44 『笑顔の奥に隠された過去』
橘が声のしたほうを振り返ると、刑事課の入口に、疲れ切った様子の栗原篤志が立っていた。
「お疲れさまでーす……」
いつもの快活さは影を潜め、その声には隠しきれない疲労がにじんでいる。背中はわずかに丸まり、足取りも重い。朝から一日中歩き回っていたのだろう。着ているシャツには皺が寄り、結んでいたネクタイも少し緩んでいた。
篤志は自分の席までたどり着くと、手にしていた分厚い資料を机の上へ置いた。
鈍い音が、夜の刑事課に響く。
そして、全身の力が抜けたように椅子へ腰を下ろすと、長い息を吐いた。
先ほどまで佐々木をからかっていた橘も、篤志の様子を見てすぐに表情を引き締めた。
「篤志、お疲れ。ずいぶん遅かったな」
「橘さんも、お疲れさまです」
篤志は力なく答えながら、凝り固まった首を左右へ傾けた。
橘は篤志の机のそばまで歩み寄ると、積み重ねられた資料へ視線を落とした。
「それで、何か分かったことはあったか?」
その問いかけに、篤志は椅子の背もたれへ深く体を預け、天井を見上げた。
「それが……全然なんですよ」
悔しさのにじんだ声だった。
「どこを調べても、あり得ないくらい何も出てこないんです」
「何も、か……」
「はい。駅やその周辺はもちろん、あいつが立ち寄りそうな場所にも片っ端から当たりました。防犯カメラも確認しましたし、これまで関係のあった人間についても、もう一度洗い直しています」
篤志は机の上に置いた資料の束を指先で軽くたたいた。
「でも、目撃情報すらほとんどありません。まるで、突然この街から消えてしまったみたいなんです」
橘は腕を組み、険しい表情で考え込んだ。
「これだけ捜して見つからないとなれば、絶対に誰かがかくまっているはずです」
篤志はそう言い切ると、苛立ちを押さえるように乱れた髪をかき上げた。
「一人で逃げているなら、どこかで必ず足がつくはずなんですよ。食事だって必要だし、寝る場所もいる。移動すれば防犯カメラに映る可能性もある。それなのに、全く痕跡がない」
「誰かの家か、外からは見つけにくい場所に潜んでいると考えるのが自然だな」
「俺もそう思います。けれど、その協力者が誰なのか分からないんです」
篤志は机の上に両肘をつき、額の前で手を組んだ。
「まだ調べていない場所があるのか。それとも、俺たちが最初から何かを見落としているのか……戻ってくるまで、ずっとそればかり考えていました」
その声には、手掛かりをつかめない自分への苛立ちと焦りが入り混じっていた。
橘はそんな篤志の肩を軽くたたいた。
「そうか。今日は大変だったな。お疲れさん」
「すみません。これだけ動いて、何の成果も持ち帰れなくて……」
「謝る必要はない。お前が何もしていなかったわけじゃないんだ。これだけ調べても何も出てこないということ自体が、一つの情報だからな」
橘はそう言って篤志を労ったものの、その表情は険しいままだった。
誰かが逃走を助けている。
もし、それが事実なら、その協力者は警察の捜査を警戒しながら、用意周到に杉田をかくまっていることになる。
「ただな、篤志」
橘は静かに口を開いた。
「絶対に、どこかにつながりがあるはずなんだよ。杉田と、杉田をかくまっている人間との間に、俺たちがまだ気づいていない何かがな」
「俺たちが気づいていない、つながり……」
篤志は橘の言葉を繰り返した。
「もう一度、お前がまとめたあのノートを見直してみるか?」
「あのノートですか?」
篤志は顔を上げ、机の端に置かれた一冊のノートへ視線を向けた。
それは、病院内で発覚した横領事件について、篤志が独自に情報を整理していたものだった。関係者の名前や証言、金の流れだけでなく、少しでも気になった言葉や行動まで、細かく書き留めてある。
「でも、横領に関わった連中は、もう全員捕まっていますよ。自分たちがしたことも認めて、自供しているじゃないですか」
「ああ。表面上は、な」
橘はノートを見つめながら答えた。
「だからこそ、そこに何か残っているのかもしれない。事件は解決したと思い込んで、俺たちが詳しく調べなかった部分があるんじゃないか?」
「それが、今の事件につながっていると?」
「可能性の話だ。だが、杉田が一人で消えたのでないのなら、過去の人間関係をもう一度たどる必要がある」
橘は篤志の机に手をつき、さらに言葉を続けた。
「俺たちが見逃しているものがあるとすれば、そこかもしれないだろう?」
「ですけどねえ……」
篤志は納得しきれない表情で腕を組んだ。
「今さら病院の人たちに話を聞いても、怪しい人間が残っているとは思えないんですよ。横領に関与していた連中は逮捕されていますし、それ以外の職員についても、一通り確認したはずです」
橘はしばらく黙ったまま、篤志の言葉を聞いていた。
しかし、ふと何かを思い出したように眉を動かした。
「篤志。そういえば、病院にいる人たちには、どこまで聞いたんだ?」
「どこまでと言われても……」
「杉田と親しかった人間や、病院の外でも付き合いのあった相手について、詳しく聞いたのか?」
「はい。一応は聞きましたよ」
篤志は記憶をたどりながら答えた。
「杉田と深い関係にあった人物を知らないかとか、親しくしていた知り合いはいなかったかとか……その程度ですけど」
「その程度、か……」
橘の目つきが、わずかに変わった。
篤志も、その変化に気づいたようだった。
「橘さん、何か気になることでもあるんですか?」
橘はすぐには答えなかった。
篤志がまとめたノートへ手を伸ばすと、ゆっくりと表紙を開く。紙の擦れる音が、張り詰めた室内に響いた。
「もしかすると、俺たちは聞き方を間違えていたのかもしれない」
「聞き方を?」
「ああ。杉田と親しかった人間を捜すだけでは、足りなかったんだ」
橘はノートに並ぶ名前を、指で一つずつ追っていった。
「本人たちでさえ気づいていないところに、杉田とのつながりが隠れている可能性がある」
それまで椅子に沈み込んでいた篤志が、ゆっくりと体を起こした。
完全に途切れたと思われていた捜査の糸。
その細い糸の先端が、二人の目の前に置かれた古いノートの中から、再び姿を現そうとしていた。
橘は、開かれたノートへ視線を落としたまま、しばらく黙って考え込んでいた。
病院で起きた横領事件と、現在追っている杉田の行方。すでに解決したと思われていた事件の中に、まだ見落としているつながりが隠されている可能性がある。
今すぐにでも確認したいことはいくつもあった。
しかし、橘が顔を上げたとき、その視線の先には疲れ切った篤志の姿があった。
「篤志、その件は明日調べよう」
橘はノートを静かに閉じた。
「今日のところは、もう帰れ」
「まだ大丈夫ですよ」
篤志はすぐにそう答えたが、その声には明らかな疲労がにじんでいる。目の下にはうっすらと隈が浮かび、机の上に置いた手にも、ほとんど力が入っていなかった。
それでも、篤志は資料へ手を伸ばそうとした。
「もう少しだけ調べさせてください。せっかく何か見つかりそうなんですから、今のうちに――」
「いいから」
橘は、篤志の言葉を遮った。
厳しい口調ではあったものの、その声には長年一緒に働いてきた仲間を気遣う優しさが込められていた。
「そんな状態で資料を読み続けても、見つかるものまで見落とすぞ。今夜だけは事件のことを忘れて、家でゆっくり休め」
「でも……」
「これは命令だ。いいな?」
橘に真っすぐ見つめられ、篤志は諦めたように小さく息を吐いた。
「分かりましたよ……」
そう答えながらも、篤志の視線は閉じられたノートに向けられたままだった。
二人のやり取りを少し離れたところから見ていた佐々木が、感心したように口を開いた。
「栗原さんも、すごいですね」
「何がだ?」
篤志がゆっくりと佐々木を見る。
「もう体が押し潰されそうなくらい疲れているのに、それでも捜査を続けようとするなんて……俺には、なかなかできません」
篤志は少し意外そうな顔をしたあと、照れを隠すように鼻の下を指でこすった。
「別に、すごくなんかないさ。刑事なら当たり前のことだよ」
そこで篤志は、何かを思い出したように佐々木の顔を見た。
「そういえば佐々木、お前、今日は朝比奈さんの警護についていたんだろ?」
「はい」
「初めて会ったんだよな。どうだった?」
またその話か――。
佐々木の顔に、そんな思いが分かりやすく表れた。
先ほど橘に散々からかわれたばかりだというのに、今度は自分から話題のきっかけをつくってしまった。まるで気づかないまま、自分で地雷を踏んでしまったような気分だった。
橘は面白そうな表情を浮かべ、腕を組んで佐々木の返事を待っている。
佐々木は余計なことを言わないよう慎重に言葉を選び、短く答えた。
「……優しい方ですね」
「それだけか?」
「それだけです」
篤志と橘は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑いを漏らした。
「やっぱり、お前もそう思ったか」
篤志は椅子の背もたれへ体を預け、どこか遠くを見るような目をした。
「まいさんはな、俺たちが考えている以上につらいことを経験してきたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木の表情から照れが消えた。
「つらいこと……ですか?」
「ああ」
篤志の声が、先ほどまでとは違う真剣なものに変わる。
「それでも、あの人は人前でできるだけ明るく振る舞おうとする。周りに心配をかけないように笑って、自分よりもほかの人間のことを気遣うんだ」
佐々木の頭に、スーパーでのまいの姿が浮かんだ。
『佐々木さんは、何が食べたいですか?』
『せっかく仲良くなれたのにね』
自分が大変な状況に置かれているにもかかわらず、まいは佐々木を夕食へ誘い、別れ際には仕事を気遣ってくれた。
佐々木は、それをまいの生まれ持った明るさだと思っていた。
しかし、その笑顔の奥に、他人には簡単に見せられない苦しみが隠されていたのだとしたら――。
「だから俺は、少しでも朝比奈さんを安心させてあげたいんだ」
篤志は疲れた顔に、かすかな笑みを浮かべた。
「朝比奈さんが経験してきた苦しみに比べたら、俺の疲れなんて大したことじゃないさ」
佐々木は、何も言えなくなった。
彼は、朝比奈まいという女性が過去にどのような苦しみを味わってきたのか、何も知らなかった。
今回、佐々木に与えられた任務は、あくまでもまいの身辺警護だった。指定された時間に迎えに行き、安全を確保しながら自宅まで送り届ける。その間に異常があれば対処し、任務終了後に報告書を提出する。
それだけだった。
警護対象者の詳しい過去については、必要最低限の情報しか伝えられていない。
だが、今はそれだけでは足りないような気がした。
まいがなぜ、あれほど人を疑うことなく優しく接するのか。
どんな苦しみを乗り越え、あの明るい笑顔を見せているのか。
彼女を本当に守りたいと思うのなら、知らなければならないのではないか。
佐々木の胸の中に、強い思いが湧き上がってきた。
「栗原さん」
「ん?」
佐々木は迷いながらも、篤志の目を真っすぐ見つめた。
「もし、まだ少しお時間があるなら……朝比奈さんのことを聞かせてもらえませんか?」
「まいさんのことを?」
「はい。あの明るい朝比奈さんに、過去に何があったのか。俺は何も知らないんです」
篤志は佐々木の顔をじっと見つめた。
そこにあったのは、単なる好奇心ではない。
先ほどまで照れを隠していた青年の目が、今は一人の刑事のものへ変わっている。まいの過去を知り、その苦しみまで含めて守ろうとする、強い意志が表れていた。
篤志は、その変化を見逃さなかった。
「佐々木、お前……目つきが変わったな」
「そんなことありませんよ」
佐々木は慌てて否定した。
「ただ、知っておきたいんです。あの人を警護するなら、朝比奈さんがこれまで何と向き合ってきたのかを」
「本当に、それだけか?」
篤志がからかうように聞くと、佐々木はわずかに視線をそらした。
「……それだけです」
その反応を見て、篤志は小さく笑った。
そして、少し離れた場所にいる橘へ顔を向けた。
「橘さん、話してもいいですか?」
橘は腕時計へ目を落としたあと、佐々木を見た。
「お前は時間、大丈夫なのか?」
「はい。俺は問題ありません」
佐々木は迷うことなく答えた。
橘はしばらく黙って二人の顔を見比べていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。じゃあ、俺も付き合うよ」
「橘さんもですか?」
「ああ。篤志一人では、説明しきれないこともあるだろうからな」
橘は机の上に置かれていた資料を手に取ると、刑事課の奥へ向かって歩き始めた。
「ここではほかの連中に話を聞かれる。奥の応接室へ行こう」
篤志と佐々木も、それぞれ席を立った。
夜の署内に、三人の足音が静かに響く。
佐々木は二人のあとを追いながら、これから聞かされる話を想像していた。
いつも明るく、周囲の人間を気遣い、初めて会った自分にさえ優しい言葉をかけてくれた朝比奈まい。
あの笑顔の奥に、いったいどれほど深い悲しみが隠されているのか。
三人は誰も言葉を交わさないまま、刑事課の奥にある応接室へ向かって歩いていった。




