42 『見守られる、それぞれの帰り道』
午後の仕事は、拍子抜けするほど何事もなく、すんなりと終わった。
朝からどこか気持ちの落ち着かない一日だったが、心配していたような出来事は起こらず、時計の針はいつもと変わらない速さで終業時刻を指した。
周囲では、仕事を終えた社員たちが次々とパソコンの電源を落とし、机の上を片づけ始めている。椅子を引く音や、引き出しを閉める音、「お疲れさまでした」と声を掛け合う人たちの声が、静かになり始めたオフィスの中に響いていた。
俺も机の上に広げていた書類をまとめ、鞄の中へしまった。念のため忘れ物がないか確かめてから席を立とうとした、そのときだった。
「さあ、帰りましょうか」
予想していたとおり、武井が何食わぬ顔で俺のそばへやって来た。
そのあまりにも自然な態度に、俺は一瞬、返事を忘れそうになった。まるで朝からずっと一緒に行動していた親しい同僚であるかのような口調だった。
「ああ、そうだな」
俺は努めて平静を装いながら答え、鞄を手に取った。
やはり、今の状況で一番のネックになっているのは、誰でもない。この武井だ。
警察が動いていることなど知る由もなく、当然のように俺の隣を歩こうとしている。そう考えた瞬間、込み上げてきたのは恐怖や苛立ちではなく、なぜか笑いだった。
どうしてこんな状況で笑いそうになるのか、自分でも分からない。緊張しすぎて、感覚がおかしくなっているのかもしれない。
俺は緩みそうになる口元を隠すように軽く咳払いをすると、武井と並んでオフィスを出た。
廊下を歩き、二人でエレベーターに乗り込む。
扉が閉まると、狭い箱の中には俺と武井だけが残された。階数表示の数字が一つずつ減っていく。わずかな機械音が、妙に大きく耳に届いた。
そんな俺の緊張など気づきもしない武井は、仕事中にあった出来事をいつもどおりの調子で話し続けている。
俺は適当に相づちを打ちながら、エレベーターの扉に映る自分の顔を見つめていた。表情は不自然になっていないだろうか。何かを警戒していることを、武井に悟られてはいないだろうか。
やがて小さな到着音が鳴り、エレベーターの扉が静かに開いた。
俺たちはそのまま一階のエントランスへ向かった。
夕方の光が、大きなガラス張りの入口から差し込んでいる。仕事を終えた人たちが、足早に建物の外へ出ていく。その人の流れに紛れるようにして、入口付近に一人の男が立っていた。
こちらを見ている様子はない。
ただそこに立ち、誰かを待っているだけのようにも見える。しかし、俺にはすぐに分かった。
刑事さんだ。
本当にさりげなく立っている。事情を知らない者が見れば、警察の人間だとはまず気づかないだろう。
隣を歩く武井は、その存在にまったく気づいていないようだった。俺に向かって相変わらず楽しそうに話しかけながら、何の警戒もなく入口へ向かっている。
俺は顔を動かさず、視線だけをわずかに刑事さんへ送った。
一瞬だけ、二人の目が合う。
ほんのわずかな時間だったが、それで十分だった。
刑事さんは表情を変えることなく、ごく小さな動きで合図を返した。
準備はできている。
心配する必要はない。
そう伝えられたような気がした。
俺は何事もなかったかのように視線を前へ戻し、武井と並んで建物の外へ出た。
駅へ向かう道には、帰宅を急ぐ会社員や学生たちが行き交っていた。車道から聞こえるエンジン音、信号機の電子音、店先から流れてくる音楽。それらが混ざり合い、いつもと変わらない夕方の街をつくっている。
けれど今の俺には、すべてがどこか現実離れしたものに感じられた。
隣では武井が話し続けている。その少し後ろを、刑事さんが一定の距離を保ちながらついてきている。
俺は決して振り返らなかった。それでも、背後に人の気配があることだけは分かる。俺たちが歩く速度に合わせ、近づきすぎず、離れすぎず、さりげなく後を追ってくれている。
こうして誰かに見守られながら歩くというのは、不思議な感覚だった。心強いはずなのに、同時に、これから何かが起こるのではないかという緊張が胸の奥に広がっていく。
――きっと、まいも今頃、こんな感じなのだろう。
知らないふりをしながら普段どおりに振る舞い、そのすぐ近くでは刑事が目を光らせている。
まいも俺と同じように、何気ない顔で誰かと話しながら、胸の内では落ち着かない気持ちを抱えているのだろうか。
それとも、俺よりもうまく平静を装っているのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は武井と並び、夕方の人波に紛れて駅へ向かって歩いていった。
その頃、まいたちもまた、帰宅の途についていた。
夕暮れに染まり始めた街を、まいは佐々木と肩を並べて歩いていた。駅へ向かう道には仕事帰りの会社員や学生たちが行き交い、車道からは絶え間なく車の走る音が聞こえてくる。
警護されながらの帰宅――本来なら、もっと緊張していてもおかしくない状況だった。
しかし、まいは隣を歩く佐々木と楽しそうに話していた。その姿だけを見れば、二人が刑事と警護対象であることに気づく者はいないだろう。少し年の離れた知人同士か、仕事帰りに偶然一緒になった同僚のようにも見えた。
はじめのうちは固さの残っていた佐々木の表情も、まいと話しているうちに少しずつ和らいでいた。
駅が近づいてきたところで、まいは何かを思い出したように足を緩めた。
「そうだ、佐々木さん。買い物に付き合ってもらってもいいですか?」
不意に尋ねられ、佐々木はまいの顔を見る。
「買い物ですか?」
「はい。今夜の食材を買って帰らないと、家に何もないんです」
そう言って笑うまいに、佐々木は周囲へさりげなく視線を巡らせた。警護中である以上、予定外の場所へ立ち寄る際には、いつも以上の注意が必要になる。
だが、駅前のスーパーなら人通りも多く、店内も明るい。長時間滞在するのでなければ、大きな問題はないだろう。
「はい、問題ありませんよ。寄っていきましょう」
「ありがとうございます」
まいは嬉しそうに答えると、駅の近くにあるスーパーへ向かって歩き始めた。
自動ドアが開くと、店内の明るい光とともに、軽快な音楽が二人を迎えた。入口付近には色鮮やかな果物が並び、その奥からは、できたての総菜の香りが漂ってくる。
まいは買い物籠を手に取り、まず野菜売り場へ向かった。
並べられた食材を一つひとつ見ながら、今夜は何を作ろうかと考えているようだった。野菜を手に取っては状態を確かめ、ときどき首を傾げながら籠へ入れていく。
その少し後ろを歩きながら、佐々木は買い物に付き添いつつ、周囲への警戒を怠らなかった。
店内には多くの客がいる。
買い物に夢中になっている人、商品棚の前で立ち止まっている人、スマートフォンを見ながら歩いている人――その一人ひとりにさりげなく目を配り、まいへ不自然に近づこうとする者がいないかを確かめる。
そんな佐々木の緊張など知らない様子で、まいは肉売り場の前で立ち止まった。
「佐々木さんは、何が食べたいですか?」
「えっ?」
思いがけない言葉に、佐々木は一瞬、意味が分からないという顔をした。
「晩ご飯です。せっかくなので、佐々木さんの食べたいものにしようかなと思って」
まいは当然のことのようにそう言いながら、棚に並んだ食材と佐々木の顔を交互に見た。
「いやいや、俺は大丈夫ですよ」
佐々木は慌てて首を横に振った。
「朝比奈さんを家まで無事に送り届けたら、そこで交代ですから」
「そうなんですか?」
まいの声には、分かりやすいほどの残念な響きが混じっていた。
「はい。俺は署に戻らなければならないので」
「でも、せっかくですから、晩ご飯を食べていきませんか?」
まいは少し期待するような目で佐々木を見つめた。
その言葉に、佐々木は困ったように眉を下げる。
警護対象の女性に夕食へ誘われるなど、刑事になってから一度も経験したことがなかった。しかも、まいの表情には警戒も下心もない。ただ、ここまで一緒に歩き、買い物に付き合ってくれた相手を食事へ誘うという、ごく自然な気遣いしか感じられなかった。
「それは、さすがにまずいですよ」
佐々木は苦笑しながら、やんわりと断った。
「このあと署に戻って、今日のことを報告書にまとめなければなりませんから。お気持ちだけ、ありがたくいただいておきます」
「そうですよね……。佐々木さんは、まだお仕事ですもんね」
まいは小さく肩を落とし、残念そうに答えた。
ほんの少し口を尖らせたその姿が、佐々木にはどこか可笑しく、同時に微笑ましく見えた。
まいは気を取り直したように商品棚へ視線を戻したが、すぐにもう一度、佐々木を振り返った。
「ちなみに、明日も佐々木さんが来てくれるんですか?」
「いえ。明日は、おそらく別の者が担当すると思います」
「そうなんですか……」
まいは少し寂しそうな顔をしたあと、冗談めかして笑った。
「せっかく仲良くなれたのにね」
そのひと言を聞いた瞬間、佐々木は堪えきれずに笑ってしまった。
「朝比奈さんは、本当に不思議な人ですね」
「そうですか?」
「ええ。普通、こんな状況で警護についている刑事と仲良くなろうとは思いませんよ」
「だって、ずっと一緒にいてくれたじゃないですか。それなら、もう知らない人ではありませんから」
まいはそう言うと、何事もなかったかのように再び食材を選び始めた。
その横顔を見つめながら、佐々木の胸の奥に温かいものが広がっていった。
――この人は、本当に素敵な人だ。
まいは、自分を単なる警護担当の刑事として見ているのではない。
仕事だからそばにいる人間でも、自分を監視する警察官でもなく、一人の人間として接してくれている。佐々木の立場や肩書ではなく、その向こう側にいる一人の男を見ようとしてくれているのだ。
こんな状況に巻き込まれ、不安でたまらないはずなのに、まいは周りへの優しさを失っていない。それどころか、自分を守るためについている刑事の夕食まで心配してくれている。
その無防備な優しさが、佐々木には嬉しくもあり、同時に心配でもあった。
――何があっても、この人を傷つけさせるわけにはいかない。
警護対象だから守るのではない。
刑事として命令を受けたからでもない。
目の前にいる一人の人間を、心から守りたいと思った。
――絶対に、俺が守ってみせる。
佐々木は胸の内で、静かにそう誓った。
そんな強い決意を向けられているとは知らず、まいは買い物籠の中をのぞき込みながら、今夜の献立を楽しそうに考えていた。




