37 『社員食堂』
正午を知らせるチャイムが庁内に静かに響き渡った。
それを合図にしたように、納税課の職員たちが一斉に手を止める。
「お昼行ってきます。」
「先に休憩入りますね。」
そんな声があちこちから聞こえ、それぞれが席を立ち始めた。
課内の張り詰めていた空気も少しだけ和らぎ、朝から忙しく動き回っていた職員たちの表情にも笑顔が戻ってくる。
まいも大きく息をついた。
「ふぅ……。」
午前中だけとはいえ、久しぶりの仕事は思っていた以上に疲れていた。
それでも心地よい疲れだった。
仕事をしているという実感が、少しずつ身体に戻ってきている気がした。
まいは自分の席から立ち上がると、課内を見回す。
そして窓際のデスクへ視線を向けた。
そこには、朝から慣れないパソコンの前に座り続けていた佐々木の姿があった。
佐々木は画面を眺めながら、どこか所在なさそうに椅子へ座っている。
時折マウスを動かしてはいるものの、その姿は刑事というより、初めて事務仕事を任された新人職員のようにも見えた。
その様子に、まいは思わず小さく笑みを浮かべる。
(そういえば……。)
まいは佐々木のもとへ歩いていった。
「佐々木さん。」
突然声を掛けられ、佐々木は顔を上げる。
「あっ、はい。」
「お昼、どうしますか?」
まいはごく自然な口調で尋ねた。
佐々木は一瞬考えるような表情を浮かべる。
「そういえば……。」
「何も考えていませんでした。」
朝から護衛のことばかり考えていて、昼食のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
コンビニで何か買おうか。
近くの店へ入ろうか。
その程度しか考えていなかった。
まいは「やっぱり。」というように優しく微笑む。
「そうしたら。」
少し嬉しそうに続けた。
「私と一緒に社食へ行きませんか?」
佐々木は思わず目を丸くする。
「社食ですか?」
「はい。」
まいは明るく頷いた。
「ここなら大丈夫だと思いますし。」
「えぇ……。」
佐々木は少し困ったように笑った。
「構いませんけど……本当にいいんですか?」
護衛対象と同じ場所で昼食を取る。
もちろん護衛という意味では都合がいい。
だが、役所の職員でもない自分が社員食堂を利用することに、どこか遠慮があった。
そんな佐々木の気持ちを察したのか、まいは笑顔のまま首を横に振る。
「大丈夫です。」
その声には迷いがなかった。
「問題ないですよ。」
そして少しだけ声を弾ませる。
「それに。」
「部長も、頑張って『私の知り合い』ってことにしてくれてますし。」
そう言って、くすっと笑う。
「だから気にしなくて大丈夫です。」
その無邪気な笑顔を見ていると、不思議と断る理由が見つからない。
佐々木は苦笑しながら立ち上がった。
「分かりました。」
「それじゃ、お言葉に甘えます。」
その返事を聞くと、まいの表情がぱっと明るくなる。
「はい!」
嬉しそうに頷くと、まるで同僚を昼食に誘うような気軽さで言った。
「さぁ、行きましょう。」
そう言うなり、まいは何のためらいもなく佐々木の手首をそっとつかみ、軽く引っ張る。
「えっ……。」
突然のことに佐々木は思わず目を見開いた。
「朝比奈さん……。」
慌てて周囲を見回す。
幸い職員たちはそれぞれ昼食の準備をしていて、二人を気にしている様子はない。
まいはそんな佐々木の反応にも気づかず、楽しそうに歩き始める。
その姿は護衛対象というよりも、気心の知れた同僚を食堂へ連れていく職員そのものだった。
佐々木は苦笑しながら、小さく肩を落とす。
(この人は本当に……。)
心の中でそう呟く。
人を疑うことを知らない。
相手が刑事であろうと、初対面であろうと、変わらず自然に接してくる。
だからこそ、多くの人が朝比奈まいという女性に心を許してしまうのだろう。
そんなことを考えながら、佐々木はまいの後ろを歩き始めた。
昼休みの穏やかな空気が流れる庁舎の廊下を、二人は並んで社員食堂へ向かっていった。
二人は庁舎の一階にある社員食堂へやって来た。
昼休みということもあり、食堂には多くの職員が集まっている。
トレーを手に列へ並ぶ人。
空いている席を探す人。
あちこちから楽しそうな話し声が聞こえ、どこか家庭的で温かな雰囲気が広がっていた。
入口近くには食券の自動販売機が並び、その上には今日のメニューが写真付きで掲示されている。
まいは慣れた足取りで自動販売機の前まで行くと、掲示されたメニューを見上げながら嬉しそうに微笑んだ。
「今日は何かなぁ。」
その表情は、昼食の時間を楽しみにしている子どものようだった。
一つひとつの写真を眺めながら、小さく頷く。
「へぇ。」
「今日は日替わりが鶏の照り焼きなんだ。」
写真には、照り焼きを中心に、ご飯、味噌汁、小鉢、漬物が並ぶ定食が写っている。
「結構、ここの日替わり定食って美味しいんですよ。」
まいは佐々木の方を振り返り、楽しそうに話しかけた。
「毎日内容が変わるので、飽きないんです。」
「久しぶりだから、私は今日も日替わりにしようかな。」
そう言って微笑むと、今度は佐々木へ視線を向ける。
「佐々木さんは、どうしますか?」
突然そう聞かれた佐々木は、自動販売機へ目を向けた。
カレーライス。
しょうが焼き定食。
ラーメン。
そば・うどん。
メニューは思っていた以上に豊富だった。
しかし、社員食堂へ入ること自体が初めてだった佐々木は、まだ状況についていけていない。
しかも、まいに誘われるままここまで来てしまったため、何を食べるかなど全く考えていなかった。
(どうしよう……。)
写真を眺める。
だが、どれが人気なのかも分からない。
迷っているうちに、後ろには次の利用者も並び始めていた。
佐々木は少し焦る。
そして、とっさに口から出た言葉は――。
「……同じもので。」
その一言だった。
まいは一瞬だけ佐々木を見つめる。
そして、ぱっと笑顔になった。
「はい!」
元気よく返事をすると、
「じゃあ、日替わり二つですね。」
そう言って慣れた手つきで食券を二枚購入する。
機械から食券が出てくる音が響く。
まいは二枚とも受け取ると、そのまま何の迷いもなく歩き出そうとした。
その時だった。
「あっ。」
佐々木が慌てて財布を取り出す。
「朝比奈さん。」
「はい?」
「お金を……。」
財布から千円札を取り出し、まいへ差し出そうとする。
当然だった。
自分の昼食代くらい、自分で払う。
それが社会人として当たり前だと思っていた。
ところが、まいは差し出された千円札を見ると、にこっと微笑み、軽く首を横に振る。
「今日はいいですよ。」
「え?」
佐々木は動きを止めた。
まいは食券を大事そうに持ちながら、照れくさそうに笑う。
「今日は、私がご馳走しちゃいます。」
その言葉は、あまりにも自然だった。
「えっ……いや、それは……。」
佐々木は慌てて首を振る。
「そんなわけにはいきません。」
護衛対象に昼食をご馳走になるなど、聞いたことがない。
むしろ上司に知られたら怒られるかもしれない。
しかし、まいはまったく気にしていなかった。
「いつも守ってもらってますから。」
そう言って優しく微笑む。
「お礼です。」
その笑顔には打算も遠慮もない。
純粋な感謝だけが込められていた。
「だから今日は気にしないでください。」
佐々木は手にした千円札を見つめたまま、どう返事をすればいいのか分からなくなる。
断るべきか。
受け取るべきか。
仕事としては断るべきなのだろう。
だが、目の前で無邪気に笑うまいを見ていると、その厚意を無下にすることもできない。
「……。」
結局、佐々木は何も言えなかった。
財布をしまいながら、小さく苦笑する。
(また、この人のペースだ……。)
朝から何度目だろう。
気付けば、いつも朝比奈まいの自然な優しさに巻き込まれてしまう。
そんな自分に苦笑しながら、佐々木は食券を手に嬉しそうに歩き出すまいの後を追いかけた。




