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39 嘘も方便



三人で話をしながら歩いているうちに、会社のエントランスが見えてきた。


 朝日を受けてガラス張りの外壁がきらりと光り、次々と社員たちが建物の中へ吸い込まれていく。


 自動ドアの前まで来ると、鈴木さんは足を止め、俺の方へ向き直った。


 柔らかな笑顔は、病院で見せてくれていた頃と何も変わらない。


「じゃあ、高木さん。」


 少しだけ照れたように微笑みながら続ける。


「また連絡、楽しみにしてますね。」


 その一言には、約束を信じて待っていますという気持ちが込められていた。


 俺も自然と笑みを浮かべ、小さく頷く。


「はい。必ず連絡します。」


「約束ですから。」


 その言葉を聞くと、鈴木さんは安心したように「はい」と微笑み返した。


 軽く会釈をすると、彼女は俺たちとは別の入り口へ向かって歩き始める。


 何度か振り返りながら小さく手を振る姿が見えなくなるまで、俺はその後ろ姿を見送っていた。


 すると、その静かな空気を壊すように、隣から勢いよく声が飛んできた。


「高木さん!」


 振り向くまでもなく、犯人は分かっている。


 武井だった。


 目を輝かせながら俺の肩に顔を近づけ、興味津々といった様子で小声になる。


「何だったんですか、今の?」


「もしかして、合コンのことですか?」


 少し間を空けると、さらに身を乗り出してくる。


「それとも……。」


「二人だけで何か約束したんですか?」


 口元をニヤニヤさせながら、期待に満ちた表情で続ける。


「俺にも教えてくださいよぉ~!」


 俺は思わず苦笑いを浮かべ、大きくため息をついた。


「違う違う。」


 軽く手を振りながら否定する。


「そんな話じゃないよ。」


 武井は「えぇ~?」と残念そうな声を漏らす。


 俺は笑いながら説明を続けた。


「鈴木さん、ちゃんと合コンの約束を覚えてくれてたんだ。」


「だから、『事件が終わったら約束どおりお願いしますね』って確認されただけ。」


 そう言って肩を軽くすくめる。


「だからお前は焦らなくて大丈夫だよ。」


「待ってれば、鈴木さんからちゃんと連絡が来るから。」


 その言葉を聞いた武井は、一瞬だけ目を丸くした。


 そして次の瞬間には、胸をなで下ろすように大きく息を吐く。


「はぁ~……。」


「よかったぁ。」


 心底安心したような表情を浮かべると、今度は口元が自然と緩み始めた。


 ニヤニヤ。


 ニヤニヤ。


 隠そうとしても隠しきれない笑顔が顔いっぱいに広がっている。


 その様子がおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。


「武井。」


「お前、本当に鈴木さんのこと好きなんだなぁ。」


 からかうようにそう言うと、武井は少し照れ臭そうに頭をかいた。


「だって……。」


 少し視線を逸らしながら苦笑いを浮かべる。


「彼女いない歴、もうかなり長いですからね。」


 照れ隠しなのか、小さく笑いながら続けた。


「そろそろ本気でいかないと、このままずっと一人な気がしてきちゃって。」


 その言葉には、半分冗談、半分本音が混じっていた。


 俺はそんな武井を見つめながら、優しく笑う。


「そっか。」


「そっか、わかった。」


 軽く武井の肩をぽんと叩く。


「じゃあ、その時はちゃんと応援してやるよ。」


 その言葉に武井はぱっと表情を明るくし、勢いよく頷いた。


「本当ですか!」


「ありがとうございます、高木さん!」


 朝の会社のエントランスには、二人の笑い声が静かに響いていた。


 事件の緊張が続く毎日だったが、こうして何気ない会話を交わせる時間が、謙にとっては少しだけ心を軽くしてくれる大切なひとときになっていた。


自分のデスクについた俺は、椅子に腰を下ろすと、机の上に積まれていた書類へ目を通し始めた。


 午前中のオフィスは、電話の着信音やキーボードを打つ音、コピー機が動く音が絶え間なく響いている。


 社員たちはそれぞれの仕事に集中し、慌ただしくも落ち着いた空気が職場全体を包んでいた。


 俺もその雰囲気に溶け込むようにパソコンを立ち上げ、メールの確認を終えると、一つひとつの仕事を丁寧に片付けていく。


 事故で記憶を失い、職場へ復帰したばかりの頃は、何をするにも戸惑いの連続だった。


 書類の保管場所すら思い出せず、同僚に助けてもらうことも少なくなかった。


 だが、少しずつ仕事の流れを体が思い出してきたのだろう。


 最近では、一日の段取りも自然と頭の中で組み立てられるようになり、以前よりもスムーズに仕事を進められるようになっていた。


 ふと時計に目をやる。


 気づけば時間はあっという間に過ぎている。


 「少しずつだけど、元の生活に戻れてきているのかな……。」


 そんなことを心の中で思いながら、俺は次の書類へ手を伸ばした。


 ――その時だった。


「高木君。」


 少し離れた場所から落ち着いた声が聞こえてきた。


「ちょっと来てくれるか。」


 俺は顔を上げ、その声のした方を見る。


 そこには、穏やかな表情でこちらを見ている課長の佐藤さんが立っていた。


「はい。」


 俺はすぐに席を立ち、デスクを離れて佐藤課長のもとへ向かう。


 近くまで行くと、課長は周囲を軽く見回し、小さく頷いた。


「ちょっと、こっちに来てくれるか。」


 そう言って歩き出した先は、執務室の奥にある応接室だった。


 普段は来客との打ち合わせなどで使われる部屋だ。


 俺は少しだけ不思議に思いながらも、課長の後について歩く。


 応接室へ入ると、課長は静かにドアを閉めた。


 部屋の中は外とは違い、とても静かだった。


 壁際には観葉植物が置かれ、中央には応接用のソファと低いテーブルが並んでいる。


 課長はソファを手で示しながら、穏やかな口調で言った。


「まぁ、高木君。座って。」


「はい。」


 俺は軽く返事をすると、少し緊張しながらソファへ腰を下ろした。


 課長も向かい側へゆっくりと腰を下ろす。


 応接室に静かな空気が流れる。


 俺は思わず姿勢を正した。


「課長……。」


 何かあったのだろうか。


 仕事でミスでもしただろうか。


 そんな考えが頭をよぎる。


 俺は少し不安そうな表情で課長を見つめ、口を開いた。


「課長……何かあったんですか?」


 すると佐藤課長は小さく笑い、安心させるようにゆっくり首を横に振った。


「いや、何もないよ。」


 その穏やかな一言に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。


 しかし、わざわざ応接室に呼ばれた理由が何なのかは、まだ分からなかった。


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