36 『イケメン』
始業前の課内では、すでに出勤している職員たちが一日の準備を進めている。
朝の慌ただしさの中にも、どこか穏やかな空気が流れていた。
まいの後ろを、佐々木が少し控えめな様子で歩いている。
スーツ姿の彼は、一見すると役所へ打ち合わせに来た会社員のようにしか見えない。
まいは課の奥にいる一人の女性を見つけると、嬉しそうに声を掛けた。
「部長、おはようございます。」
その声に顔を上げたのは、納税課の堅木部長だった。
優しい笑顔が印象的な女性で、職員一人ひとりをよく見ている、人望の厚い部長である。
「はい、朝比奈さん。」
柔らかな笑顔で返事をすると、堅木部長はまいの後ろに立つ佐々木へ視線を向けた。
まいは一歩横へ寄り、笑顔で紹介する。
「部長、この方が佐々木さんです。」
堅木部長は佐々木へ歩み寄り、優しく微笑んだ。
「佐々木さんですね。お話は伺っております
よろしくお願いします。」
その穏やかな笑顔に、佐々木も背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「佐々木と申します。本日はご配慮いただき、本当にありがとうございます。」
すると堅木部長は、安心させるようにゆっくりと微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
「課のみんなには、『朝比奈さんの知り合いの方で、個人的にお願いしていることがあって来ていただいている』と話してありますから。」
そして少しおどけるように続けた。
「ですから、あまり気を遣わず、パソコンでも触っているふりをしていてくださいね。」
「きっと誰も気にしませんから。」
その優しい言葉に、佐々木は恐縮したように再び深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。」
「ご迷惑をお掛けします。」
堅木部長は首を横に振りながら微笑む。
「迷惑だなんて思わないでください。」
「朝比奈さんが安心して仕事ができることが、一番大切ですから。」
その一言に、佐々木の表情が少しだけ和らいだ。
まいも嬉しそうに微笑むと、
「佐々木さん、こちらです。」
と声を掛け、課の一角にある空いているデスクへ案内した。
椅子を引き、机の上のパソコンの電源ボタンを押す。
画面がゆっくりと明るくなり、起動画面が表示された。
まいは振り返り、いつもの優しい笑顔を向ける。
「佐々木さん、よろしくお願いしますね。」
その一言に、佐々木も自然と微笑み返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
まいは小さく頷くと、自分のデスクへ戻ろうと歩き始める。
その時だった。
「朝比奈さん。」
堅木部長の優しく落ち着いた声が課内に響く。
「はい、部長。」
まいはすぐに足を止め、笑顔で返事をすると、堅木部長のもとへ向かって歩いて行った。
堅木部長は、まいが近づいてくると、柔らかな笑みを浮かべながら小さく首を傾げた。
「まいちゃん。」
「はい。」
まいは素直に返事をすると、部長の前で足を止めた。
課内では職員たちが始業の準備を進めている。
キーボードを打つ音や書類を整理する音が静かに響く中、二人は少しだけ周囲から離れるように立って話を始めた。
堅木部長は、どこか不思議そうな表情を浮かべながら口を開く。
「確か、まいちゃんはゴールデンウィーク明けから本格的に復帰する予定じゃなかった?」
その言葉に、まいは少し照れくさそうに笑った。
「そうだったんですけど……。」
そう言うと、小さく肩をすくめる。
「やっぱり仕事からだいぶ離れていたので。」
一度言葉を区切り、少しだけ視線を落とした。
「いきなり本格的に復帰するより、少しずつ体を慣らした方がいいかなって思ったんです。」
その表情には、焦りではなく前向きな気持ちが表れていた。
「今日は、その慣らし運転みたいな感じですね。」
まいは照れ笑いを浮かべる。
「仕事の感覚を思い出すために、出勤してきちゃいました。」
その最後の一言が、いかにもまいらしかった。
堅木部長は思わず口元を緩める。
「ふふっ。」
小さく笑うと、優しい眼差しでまいを見つめた。
「まったく……。」
「まいちゃんは、本当に変わってないわね。」
その声には呆れた様子などまったくなく、どこか娘を見守るような温かさが滲んでいた。
まいは照れくさそうに笑う。
「すみません。」
「謝ることじゃないわ。」
堅木部長は穏やかに首を横へ振った。
「その気持ちは、とてもいいことだと思う。」
そして少しだけ考えるように視線を上げる。
「そうね。」
「それなら今日は無理に仕事を抱え込まなくていいから。」
「みんなのサポートをお願い。」
「分からないことがあれば感覚を思い出しながら少しずつやっていけばいいわ。」
「それで十分。」
その言葉に、まいの表情がぱっと明るくなる。
「はい。」
「分かりました。」
元気よく返事をすると、堅木部長も満足そうに微笑んだ。
そして――。
何かを思い出したように、小さく視線を佐々木の方へ向ける。
佐々木は少し離れたデスクで、居心地が悪そうにパソコンの画面を見つめていた。
時折マウスを動かしてはいるものの、明らかに慣れていない様子である。
その姿を見て、堅木部長はふっと笑みを浮かべた。
「あとね、まいちゃん。」
「はい?」
まいも自然と佐々木の方へ視線を向ける。
堅木部長は少し声を潜めるようにして言った。
「佐々木さんって……。」
一呼吸置いてから、いたずらっぽく微笑む。
「結構、イケメンね。」
その一言に、まいは一瞬きょとんとした。
次の瞬間――。
「ふふっ。」
思わず笑いが込み上げる。
「確かに、そうかもしれませんね。」
そう答えながら、もう一度佐々木へ目を向ける。
改めて見てみると、背も高く、爽やかな顔立ちをしている。
「でも……。」
まいは首を傾げた。
「今まで全然意識したことありませんでした。」
その言葉には嘘がなかった。
まいにとって佐々木は、「護ってくれている刑事さん」という存在であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのである。
そして次の瞬間。
まいは、いつものように悪気なく笑顔で言った。
「堅木部長。」
「よかったら紹介しましょうか?」
その言葉に、堅木部長は思わず目を丸くする。
「えっ?」
一瞬固まったあと、慌てて両手を軽く振った。
「ち、違う違う。」
「そういう意味じゃないから。」
思わず笑いながら否定する部長。
まいは「そうなんですか?」というように首を傾げている。
その無邪気な反応が可笑しくて、堅木部長はまた笑ってしまう。
まいもつられるように笑い出した。
課内には職員たちが忙しく動いている。
その片隅で交わされる、他愛のない会話。
事件の緊張とはまるで無縁の、穏やかで温かな時間が静かに流れていた。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく優しく微笑み合った。
午前九時。
始業のチャイムが庁内に静かに響き渡ると、納税課にもいつもの一日が始まった。
窓口には次々と来庁者が訪れ、職員たちはそれぞれの持ち場へ散っていく。
電話の着信音。
キーボードを打つ軽快な音。
プリンターから書類が印刷される音。
普段と変わらない、区役所の日常がゆっくりと動き始めていた。
まいも自分のデスクへ座ることはなく、課内を忙しく歩き回っていた。
今日は本格的な業務ではなく、あくまでも仕事に身体を慣らすための出勤。
堅木部長の言葉どおり、同僚たちのサポート役として動いていた。
「朝比奈さん、この書類お願い。」
「はい。」
「これ、コピー十部お願いできる?」
「分かりました。」
「入力だけお願いしてもいい?」
「はい、大丈夫です。」
頼まれた仕事を一つずつ受け取り、まいは慌ただしく課内を動き回る。
書類を整理し、コピー機の前に立ち、印刷が終われば急いで各部署へ届ける。
自席へ戻ればパソコンに向かい、言われた内容を一つひとつ入力していく。
どれも難しい仕事ではない。
ほんの数か月前までは、何も考えずに自然とこなしていた仕事ばかりだった。
それなのに――。
(あれ……。)
まいは画面を見つめながら、小さく眉を寄せた。
(次は何をやればいいんだろう……。)
以前なら周囲の流れを見れば自然と身体が動いていた。
誰に言われなくても、自分で考えて動くことができた。
しかし今日は違う。
頼まれた仕事はできる。
けれど、それが終わった瞬間に頭の中が真っ白になる。
次に何を優先すればいいのか。
誰を手伝えばいいのか。
その判断がまるでできなくなっていた。
まいは心の中で小さくため息をつく。
(全然ダメだ……。)
自分でも驚くほど、不安な気持ちが込み上げてくる。
(指示してもらわないと、次が全然見えない……。)
コピーを終え、書類を届けても、
「朝比奈さん、これお願い。」
そう声を掛けてもらえるまで、自分から動けない。
そんな自分が少し悔しかった。
(体慣らしに来て、本当に良かった……。)
そう思う。
本格的な復帰をしてから、この状態に気付いていたら、もっと焦っていたかもしれない。
(こんなに不安になるなんて思ってなかったな……。)
長い間仕事を離れるということは、身体だけではない。
仕事の勘も、流れも、自然な判断力も、少しずつ薄れてしまうのだ。
そんな現実を、まいは今、身をもって感じていた。
ふと、その時だった。
まいの脳裏に、一人の顔が浮かぶ。
(……謙。)
自然と手が止まる。
事故で記憶を失った謙。
何も分からないまま職場へ戻った日のことを思い出した。
『何も分からなかった。』
以前、謙が静かにそう話していた。
その時は「大変だったんだろうな」と思っただけだった。
でも今なら少し分かる気がする。
(そうか……。)
まいは心の中で呟く。
(謙も、こんな気持ちだったのかな……。)
何をすればいいのか分からない。
周囲の流れについていけない。
自分だけ取り残されているような不安。
まいは記憶も仕事も残っている。
それでも、これほど心細い。
なのに謙は――。
(記憶が何もない状態だったんだもんね……。)
仕事のことだけではない。
人間関係も。
毎日の生活も。
自分がどんな人間だったのかさえ分からないまま、職場へ戻った。
その重圧は、自分とは比べものにならないほど大きかったはずだ。
まいは小さく微笑んだ。
(やっぱり謙って、すごいな……。)
改めてそう思った。
何も言わずに頑張ってきた謙の姿が胸に浮かび、自然と尊敬の気持ちが湧いてくる。
その時だった。
ふと顔を上げると、少し離れた席に座る佐々木と目が合った。
佐々木はパソコンの画面を見ていたが、まいの視線に気付いて顔を上げたのだ。
二人の視線が一瞬だけ重なる。
まいは何も言わず、自然に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。」
そんな言葉の代わりのような、優しく穏やかな笑顔だった。
その笑顔を受けた佐々木は、一瞬だけ目を丸くしたあと、どこか照れくさそうに視線を逸らした。
そして少しだけ下を向き、照れ笑いを浮かべる。
まいは、その反応がなんだか可笑しくて、ほんの少しだけ笑みを深くした。
課内では相変わらず忙しく仕事が続いている。
けれど、その一瞬だけは、どこか穏やかな時間が流れたような気がした。
そうして、気が付けば時計の針は正午を指していた。
午前中の業務は、慌ただしくも静かに終わりを迎えた。




