45『はじまり 1 』
刑事課の一番奥まで来ると、橘は足を止めた。
目の前には、普段あまり使われることのない応接室がある。
橘はドアノブに手をかけ、そのまま静かに扉を開いた。
室内は真っ暗だった。
廊下から差し込む明かりが、入り口付近の床を細長く照らしている。
橘は慣れた手つきで壁際を探り、照明のスイッチに指をかけた。
カチャ――。
小さな音が静かな部屋に響く。
一瞬遅れて、天井の蛍光灯が白い光を放った。
それまで闇に沈んでいた応接室の全体が、ゆっくりと三人の前に姿を現す。
中央には低い長方形のテーブル。
その両側には、三人ずつ腰掛けられる黒いソファーが向かい合わせに置かれていた。
壁際には書類棚があり、その上には時計が一つ掛けられている。
署内のほかの場所から離れているせいか、人の話し声もほとんど聞こえてこない。
聞こえるのは、天井からかすかに響く蛍光灯の音と、壁時計が時を刻む小さな音だけだった。
橘が先に部屋へ入る。
そのあとに篤志、最後に佐々木が続いた。
全員が中へ入ったところで、佐々木が振り返り、静かにドアを閉める。
ガチャ――。
ドアの閉まる音が、妙に大きく聞こえた。
その瞬間、刑事課の空気と切り離されたように、応接室の中がさらに静かになった。
佐々木は閉じたドアを一度だけ見つめた。
ここへ来るまで、橘も篤志もほとんど何も話さなかった。
これから自分は何を聞かされるのか。
先ほどから頭に浮かんでいるのは、朝比奈まいの顔だった。
いつも明るく、人に気を遣い、自分のことより周囲のことを先に考えるような女性。
そんな彼女が、これまでいったい何を経験してきたのか。
そして、その過去と今起きている事件が、どうつながっているのか。
佐々木には、まだ分からないことばかりだった。
橘は手にしていた資料をテーブルの上へ置くと、奥側のソファーへ腰を下ろした。
「……」
篤志も何も言わず、その向かい側のソファーに座る。
佐々木も当然のようにその隣へ腰を下ろした。
三人が座っても、すぐには誰も口を開かなかった。
橘はソファーに深く腰掛けると、テーブルの上に置いた資料へ視線を落とした。
何から話せばいいのか。
そんなことを考えているようにも見えた。
佐々木は橘を見たあと、隣に座る篤志へちらりと視線を向ける。
篤志もいつもの表情とは少し違っていた。
口元を固く結び、テーブルの上の資料をじっと見つめている。
やがて橘が小さく息を吐いた。
そして背もたれから身体を起こし、二人を見る。
「さて……」
そこで一度、言葉が止まった。
橘はテーブルの資料に手を置いたまま、わずかに眉を寄せる。
「どこから話すか」
その言葉に、篤志が小さく息をついた。
これから話すことを頭の中で整理するように、ほんの少し考えてから口を開く。
「複雑ですからね、この事件」
「ああ」
橘は短く答えた。
それだけで、また部屋に沈黙が戻った。
壁時計の秒針が進む音だけが聞こえてくる。
佐々木は二人の顔を交互に見た。
これほどまでに言葉を選ぶ二人を見るのは初めてだった。
一つの事件について説明する。
ただ、それだけのためにここまで慎重になるとは思えない。
おそらく、この事件には捜査資料に書かれている事実だけでは説明できない何かがある。
そして――。
その中心にいるのが、高木謙太郎と朝比奈まいなのだ。
佐々木は膝の上で両拳を握った
聞く覚悟を決めるように、ゆっくりと橘へ視線を向ける。
橘はそんな佐々木の表情を見てから、再びテーブルの上の資料へ目を落とした。
どこから話すべきか。
しばらく考えた末、橘は一番上の資料を静かに手元へ引き寄せた。
そして――。
長く複雑な事件の始まりを語るため、ゆっくりと口を開いた。
橘は手元の資料を一枚めくった。
紙の擦れる乾いた音が、静まり返った応接室に響く。
佐々木は何も言わず、その手元を見つめていた。
橘はしばらく資料に目を落としていたが、やがて顔を上げた。
「この事件の発端は――人身事故だ」
「人身事故……ですか?」
佐々木が思わず聞き返す。
あまりにも意外な言葉だった。
これほどまでに橘と篤志が慎重になっている事件だ。
もっと大きな犯罪や、最初から何者かの悪意が明確に見える事件から始まったのだと、佐々木は勝手に想像していた。
だが、橘の口から出てきたのは、人身事故という言葉だった。
橘は小さく頷く。
「ああ。しかも最初は、誰も事件だとは思っていなかった」
そう言うと、橘はテーブルの上に三枚の資料を並べた。
「三件の人身事故。それぞれ発生した場所も違えば、事故を起こした人間も違う。当然、被害者も違う」
佐々木の視線が、並べられた資料へ落ちる。
「三件とも、それだけを見れば特別おかしなところはなかった。普通に考えれば、どこにでも起こり得る交通事故だ」
橘は一枚目の資料を指先で軽く叩いた。
「だから警察も、それぞれを単独の事故として処理した」
続いて二枚目。
そして三枚目。
「この三件を結びつけて考える人間なんて、誰もいなかった」
佐々木は黙ったまま話を聞いていた。
橘の声は淡々としている。
しかし、その表情は次第に険しくなっていた。
「ある時まではな」
その一言で、応接室の空気がわずかに変わった。
佐々木が顔を上げる。
橘は一瞬だけ言葉を止めた。
そして、テーブルの端に置いてあった別の資料へ手を伸ばした。
それを自分の前へ引き寄せる。
「高木謙太郎が事故に遭うまではな……」
「高木さんが……」
佐々木の口から小さく声が漏れた。
ここでようやく、高木謙太郎の名前が出てきた。
橘は頷いた。
「謙の事故を調べ始めたことで、それまで何の関係もないと思われていた事故に、妙な共通点が見つかった」
橘は資料をめくる。
「事故を起こした加害者たちだ」
佐々木は眉を寄せた。
「加害者?」
「ああ」
橘の指が、資料に記載された箇所をゆっくりとなぞる。
「全員、事故を起こす前に借金を抱えていた」
「借金……」
「金額に違いはある。理由もそれぞれだ。だが、共通していたのは、簡単に返せるような額じゃなかったってことだ」
そこで橘は佐々木をまっすぐ見た。
「ところが――」
一呼吸置く。
「事故のあと、その借金が綺麗に清算されていた」
佐々木の表情が変わった。
「全員ですか?」
「ああ。全員だ」
即答だった。
佐々木は言葉を失い、もう一度テーブルの上に並んだ資料を見る。
事故を起こした。
そのあと、抱えていた借金が消えた。
一件だけなら偶然と考えることもできる。
だが、それが三件とも同じだったとしたら――。
「それって……」
佐々木が何かを言いかける。
橘はその先を言わせるように、小さく頷いた。
「俺たちも同じことを考えた」
そのとき、それまで黙っていた篤志が口を開いた。
「偶然にしては、出来すぎていました」
佐々木が隣を見る。
篤志はテーブルの上の資料を見つめたままだった。
「事故を起こした人間が全員、多額の借金を抱えていた。そして事故のあと、その借金が清算されている。表面上は何のつながりもない交通事故なのに、金の流れだけを見ると妙につながって見えたんです」
橘がその言葉を引き継ぐ。
「だから俺と篤志は、この事故の裏に何かあるんじゃないかと考えた」
「それで捜査を?」
「ああ。ただし、最初から正式な捜査として動けたわけじゃない」
橘は腕を組み、背もたれに身体を預けた。
「三件とも、すでに交通事故として処理されている。借金が返済されていたってだけじゃ、事件だと断定することはできない」
確かにそうだ。
不自然ではある。
だが、不自然であることと犯罪であることは同じではない。
「だから最初は、俺と篤志の二人だけで調べ始めた」
篤志が小さく頷いた。
「あの時点では、俺たち自身も確信なんてありませんでした。ただ……どうしても引っかかったんです」
「事故のあとに消えた借金が?」
佐々木が尋ねる。
「それもあります」
篤志は答えた。
「でも、それだけじゃなかった」
篤志の声が少し低くなる。
橘がその先を引き取った。
「俺たちが調べ始めて間もなく――人が死んだ」
佐々木の身体がわずかに固まった。
「……死んだ?」
「ああ」
橘は短く答える。
「人身事故を起こした加害者の一人が、殺された」
今度こそ佐々木は言葉を失った。
さっきまで交通事故の話だった。
それが突然、殺人事件へと変わった。
「最初の殺人だった」
橘は静かに続けた。
「そして、それだけじゃ終わらなかった」
「まさか……」
佐々木が呟く。
「残った加害者たちも、次々に命を狙われ始めた」
応接室が静まり返った。
蛍光灯のかすかな音が、やけに耳につく。
佐々木は頭の中で、ここまでの話を必死に整理しようとしていた。
一見、何の関係もない三件の人身事故。
借金を抱えていた三人の加害者。
事故後、突然清算された借金。
そして、その加害者たちを狙い始めた何者か。
偶然という言葉では、もう片づけられない。
「ちょっと待ってください」
佐々木は思わず口を挟んだ。
「じゃあ、その三件の事故そのものが……最初から仕組まれていた可能性があるってことですか?」
橘はすぐには答えなかった。
ただ、佐々木をじっと見つめている。
その沈黙だけで十分だった。
佐々木は息を呑んだ。
そのとき――。
「佐々木」
隣から篤志の声がした。
佐々木が振り向く。
篤志は何か言いづらそうに一度視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「その交通事故の被害者の中に……まいさんのお姉さんもいたんだ」
「……え?」
佐々木の表情が止まった。
一瞬、言われた意味を理解できなかった。
「朝比奈さんの……お姉さん?」
「ああ」
篤志は静かに頷いた。
佐々木の脳裏に、まいの笑顔が浮かんだ。
初めて会った自分にも優しく声をかけ、周囲の人間を気遣っていた女性。
いつも明るく振る舞っていた、あのまいさんが――。
その事件の被害者遺族だった。
「そんな……」
佐々木はそれ以上の言葉を続けることができなかった。
ただ事件に巻き込まれている女性だと思っていた。
だが違った。
彼女はもっとずっと前から、この事件の中にいたのだ。
佐々木は無意識に両手を強く握っていた。
「じゃあ……朝比奈さんは、お姉さんを事故で……」
「ああ」
篤志が答える。
その声には、捜査を通じてまいの苦しみを知ってきた人間だからこその重さがあった。
「俺も最初は、ただの交通事故の被害者遺族だと思ってた。でも調べれば調べるほど、それだけじゃ済まなくなっていった」
橘がテーブルの上の資料を一枚めくった。
「ここからだ」
佐々木が橘を見る。
橘の表情は、それまで以上に険しくなっていた。
「ここから、すべてがおかしくなっていった」
壁時計の秒針が、一つ進む。
カチッ――。
静かな応接室に、その音だけが響いた。
「事故を調べれば、新しい事実が出てくる。その事実を追えば、今度は別の事件につながる」
橘は次の資料へ手を伸ばした。
「そして、そこから次々に――」
橘の指が、資料の端で止まる。
佐々木は息を詰めるように、その続きを待った。
「隠されていたものが、表に出始めたんだ」




