40 『消えた存在』
応接室には静かな空気が流れていた。
外からは社員たちの話し声や電話の音がかすかに聞こえてくるものの、この部屋だけは別世界のように落ち着いている。
佐藤課長はテーブルの上で両手を組み、しばらく俺の顔を見つめていた。
その表情はいつもと変わらず穏やかだった。
やがて課長は小さく息をつくと、優しい口調で口を開いた。
「高木君。」
「はい。」
「あれから……どうだ?」
課長は俺の様子を気遣うように言葉を続ける。
「体調の方は?」
「それと……記憶はどうだ?」
その問いかけに、俺は少しだけ視線を落とした。
事故から時間は経っている。
体はすっかり回復し、普段どおり仕事もできるようになった。
だが、一つだけ元に戻らないものがあった。
失われた記憶。
俺は静かに息を吸い込み、課長の目を見て答えた。
「課長、体調は問題ありません。」
少しだけ笑顔を作る。
「仕事もだいぶ慣れてきました。」
しかし、その笑顔はすぐに少し曇る。
「ただ……。」
一拍置いてから、小さく首を横に振った。
「記憶だけは、まだ戻っていません。」
そう口にすると、自分でも少し気まずくなり、苦笑いを浮かべてしまう。
事故の前の自分。
家族との思い出。
会社で積み重ねてきた日々。
どれも頭の中には靄がかかったままだった。
そんな俺の表情を見た課長は、優しく微笑んだ。
「まあ、気にするな。」
落ち着いた声だった。
「焦る必要なんてない。」
「ゆっくりでいいんだ。」
課長はまるで父親のような優しい眼差しで続ける。
「きっと、いつか元に戻る。」
「だから今は無理をしなくていい。」
その言葉に、張っていた気持ちが少しだけ軽なる。
「……ありがとうございます。」
俺は素直に頭を下げた。
課長は満足そうに頷くと、その後は仕事とは関係のない話を始めた。
最近の暑さのこと。
通勤電車の混み具合。
会社の近くに新しくできた定食屋の話。
他愛もない世間話が続いていく。
俺も相槌を打ちながら話を聞いていた。
しかし――。
心のどこかで、引っかかるものがあった。
(……おかしい。)
佐藤課長は、仕事中に雑談だけをするために部下を応接室へ呼ぶような人ではない。
真面目で責任感が強く、時間の使い方にも厳しい人だ。
そんな課長が、わざわざ応接室まで使って世間話をするだろうか。
いや、そんなはずはない。
きっと何か、本当に聞きたいことがある。
そう感じた俺は、意を決して口を開いた。
「課長。」
「ん?」
課長が穏やかな表情でこちらを見る。
俺はまっすぐ課長を見つめた。
「本当のことを聞いてもいいですか?」
「おぉ、何だ?」
課長は少し驚いたような表情を見せる。
俺は静かに続けた。
「俺を応接室に呼んだ理由……。」
「本当は、他にありますよね。」
一瞬、応接室の空気が止まったような気がた。
課長の表情がわずかに固まる。
俺はそのまま言葉を続けた。
「課長には、事故のあとから本当にお世話になっています。」
「だから俺に話せることなら、隠さず全部話します。」
「ですから……。」
「本当の理由を聞かせてください。」
課長はしばらく黙ったまま俺を見つめていた。
やがて観念したように苦笑いを浮かべ、小さく肩をすくめる。
「ははっ……。」
「やっぱり、高木君には見透かされていたか。」
そう言って軽く頭をかく。
「世間話でごまかせると思ったんだけどな。」
俺は何も言わず、静かに課長の次の言葉を待った。
課長は一度深呼吸をすると、表情を引き締める。
「実はな……。」
「私が一番知りたかったのは、あの事件のことなんだ。」
一拍置いて、静かに問いかける。
「……あれから、杉田はどうなったんだ?」
その名前が応接室に響いた瞬間、穏やかだった空気は一変し、事件の記憶が再び俺の胸の奥で静かに蘇り始めていた。
「はい……それが、警察の方たちも必死になって行方を追っているそうなんですが、あれ以来、本当に何の足取りも掴めていないみたいなんです。」
俺は少し表情を曇らせながら、課長にゆっくりと説明した。
「知り合いか、それとも昔から付き合いのある誰かに匿われている可能性が高いって話でした。都内は防犯カメラもかなり設置されていますし、高速道路や駅なんかも至る所にカメラがあります。それなのに、一切映っていないらしいんです。」
そう話しながら、俺自身も改めて不気味さを感じていた。
あれほど大きな事件を起こした人間が、まるで最初から存在しなかったかのように姿を消してしまうなんて、普通では考えられない。
課長は腕を組み、小さく唸るように息を吐いた。
「誰が匿っているんだろうなぁ……。」
その言葉は独り言にも近く、純粋な疑問だった。
俺も同じことを何度も考えてきた。
杉田にそこまで協力する人間が本当にいるのか。
それとも、まだ俺たちの知らない人物が事件の裏にいるのか――。
「それは警察にも分からないみたいです。」
俺は静かに首を横へ振る。
「いろいろな関係者に話を聞いたり、昔の交友関係なんかも調べているそうなんですが、決定的な情報は何も出てきていないみたいで……。」
応接室に一瞬、静かな空気が流れた。
課長は視線をテーブルへ落とし、考え込むように呟いた。
「そうかぁ……。」
そして、少し首を傾げながら続ける。
「奴にそんな人脈なんてあったのかなぁ……。俺が知っている杉田は、そこまで周りから信頼されるような人間じゃなかったんだけどな。」
その言葉を聞いた俺は、ふと気になっていたことを思い出した。
「課長には……何か連絡はありませんでしたか?」
課長は一瞬だけ目を丸くし、自分を指差した。
「俺のところに?」
そう言うと、少し苦笑いを浮かべながら大きく首を横へ振る。
「いやいや、あ、あるわけないじゃないか。」
その笑顔には少しだけ寂しさも混じっていた。
「もう、うちの会社を辞めて何年も経つしな。あいつにとって俺なんて、とっくに忘れられてるさ。」
課長は冗談っぽく笑って見せたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
俺はその表情を見つめながら、小さく頷いた。
「そうですか……。」
少し間を置いてから、俺は今の状況を改めて伝える。
「今のところ、それ以外には何も進展はないみたいです。」
そして、安心させるように続けた。
「だから警察の方が毎日、俺の護衛についてくれているんです。通勤も帰宅も、できる限り一人にならないようにしてくれています。」
課長は深く頷き、少し安心したような表情を浮かべた。
「そうか。それなら少しは安心だな。」
しかし、その表情はすぐに真剣なものへと変わる。
課長はまっすぐ俺の目を見つめ、いつもの穏やかな口調で言った。
「でもな、高木くん。」
「はい。」
「警察が付いているからといって油断だけはするなよ。相手がどこで何を考えているのか分からない以上、慎重すぎるくらいでちょうどいい。」
その言葉には、上司としてだけではなく、一人の人間として俺を心配してくれている気持ちが込められていた。
俺はその思いをしっかりと受け止め、静かに頷く。
「はい。ありがとうございます。十分に気を付けます。」
そう答えると、課長は安心したように小さく笑い、「それでいい」と優しく頷いた。




