43 『報告書に書けない想い』
駅前のスーパーで買い物を済ませたまいは、佐々木とともにマンションへ向かった。
辺りはすっかり暗くなり、通りに並ぶ街灯が、二人の足元を淡く照らしている。まいの手には、今夜の食材が入った買い物袋が提げられていた。
佐々木はその隣を歩きながら、時折さりげなく後ろを振り返り、周囲に不審な人物がいないか確かめていた。まいとの会話を楽しみながらも、刑事としてとしての警戒を緩めることはなかった。
やがて、二人はまいの暮らすマンションへ到着した。
エントランスのガラス扉の向こうには、明るくとした照明に照らされたロビーが見える。その中に二人の男が立っていることに、佐々木はすぐ気づいた。
二人とも目立たない服装をしていたが、立ち姿や周囲へ向ける視線には、一般の住人とは違う緊張感があった。
今夜から、まいの警護を引き継ぐ刑事たちだ。
自動ドアが開き、まいと佐々木がエントランスへ入ると、待っていた二人が小さく頭を下げた。
「朝比奈さん、紹介します。今夜からは、こちらの二人が警護に入ります」
佐々木はそう言って、まず若い刑事へ視線を向けた。
「こちらが青木です」
「青木です。よろしくお願いします」
青木は緊張した面持ちで背筋を伸ばし、まいに深く頭を下げた。まだ若く、どことなく初々しさの残る刑事だったが、その表情からは与えられた任務を確実に果たそうとする真剣さが伝わってきた。
続いて佐々木は、青木の隣に立つもう一人の刑事を紹介した。
「そして、こちらが杉田です」
「杉田です。今夜は我々二人が朝比奈さんをお守りします。何か気になることがありましたら、遠慮なく声をかけてください」
杉田は落ち着いた口調でそう告げると、安心させるように穏やかに頭を下げた。青木より年上で、どっしりとした雰囲気のある男だった。
簡単な引き継ぎを終えた佐々木は、まいへ向き直った。
「それでは朝比奈さん、俺は署に戻ります。今夜はこの二人がいますから、安心してください」
「はい……」
まいは返事をしたものの、その声にはどこか寂しさが混じっていた。
買い物へ付き合ってもらい、家までの道を並んで歩いた時間は、決して長いものではなかった。それでも、気さくに話を聞いてくれた佐々木の存在は、まいにとって思いのほか心強いものになっていた。
このまま別れてしまえば、もう会えないような気がしたのだろう。
まいは佐々木を見つめ、少しためらいながら尋ねた。
「佐々木さん……また来てくれるんですよね?」
その言葉に、佐々木は一瞬目を丸くした。
まいの表情には、別れを惜しむ気持ちが隠しきれずに表れている。その素直さが微笑ましく、佐々木の表情は自然と和らいだ。
「はい、もちろんです」
佐々木は、まいを安心させるように力強く頷いた。
「でも、次に俺が来るまでに少しでも事件の解決へ近づけるよう、全力で捜査します。ですから安心してくださいね、朝比奈さん」
「分かりました。ありがとうございます」
まいはほっとしたように笑った。
その笑顔を見届けた佐々木は、青木と杉田へ視線を移した。
「朝比奈さんのこと、頼んだぞ」
「はい」
二人の刑事が同時に答える。
佐々木は最後にもう一度、まいへ小さく頭を下げると、エントランスの出口へ向かって歩き始めた。
自動ドアが開き、夜の冷たい空気がロビーへ入り込んでくる。
佐々木がマンションの外へ出ると、まいはその背中に向かって手を振った。
「佐々木さん、今日はありがとうございました。お仕事、頑張ってくださいね」
声に気づいた佐々木は足を止め、振り返った。
そして、まいへ笑顔を返しながら片手を上げた。
「朝比奈さんも、ゆっくり休んでください」
再び歩き始めた佐々木の姿が夜の街へ遠ざかっていく。
まいはその背中が見えなくなるまで、しばらくその場から動かなかった。
やがて姿が完全に見えなくなると、ゆっくりと手を下ろした。その顔には、ほんの少し寂しそうな表情が浮かんでいる。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
まいは気持ちを切り替えるように小さく息を吐くと、後ろで待っている二人の刑事へ向き直った。
「青木さん、杉田さん。今夜から、よろしくお願いします」
買い物袋を持ったまま、まいが丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人もそろって頭を下げた。
こうして、佐々木から青木と杉田へ、まいの警護が引き継がれた。
まいを無事にマンションまで送り届け、青木と杉田に警護を引き継いだ佐々木は、交代の車に乗って署へ戻った。
夜の街を走る車の窓には、流れていく街灯の光が一定の間隔で映り込んでいた。
佐々木は後部座席に深く腰を下ろし、黙ったまま窓の外を眺めていた。警護の任務を終えた安堵感はあったものの、心の中には説明しづらい感情が残っている。
脳裏に浮かんでくるのは、スーパーで楽しそうに食材を選んでいた、まいの姿だった。
『せっかくですから、晩ご飯を食べていきませんか?』
あの言葉とともに、自分を見つめていたまいの笑顔が何度も思い出される。
そして、別れ際に見せた少し寂しそうな表情。
『佐々木さん……また来てくれるんですよね?』
事件の関係者を警護したことなら、これまでにも何度かあった。任務が終われば署へ戻り、必要な報告書を作成する。それだけのことだ。
それなのに今回は、なぜかいつものように気持ちを切り替えることができなかった。
しばらくして車が署へ到着すると、佐々木は運転してくれた同僚に礼を言い、庁舎の中へ入った。
夜になっても、刑事課の室内には白い蛍光灯の光が満ちていた。机の上には捜査資料や書類の束が積み重なり、奥のほうでは数人の刑事が小声で話をしている。電話の呼び出し音やキーボードをたたく音が、静かな室内に断続的に響いていた。
佐々木は自分の席に腰を下ろすと、パソコンを立ち上げた。
今日の警護について、報告書を作成しなければならない。
大きな問題は起こらなかった。
朝比奈まいを自宅から職場に、同じ事務所のデスクを借りてデスクからの警護、昼は一緒に社食でランチをご馳走になった。勤務先から自宅マンションまで警護し、途中で本人の希望により駅前のスーパーへ立ち寄った。その後、異常がないことを確認したうえで、夜間警護を担当する青木と杉田に引き継いだ。
事実だけを事務的に記せばいい。
それほど難しい報告書ではないはずだった。
佐々木はキーボードの上に指を置いた。
しかし、最初の数行を入力したところで、その手が止まってしまう。
『だって、ずっと一緒にいてくれたじゃないですか。それなら、もう知らない人ではありませんから』
また、まいの声が頭の中によみがえった。
佐々木は小さく息を吐くと、気持ちを切り替えるために首を左右へ振った。
「……何を考えているんだ、俺は」
誰にも聞こえないほどの声でつぶやき、再び画面へ向き直る。
ところが、文字を打とうとすればするほど、まいの姿が鮮明に浮かんでくる。楽しそうに笑う顔も、食事へ誘ってくれたときの声も、別れ際の寂しそうな表情も、すべてが頭に焼き付いて離れなかった。
報告書の画面を開いてから、すでにかなりの時間がたっている。
それにもかかわらず、入力できた文章はわずか数行だけだった。
佐々木は画面を見つめたまま、完全に自分の世界へ入り込んでいた。
そのとき――。
突然、背後から伸びてきた両手が、佐々木の肩を勢いよくたたいた。
「うわっ!」
佐々木の体が大きく跳ねた。
驚いて振り返ると、そこには呆れたような顔をした橘が立っていた。
「どうした、佐々木?」
「た、橘さん……」
「さっきから何度も声をかけているのに、まったく反応がないからさ。居眠りでもしているのかと思ったぞ」
「お疲れさまです。すみません、少し考え事をしていて……」
佐々木は動揺を隠すように姿勢を正した。しかし、その顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
橘はそんな佐々木を見下ろしながら、何かに気づいたように目を細めた。
そして、口元に意味ありげな笑みを浮かべる。
「お前……やられたな?」
「はい?」
佐々木は思わず聞き返した。
「何がですか?」
「決まっているだろう」
橘は佐々木の机へ片手をつき、顔をのぞき込むようにして言った。
「まいちゃんだよ」
「な、何を言っているんですか。そんなことありませんよ」
佐々木は即座に否定した。
しかし、声がわずかに上ずってしまったうえ、目まで泳いでいる。これでは認めているのとほとんど変わらない。
橘は佐々木の反応を見て、楽しそうに笑った。
「無理に隠さなくてもいいって。仕方ないよ。相手は、まいちゃんだからな」
「仕方ないって……どういう意味ですか?」
「普通に接していたら、あっという間に心を持っていかれるってことだよ。それくらい、あの子は純粋だからな」
佐々木は少し言葉に詰まった。
確かに、橘の言うとおりだった。
まいは刑事である佐々木に対しても、必要以上に身構えることなく接してくれた。警護されているという特殊な状況にありながら、佐々木を一人の人間として気遣い、自然な笑顔を向けてくれた。
佐々木は机の上に視線を落としたまま、恐る恐る尋ねた。
「橘さんも……そうだったんですか?」
「馬鹿を言うな」
橘は即座に佐々木の頭を軽く小突いた。
「まいちゃんは、俺の親友の彼女だぞ。そんなわけがないに決まっているだろう」
「ですよね。すみません……」
「ただ――」
橘はふざけた表情を少しだけ引っ込めた。
「魅力的な女性だとは思うよ。人に対してまっすぐだし、優しい。それに、かわいいしな」
「はい」
佐々木は考えるよりも先に、素直に頷いていた。
その瞬間、橘の顔に意地の悪い笑みが広がった。
「ほら、白状した」
「あっ……」
ようやく誘導されたことに気づき、佐々木は慌てて口を閉じた。しかし、すでに遅い。
橘は堪えきれなくなったように声を上げて笑い始めた。
「やっぱり、お前、完全にやられているじゃないか」
「違いますって、橘さん。俺はただ、朝比奈さんが人として魅力的だと言っただけで……」
「はいはい。そういうことにしておいてやるよ」
「本当に違いますから」
必死になって否定する佐々木を見て、橘はますます楽しそうに笑った。
先ほどまで静かだった刑事課の一角に、二人のやり取りが響いている。佐々木は恥ずかしさを隠すように報告書へ視線を戻したが、耳まで赤くなっていることには自分でも気づいていなかった。
そんな話をしていると、刑事課の入口のドアが開いた。
「お疲れさまでーす」
少し間延びした明るい声とともに、一人の男が室内へ入ってくる。
橘と佐々木が同時に振り返る。
そこに立っていたのは、捜査から戻ってきた栗原篤志だった。




