41 『疑問』
課長との話を終え、俺は軽く頭を下げて応接室を後にした。
静かにドアを閉めると、廊下にはいつもと変わらない会社の空気が流れている。
ほんの数分前まで事件の話をしていたとは思えないほど、社内はいつも通りの日常に包まれていた。
俺はその空気を感じながら、自分のデスクへと戻る。
椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろすと、一度だけ深呼吸をした。
目の前には、整理された書類の山と、黒いモニターの電源が落ちたパソコン。
今日は特別仕事が溜まっているわけでもない。
まずはメールを確認して、昨日の続きを片付けよう。
そんなことを考えながらパソコンの電源ボタンを押した。
静かな起動音とともにモニターに会社のロゴが映し出される。
その画面をぼんやり眺めていた、その時だった。
不意に、さっき課長と交わした会話が頭の中によみがえってきた。
――課長には……何か連絡はありませんでしたか?
俺がそう尋ねた瞬間のことだ。
課長は一瞬だけ目を見開き、自分を指差すような仕草を見せた。
「俺のところに?」
そう返したあと、すぐに笑って否定していた。
あの時は特に気にも留めなかった。
だが、今になって思い返すと――。
「あれ……。」
俺はマウスを握ったまま動きを止める。
ほんの一瞬だけだった。
本当に一瞬だけ。
だけど、あの時の課長は、少しだけ動揺したようにも見えた。
俺の見間違いだったのか。
それとも、ただ予想外の質問だったから驚いただけなのか。
「いや……。」
俺は小さく首を横へ振る。
考えすぎだ。
課長が俺を心配して呼び出してくれたことは間違いない。
事件のことも、俺の体調のことも、本気で気遣ってくれていた。
それは話していて十分伝わってきた。
それなのに、ほんの一瞬の表情だけで疑うなんて失礼にもほどがある。
「ない、ない……。」
思わず苦笑いが漏れる。
「そんなわけないか。」
課長は昔から面倒見がよく、俺が新人だった頃から何度も助けてくれた人だ。
仕事で失敗した時も、落ち込んでいた時も、いつもさりげなく声を掛けてくれた。
そんな人が杉田と繋がっているなんて、考えられるはずがない。
「課長を疑ったら、バチが当たるな……。」
俺は小さくそう呟くと、自分の考えを打ち消すように苦笑した。
そして気持ちを切り替え、画面に表示されたメール一覧へ視線を戻す。
だが、その胸の奥には、自分でも気づかないほど小さな違和感だけが、まるで消え残った火種のように静かに燻り続けていた。
パソコンに向かい、メールの確認や資料の整理を進めていると、不意にデスクの横から聞き慣れた声が飛んできた。
「先輩、仕事どうですか?」
顔を上げると、そこには武井がいつもの人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。
片手をデスクに軽く添えながら、俺の様子を覗き込むようにして続ける。
「キリのいいところで飯にしましょうよ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず心の中で苦笑した。
――また来たかぁ……。
最近の武井は、昼休みになると決まって俺を誘いに来る。
最初はたまたま一緒になっただけだったはずなのに、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていた。
どうやら完全に懐かれてしまったらしい。
「まぁ……仕方ないか。」
俺は心の中でそう呟く。
武井は人懐っこくて裏表のない性格だ。
年齢は離れているが、先輩後輩というより、気の合う兄貴分に接するような距離感で話しかけてくる。
正直、少し賑やかすぎると思うこともある。
だけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「武井。」
俺は画面から目を離し、椅子を少し回して振り向く。
「わかった。あとちょっとだけ待っててくれ。」
そう言うと、武井は背筋をピンと伸ばし、大げさなくらい丁寧に頭を下げた。
「かしこまりました!」
その返事があまりにも芝居がかっていて、思わず吹き出しそうになる。
――何が『かしこまりました』だよ……。
頭の中で思わずツッコミを入れてしまう。
そんな言い方をするようなキャラじゃないだろ。
きっと俺をからかって遊んでいるだけなんだ。
そう考えると、さっきまで頭の中を占めていた事件のことや課長への違和感も、一瞬だけどこかへ吹き飛んでしまった。
……でも。
その武井に心の中でツッコミを入れている自分に気付いた瞬間、別のことを思ってしまう。
――俺、ひどい奴だな。
せっかく純粋に誘いに来てくれているのに、心の中では好き勝手言っている。
そんな自分がおかしくなってしまい、思わず口元が緩んだ。
「ふっ……。」
笑い声を堪えようとしたものの、少しだけ漏れてしまったらしい。
武井はすぐにそれに気付き、不思議そうな顔で首を傾げる。
「先輩、何笑ってるんですか?」
そして、ニヤリと悪戯っぽく笑うと、
「そんなに腹減ってたんですか?」
と、冗談混じりに聞いてきた。
「なぁ訳ないだろ。」
俺は苦笑しながら立ち上がる。
「武井が面白いなぁって思っただけだよ。」
「えっ、俺ですか?」
武井は目を丸くして自分を指差す。
「そう。」
俺は笑いながら頷いた。
「ただ、それだけ。」
武井は理由が分からないまま「なんですか、それぇ」と照れくさそうに頭を掻いている。
そんな姿がまた妙に可笑しくて、俺は小さく笑った。
さっきまで胸の奥に引っ掛かっていた重たい空気が、少しだけ軽くなった気がする。
俺はパソコンの画面を閉じ、椅子をデスクの中へ戻した。
「よし。」
軽く伸びをしてから武井を見る。
「じゃあ、行くか。」
「はい!」
武井は嬉しそうに返事をすると、俺より一歩先を歩き始めた。
その後ろ姿を見ながら、俺もゆっくりと昼休みの賑やかな社内へ足を踏み出した。




