38 『思いがけない再会』
38
朝の柔らかな日差しが街を照らし始める頃。
俺――高木謙太郎は、いつもと変わらない駅で電車を降り、職場へ向かう見慣れた道を歩いていた。
駅前には通勤途中の会社員や学生たちが行き交い、それぞれが忙しそうに足を進めている。信号待ちをする人々の話し声や、遠くから聞こえる車の走行音が、いつもの朝の風景を作り出していた。
――ただ一つ、いつもと違うことがあるとすれば、俺の背後には護衛のために配置された刑事が、周囲を警戒しながら一定の距離を保って歩いていることだった。
事件はまだ終わってはいない。
俺の身には、今もなお危険が及ぶ可能性がある。
そのため、こうして通勤にも刑事が付き添う生活が続いていた。
周囲の人から見れば、ただ同じ方向へ歩いているようにしか見えない。
だが、その刑事の視線は常に周囲へ向けられ、不審な人物がいないかを静かに確認している。
それが今の俺にとっての、“いつもの日常”になっていた。
俺もその流れに溶け込むように歩きながら、今日の仕事の段取りを頭の中で整理していた。
――そんな時だった。
「高木さん!」
後ろから、自分の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
聞き覚えのある、明るく優しい声。
俺は足を止め、ゆっくりと振り返る。
そこには、柔らかな笑顔を浮かべた看護師の鈴木さんが立っていた。
白いブラウスに落ち着いた色合いのカーディガンという私服姿だったが、その穏やかな雰囲気は病院で会っていた頃と何も変わらない。
「鈴木さん……」
思わず名前を口にする。
あの事件以来、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
病院で起きた騒動。
鈴木さんまで危険な目に巻き込んでしまったことを思い出し、胸の奥が少し痛む。
一瞬だけ言葉に詰まり、何から話せばいいのか迷った。
しかし、このまま笑顔だけで済ませるわけにはいかない。
俺は軽く頭を下げ、申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「この前は、本当にご迷惑をおかけしてしまって……。申し訳ありませんでした。」
一度言葉を切ると、鈴木さんの様子を心配そうに見つめる。
「鈴木さんは……怪我とか、大丈夫でしたか?」
すると鈴木さんは、小さく首を横に振りながら、いつもの優しい笑顔を見せた。
「はい。私は全然大丈夫でした。」
そう答えると、少しだけいたずらっぽく目を細める。
「それよりも、高木さんって、本当にすごい世界で生きてるんだなぁって思いました。」
少し間を置いてから、照れ笑いを浮かべながら続ける。
「……あの日以来、ますます高木さんのこと、気になっちゃいました。」
「えっ……」
思いもよらない言葉に、俺は思わず目を丸くした。
慌てて両手を軽く振りながら苦笑いを浮かべる。
「いやいや、そんなことないですよ。」
照れ隠しをするように頭をぽりぽりとかく。
「俺なんて、本当にただのサラリーマンですから。特別な人間でも何でもないですよ。」
自分でも少し必死だった。
あの事件は偶然が重なっただけで、決して誇れるようなことではない。
そう思っていたからだ。
すると鈴木さんは、くすっと笑いながら一歩だけ俺との距離を縮めた。
「そうですかぁ?」
どこか楽しそうな表情を浮かべながら、少し首をかしげる。
「でも、高木さん。」
一呼吸置くと、悪戯を思いついた子どものような笑顔になった。
「私をあんな危険な目に遭わせちゃったんですから……。」
少しだけ声を弾ませながら言う。
「責任、とってもらおうかなぁ~。」
「えっ?」
突然の言葉に、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまった。
頭の中が一瞬真っ白になる。
責任……?
一体、何のことだ。
俺は戸惑いながら鈴木さんを見つめ、小さく首をかしげた。
「えぇ……っと。」
恐る恐る尋ねる。
「ど、どんな責任を取れば……いいんでしょうか?」
そう聞いた瞬間、鈴木さんは吹き出すように笑い、その笑い声が朝の穏やかな街並みに優しく響いた
鈴木さんは、いたずらっぽく笑っていた表情を少しだけ落ち着かせると、俺の顔をまっすぐ見つめた。
「じゃあ……。」
一呼吸置き、少しだけ照れたように頬を緩めながら口を開く。
「いつ頃、一緒に飲みに行きましょうか?」
その言葉に、俺は一瞬きょとんとした表情になる。
鈴木さんはそんな俺の反応を見て、小さく笑うと続けた。
「約束、忘れてませんよね?」
優しい口調だった。
けれど、その瞳には冗談ではないという気持ちがしっかりと込められている。
「彼女さんには、絶対に迷惑はかけませんから。」
そう言うと、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
それでも、その表情にはどこか覚悟のようなものが感じられる。
危険な事件に巻き込まれたことを責めたいわけではない。
ただ、あの日に交わした約束だけは、きちんと守ってほしい。
そんな素直な思いが、その言葉から静かに伝わってきた。
俺は思わず苦笑いを浮かべる。
「忘れてませんよ。」
ゆっくりと頷きながら答えた。
「鈴木さんには、入院した時から本当にお世話になりっぱなしでしたから。」
事故で運ばれた病院。
記憶を失い、不安しかなかった毎日。
そんな時、いつも笑顔で接してくれた鈴木さんの姿が自然と思い浮かぶ。
「だから、いつかちゃんとお礼をしないとって思っていました。」
その言葉を聞いた鈴木さんの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
まるで子どものように嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「じゃあ、いつ頃がいいですか?」
少しだけ前のめりになりながら続けた。
「私は今夜でも構いませんよ。」
そして照れ笑いを浮かべながら付け加える。
「高木さんの予定を最優先にしますから。」
「は……はい。」
俺は思わず曖昧な返事をしてしまった。
その笑顔を見ると断る理由などない。
だが、今の自分には事情がある。
二人は歩く速度を合わせながら、職場へ向かう道をゆっくり進んでいく。
朝の爽やかな風が吹き抜け、街路樹の葉が心地よく揺れていた。
俺は少し考えるように前を見つめながら話し始める。
「実は……。」
「まだ事件が完全には解決していないんです。」
その一言で、鈴木さんの表情が少しだけ引き締まる。
「だから今は、俺の周りにも護衛が付いていますし……。」
後ろを歩く刑事へ一瞬だけ視線を向ける。
「事件が全部終わって、『もう大丈夫です』って言われたら、その時に一緒に飲みに行きましょう。」
鈴木さんは静かに頷いた。
「そうなんですね……。」
納得したように微笑みながらも、少しだけ寂しそうな表情を見せる。
「それって……。」
遠慮がちに尋ねた。
「いつ頃になりそうなんですか?」
俺は小さく息をついた。
「それが……。」
苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「今の時点では、俺にも分からないんです。」
事件の全貌はまだ見えていない。
敵も完全には捕まっていない。
だから安易なことは言えなかった。
それでも。
俺は鈴木さんの目を見て、はっきりと告げる。
「でも。」
「約束は絶対に守ります。」
「必ず俺から連絡しますから。」
その言葉に鈴木さんは安心したように微笑み、小さく「はい」と頷いた。
その時だった。
二人の後ろから、通りに響くほど元気な声が飛んできた。
「またまた、お二人仲良さそうに歩いてますねぇ!」
俺は思わず足を止める。
「僕だけ仲間外れですかぁ?」
「ひどいですよ~、高木さん!」
その聞き慣れた声に振り返ると、両手を大きく振りながら駆け寄ってくる武井の姿が見えた。
「鈴木さん、おはようございます!」
「おはようございます。」
鈴木さんも笑顔で軽く頭を下げる。
俺はその様子を見ながら、思わず苦笑いを浮かべた。
――武井だ。
また、ややこしくなりそうな奴が現れた。
そう思うと自然と笑みがこぼれる。
さっきまで少し真面目だった空気が、武井の登場だけで一気に明るく変わっていく。
朝の通勤路には、三人の笑い声が穏やかに響いていた。




