたのは――朝比奈麗子だってことにされたんだ」
「……え?」
佐々木は一瞬、意味が理解できなかった。
「麗子さんが……横領したことに?」
「ああ」
篤志は頷いた。
「本当は横領に気づいて、それを調べていた側の人間だ。それなのに、病院側は自分たちを守るために、麗子さんに全部押しつけた」
佐々木は言葉を失った。
不正を見つけた人間が、不正を行った人間にされる。
あまりにも理不尽な話だった。
「当然、麗子さんは認めなかった」
篤志は続ける。
「自分は何もしていない。だから、自分の無実を証明するために、もう一度調べ始めたんだ」
「……」
「横領したのが自分じゃないことを証明するには、本当に横領していた人間を突き止めるしかない。麗子さんは、そう考えたんだと思う」
佐々木の頭の中に、一人の女性の姿が浮かんでいた。
自分の知らないところで罪を着せられ、それでも諦めず、自分の無実を証明しようとする女性。
だが――。
その行動は、横領を隠そうとしていた者たちにとって最も恐れていたことだった。
篤志は一度大きく息を吐いた。
「だから……阻止しようとした」
応接室の空気が重くなる。
「麗子さんにこれ以上調べさせないために」
佐々木は篤志を見つめていた。
「さっき、人身事故を起こした加害者が殺された話をしただろ?」
「……はい」
「でもな」
篤志は首を横に振った。
「この事件の最初の最初の犠牲者は、その人じゃない」
佐々木の眉が動いた。
「最初の……犠牲者?」
「ああ」
篤志は一瞬、橘を見る。
橘は何も言わなかった。
篤志は再び佐々木へ視線を戻した。
「朝比奈麗子さんと――」
わずかな間が空いた。
「まいさんのお父さんなんだよ」
佐々木の目が大きく見開かれた。
「……お父さん?」
今まで一度も出てこなかった人物だった。
篤志は静かに頷く。
「まいさんのお父さんは、自殺したことになっていた」
「なっていた……?」
その言い方に、佐々木が反応した。
篤志は唇を強く結んだあと、低い声で言った。
「自殺に偽装されて、殺されたんだ」
「……」
佐々木から言葉が消えた。
応接室に、重苦しい沈黙が落ちた。
天井の蛍光灯が発する微かな音。
壁時計の秒針が進む音。
それまで気にも留めていなかった音だけが、妙にはっきりと耳に届く。
カチッ――。
秒針が一つ進んだ。
その沈黙を破ったのは橘だった。
「まいちゃんはな……」
先ほどまで事件を説明していたときとは、橘の声が明らかに違っていた。
刑事として事実を伝える声ではない。
昔からまいを知っている、一人の人間としての声だった。
「お父さんの変わり果てた姿を、自分の目で見たんだよ」
佐々木がゆっくりと橘を見る。
「……朝比奈さんが?」
「ああ」
橘は小さく頷いた。
それから、しばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるようだった。
やがて橘は視線をテーブルへ落としたまま、静かに続けた。
「しかもな……その日は、お父さんの誕生日だったんだ」
「誕生日……」
「ああ。まいちゃんと麗子さんは、駅で待ち合わせをしてた」
まいから聞いたことを思い浮かべるように、橘はゆっくりと話していく。
父親の誕生日を祝うため、姉妹は駅で落ち合った。
それから二人で店へ向かい、父親のための誕生日ケーキを選んだ。
どれなら喜んでくれるだろう。
こっちのほうがいいんじゃないか。
そんな他愛もない話をしながら選んだのだろう。
そのときの二人にとって、それは特別ではあっても、幸せな家族ならどこにでもある一日だった。
「それで二人で話したらしい」
橘の口元に、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情が浮かぶ。
「普通に帰ってケーキを渡すだけじゃ面白くない。せっかくの誕生日なんだから、お父さんを驚かせようってな」
佐々木は黙って聞いていた。
「まいちゃんが玄関から入る。麗子さんはケーキを持って勝手口から入る」
「別々に?」
「ああ」
橘は頷いた。
「麗子さんが見つからないようにキッチンまでケーキを運んで、テーブルの上に置く。その間、まいちゃんがお父さんの気を引いておく。二人でそんな計画を立てたんだ」
きっと二人とも、そのときは笑っていた。
父親がどんな顔をするのか。
驚くだろうか。
それとも、すぐに気づかれてしまうだろうか。
そんなことを話しながら家へ向かったのかもしれない。
まさか――。
その家で何が待っているのかなど、知るはずもなかった。
橘の声が少し低くなる。
「家に着いて、予定どおり二人は別れた」
麗子はケーキを持って勝手口へ。
まいは一人、玄関へ回った。
そして何も知らないまま、いつものように家の扉を開けた。
「ただいま――」
橘が小さな声で、そのときのまいの言葉を再現した。
しかし。
「返事がなかった」
佐々木の表情がわずかに強張る。
「まいちゃんは、もう一度声をかけたらしい」
それでも返事はない。
父親だけではない。
母親からも返事がなかった。
家の中が、不自然なほど静かだった。
誕生日を祝うために帰ってきた家。
いつもなら聞こえるはずの生活の音。
それが、何も聞こえない。
まいは不思議に思いながら、家の奥へ進んだ。
「そこで、お母さんを見つけた」
橘の言葉に佐々木が顔を上げる。
「お母さんは……何も言わなかったそうだ」
「何も……?」
「ああ。ただ、泣いてた」
声を上げるわけでもない。
何があったのか説明するわけでもない。
ただ、その場で泣いていた。
「まいちゃんが何を聞いても、答えなかったらしい」
その様子を見て、まいも何かがおかしいことに気づいた。
胸の奥に、言葉では説明できない不安が広がっていく。
そして――。
恐る恐る、部屋の中へ入った。
橘はそこで言葉を止めた。
応接室に沈黙が落ちる。
佐々木は続きを急かさなかった。
やがて橘が、低い声で言った。
「そこで……見つけたんだ」
まいの父親は、タンスの取っ手に紐をかけ、首を吊った状態で動かなくなっていた。
「……」
佐々木の顔から表情が消えた。
「まいちゃんは、その場から動けなかったらしい」
目の前で何が起きているのか。
理解することさえできなかった。
さっきまで、父親の誕生日をどうやって驚かせようかと姉と話していた。
すぐ近くのキッチンには、二人で選んだ誕生日ケーキがある。
それなのに――。
目の前にいる父親は、何も答えない。
「何もできなかったんだろうな……」
橘が呟いた。
「身体が動かなかった。声も出なかった」
そしてようやく――。
まいの口から出たのは、父親を呼ぶ声ではなかった。
「お姉ちゃん!」
それだけだった。
「まいちゃんは、ただ……『お姉ちゃん』って叫んだんだ」
勝手口から入り、キッチンのテーブルにケーキを置いていた麗子にも、その声は聞こえた。
いつもの妹の声ではない。
麗子はすぐに異変を察した。
「麗子さんが駆けつけた」
そこには、立ち尽くしたまま動けなくなっている妹がいた。
泣き続ける母親がいた。
そして――。
父親がいた。
「麗子さんがお父さんを下ろしたんだ」
橘の声がかすかに震えた。
佐々木は何も言えなかった。
頭の中に浮かんでしまったのは、キッチンのテーブルに置かれたままの誕生日ケーキだった。
父親を喜ばせるために、姉妹が二人で選んだケーキ。
本当なら、その夜は家族で囲むはずだった。
けれど、そのケーキが祝われることはなかった。
橘はしばらく黙っていた。
それから、静かに話を続けた。
「そのことがあってから、まいちゃんのお母さんは入院することになった」
父親を失った。
母親まで入院した。
それでも、まいにはまだ姉がいた。
あの日、自分が何もできずに立ち尽くしていたとき、叫び声を聞いて駆けつけてくれた姉。
麗子がいた。
だが――。
橘は一度、目を閉じた。
「その数日後だ」
佐々木はゆっくりと顔を上げた。
「麗子さんが……人身事故で亡くなった」
「……」
応接室に、再び沈黙が訪れた。
ほんの数日前まで、姉妹で父親の誕生日ケーキを選んでいた。
その数日後には――。
父も、姉もいなくなった。
橘は背もたれへ身体を預け、小さく息を吐いた。
「俺も……それを知ったときは辛かったよ」
刑事としての言葉ではなかった。
橘自身の言葉だった。
佐々木は俯いている。
その脳裏には、きっと今まで見てきたまいの笑顔が浮かんでいた。
あれほど周囲を気遣い、明るく笑っていた女性が、こんな過去を抱えていた。
やがて――。
佐々木の膝の上に置かれていた手が、ゆっくりと握られていく。
指が掌へ食い込む。
さらに、強く。
その拳に力が入っていくのを、橘も篤志も気づいていた。
けれど――。
二人とも、何も言わなかった。




