35 『指令 何があっても守れ』
朝比奈まいは、市役所の自動ドアをくぐると、軽く一礼をして受付前を通り過ぎた。
始業前の庁舎内では、職員たちがそれぞれの部署へ向かい、あちこちから「おはようございます」という爽やかな挨拶が聞こえてくる。静かな朝の空気の中にも、一日の仕事が始まろうとする心地よい活気が満ちていた。
まいも笑顔で挨拶を返しながら、自分の所属する部署へ向かう。
事務室へ入ると、職員たちはパソコンを立ち上げたり、書類を整理したりと始業の準備に追われていた。
「おはようございます。」
まいが明るく声を掛けると、
「おはようございます。」
「朝比奈さん、おはよう。」
あちらこちらから温かな声が返ってくる。
まいは自分の席へ向かう前に、そのまま部長席へ足を運んだ。
「堅木部長、おはようございます。」
書類に目を通していた堅木部長は顔を上げ、優しく微笑んだ。
「おはよう、朝比奈さん。どうしたの?」
まいは小さく頷くと、表情を引き締めた。
「実は、ご相談したいことがありまして……。」
そう前置きをすると、自分の身に起きている事件のこと、警察から護衛を受けることになったこと、そして今日から刑事の佐々木が勤務時間中も近くで警護に当たる予定であることを、順を追って丁寧に説明した。
堅木部長は途中で口を挟むことなく、何度も小さく頷きながら最後まで真剣に耳を傾けていた。
話が終わると、少しだけ考えるように視線を事務室へ向ける。
「あら、それなら……。」
柔らかな声とともに、部長の視線が部署の奥にある一つの空席へ向いた。
「あそこのデスク、今は誰も使っていなかったわよね。」
まいもその方向を見る。
異動後、そのまま空席になっているデスクだった。
堅木部長は穏やかに微笑みながら言った。
「刑事さんには、あそこを使っていただけばいいんじゃないかしら。」
「えっ?」
まいは思わず目を丸くする。
「入口でずっと立って警護をしていたら、来庁者も職員も『何かあったのかな』って落ち着かなくなってしまうでしょう?」
部長は優しい口調のまま続けた。
「でも、空いているデスクに座っていただければ、周りから見ても自然よ。『応援で来られた職員さんかな』と思う人も多いでしょうし、朝比奈さんの様子も近くで見守りやすいもの。」
まいの表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「もちろん。」
堅木部長は優しく微笑みながら頷いた。
「警察の方も任務をしやすいでしょうし、私たちも安心して仕事ができるわ。遠慮することなんてないのよ。」
その温かな言葉に、まいは嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
自然と笑みがこぼれる。
まいは急いで踵を返すと、小走りで部署を出た。
廊下を抜け、階段を下り、エントランスへ向かう足取りは軽い。
(佐々木さん、きっと安心してくれる。)
そんなことを思いながら自動ドアを抜けると、エントランス付近で周囲へ静かに目を配りながら警戒を続ける佐々木の姿が目に入った。
まいは嬉しそうな笑顔を浮かべ、そのまま佐々木のもとへ駆け寄っていった。
まいは佐々木の前まで戻ってくると、満面の笑みを浮かべた。
「佐々木さん、大丈夫です。」
その笑顔は、自信に満ち溢れている。
「堅木部長にお話ししたら、すぐに了承してくださいました。」
嬉しそうに頷くと、まいはさらに続けた。
「私たちの部署に空いているデスクがありますから、そこを使ってください。ゆっくりできますし、私も近くにいるので安心です。」
まるで自分のことのように嬉しそうに話すまい。
その表情には、警察官を困らせているという意識はまったくない。
純粋に、
『これなら佐々木さんも楽になる。』
そう信じ切っている笑顔だった。
一方の佐々木は、少し困ったように苦笑いを浮かべる。
「朝比奈さん……。」
額に手を当て、小さく息を吐いた。
「お気遣い、本当にありがとうございます。」
その一言には感謝が込められていた。
だが、それだけで決められる話ではない。
「ですが、このような判断は私一人ではできません。」
佐々木は真面目な表情へ戻る。
「少々お待ちいただけますか。上司に確認を取ります。」
そう言うと胸ポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで番号を呼び出した。
その様子を見ていたまいは、静かに一歩下がる。
電話の邪魔にならないよう、少し距離を空けながら待つことにした。
(きっと純一さんだよね。)
自然とそんな考えが頭に浮かぶ。
(純一さんなら……きっと大丈夫。)
根拠があるわけではない。
それでも、純一の顔を思い浮かべると、不思議と安心できた。
まいは両手を前で軽く重ね、にこにこと微笑みながら佐々木の電話が終わるのを静かに待っていた。
やがて電話が繋がる。
「橘さん、お疲れ様です。佐々木です。」
『おう、佐々木か。どうした?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、どこか落ち着いた橘純一の声だった。
「実は朝比奈さんからご提案がありまして……。」
佐々木は苦笑しながら、ここまでの経緯を一つひとつ説明していく。
部署の部長から空きデスクの使用許可が出たこと。
職員に溶け込めるよう配慮してくれたこと。
そして、まい本人が「休めますから」と笑顔で勧めていること。
すべてを聞き終えた橘は、一瞬だけ沈黙した。
次の瞬間――。
『ははははっ!』
電話越しに豪快な笑い声が響いた。
『いやぁ……まいちゃんらしいな。』
笑いを堪えながら続ける。
『そんな発想をするのは、あの子くらいだろうな。』
佐々木も思わず頬を緩めた。
「ええ、本当にそう思います。」
橘はまだ笑いを含んだ声で言う。
『分かった。その案で行こう。部長さんの許可もあるなら問題ない。』
少しだけ声色を引き締める。
『ただし、護衛が最優先だ。しっかり頼むぞ。』
「はい。」
短く、力強く返事をする佐々木。
すると橘は、ふっと笑みを浮かべるような口調になった。
『それとな、佐々木。』
「はい?」
『まいちゃん、いい子だろ?』
突然の問い掛けに、佐々木は思わず苦笑する。
「ええ……とても。」
『だよなぁ。魅力があるだろ。』
橘はからかうように笑った。
『でも駄目だからな。』
一拍置いて、わざとらしく続ける。
『友達の彼女なんだから。』
その一言に、佐々木は思わず吹き出した。
「ははっ……。」
肩を震わせながら笑う。
「分かってますよ。」
笑いを堪えながら答える。
「でも……朝比奈さんといると、自然と楽しくなりますね。」
『だろ?』
橘も笑った。
『だから余計に護衛を頼むぞ。何があっても守れ。』
「了解しました。」
佐々木は力強く返事をすると、電話を切った。
スマートフォンを胸ポケットへしまい、目の前で待っていたまいへ視線を向ける。
まいは期待に満ちた瞳でこちらを見つめている。
その表情を見た佐々木は自然と笑みを浮かべた。
「朝比奈さん。」
「はい!」
「許可が下りました。」
その一言を聞いた瞬間、まいの顔がぱっと花が咲いたように明るくなる。
「本当ですか!」
「はい。今日からお世話になります。」
佐々木が軽く頭を下げると、まいはどこか誇らしげな表情で胸を張った。
「ふふっ。」
まるで『ほら、大丈夫だったでしょう?』と言いたげな笑顔である。
「それでは佐々木さん、こちらです。」
そう言うと、くるりと踵を返し、軽やかな足取りで庁舎の中へ歩き始めた。
佐々木はその後ろ姿を見つめ、小さく笑う。
(本当に、不思議な人だ……。)
護衛対象でありながら、いつの間にかこちらの緊張までほぐしてしまう。
そんな朝比奈まいの背中を見失わないよう、佐々木は一歩後ろから静かについて歩き出した。




