34「護衛刑事と護衛対象」
まいは池袋駅で謙と別れた後、いつものように山手線へ乗り込んだ。
向かう先は区役所の最寄り駅。
途中で巣鴨駅へ向かい、そこで乗り換える予定だ。
電車のドアが閉まり、ゆっくりとホームを離れていく。
窓の外には朝の街並みが流れ、ホームに残された人々の姿が徐々に遠ざかっていった。
車内を見回したまいは、ふと小さく息を吐く。
普段の平日なら通勤客でぎゅうぎゅうになる時間帯だが、この日は様子が違っていた。
ゴールデンウィークを目前に控えているためか、有給休暇を取っている人も多いのだろう。
車内には空席も目立ち、立っている乗客もまばらだった。
吊り革につかまる人々の間にも十分な間隔があり、いつもの窮屈さは感じられない。
どこか穏やかな空気が流れていた。
まいは車窓へ目を向けながら、少しだけ考える。
視線の先には、数メートル離れた場所に立っている男性の姿があった。
私服姿で、一見するとごく普通の会社員にしか見えない。
最近は毎日のように顔を合わせている。
買い物の時
帰宅時。
いつも少し離れた場所から見守ってくれている。
もちろん仕事だから…
それでも、ここまで長い間護衛を続けてもらっていると、自然と親しみのようなものも生まれてくる。
まいは少し迷った。
本来ならあまり話しかけない方がいいのかもしれない。
護衛対象と刑事。
その距離感はきちんと保つべきなのだろう。
けれど――。
(いつもお世話になってるしなぁ……)
そんな思いがふと胸に浮かぶ。
車内も空いている。
周囲に聞かれる心配もほとんどない。
少しくらいなら大丈夫だろう。
そう思ったまいは意を決したように小さく頷くと、ゆっくりと男性の方へ歩み寄った。
その気配に気づいた刑事が一瞬だけ目を見開く。
「まいさん?」
少し驚いたような声だった。
まいは申し訳なさそうに笑う。
「いつもすみません。」
そして軽く頭を下げた。
「なんか、来ちゃいました。」
その言い方がどこか子どもっぽく、刑事は思わず苦笑する。
しかし次の瞬間には周囲へ視線を走らせた。
「まいさん、まずいですよ。」
声は小さい。
職業柄の警戒心がにじんでいた。
まいはそんな様子を見て、少しだけ肩をすくめる。
「大丈夫ですよ。」
そして車内を見回した。
「今日はこんなに空いてますし。」
実際、周囲にいる乗客たちはそれぞれスマートフォンを見たり、音楽を聴いたりしている。
二人の会話に興味を示している人はいない。
「少しだけです。」
まいはそう言って柔らかく微笑んだ。
刑事は困ったような顔をしながらも、小さくため息をつく。
どうやら諦めたらしい。
その様子に、まいは少しだけ嬉しくなった。
そして前から気になっていたことを口にする。
「そういえば。」
「はい?」
「お名前、なんて言うんですか?」
刑事は一瞬だけ目を瞬かせた。
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「私ですか?」
「はい。」
まいは素直に頷く。
「いつも守ってもらってるのに、お名前知らないのも失礼かなって思って。」
その言葉に刑事は少し照れくさそうな表情を浮かべた。
「佐々木です。」
「佐々木さん。」
まいはすぐに復唱した。
まるで大切なことを覚えるように。
「佐々木さんですね。」
そして明るく笑う。
「ちゃんと覚えますからね。」
その無邪気な笑顔に、佐々木は思わず言葉を失った。
まるで警戒心がない。
もちろん事件の危険性を理解していないわけではない。
だが、それでもこうして人を信じ、自然に接することができる。
それが朝比奈まいという女性だった。
佐々木は小さく苦笑した。
「覚えなくてもいいんですけどね。」
「ダメです。」
まいは即答する。
「だって、いつも助けてもらってるじゃないですか。」
その言葉に、佐々木は少しだけ視線を逸らした。
刑事として当然の仕事。
そう思っていたはずなのに。
なぜだか、その言葉が妙に嬉しく感じられた。
電車は静かな揺れと共に、次の駅へ向かって走り続けていた。
電車は揺れながら目的地へと近づいていく。
やがて車内アナウンスが流れ、まいが降りる駅の名前が告げられた。
まいは吊り革から手を離し、バッグを持ち直す。
「着きましたね。」
そう言いながら佐々木の方を見る。
「ですね。」
佐々木も小さく頷いた。
電車がホームへ滑り込み、ゆっくりと速度を落として停止する。
ドアが開くと、まいは人の流れに合わせてホームへ降り立った。
佐々木も少し距離を空けながら後を追う。
ホームには朝の柔らかな陽射しが差し込み、通勤客たちが改札へ向かって歩いている。
ゴールデンウィーク前ということもあり、いつもより人の数は少ない。
どこかゆったりとした空気が流れていた。
まいは改札へ向かいながら、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。」
佐々木が視線を向ける。
「はい?」
まいは首を少し傾げた。
「私が職場に入ったら、佐々木さんって警察に戻るんですか?」
純粋な疑問だった。
佐々木は歩調を合わせながら答える。
「いえ。」
「戻りません。」
「え?」
まいは少し驚いたような顔になる。
佐々木は苦笑しながら続けた。
「私はこの辺りで待機しています。」
「待機?」
「はい。」
「朝比奈さんが仕事を終えるまでです。」
まいは思わず足を止めそうになった。
「えっ?」
その反応に佐々木は少し笑う。
「いつものことですよ。」
「そうなんですか?」
「そうです。」
まいは目を丸くしたまま歩き続ける。
今まで護衛が付いていることは知っていた。
だが、自分が仕事をしている間まで近くで待機しているとは思っていなかった。
「大変ですね……。」
思わず本音が漏れる。
佐々木は慣れた様子で肩をすくめた。
「仕事ですから。」
その言葉に嘘はない。
だが、朝から夕方までずっと待機し続けるのは決して楽な仕事ではないだろう。
まいは少し考え込んだ。
そして何かを思いついたように顔を上げる。
「あっ。」
「はい?」
「だったら会社の中はどうですか?」
佐々木は一瞬意味が分からなかった。
「会社の中?」
「はい。」
まいは明るく頷く。
「上司に話してみますよ。」
「え?」
今度は佐々木が目を丸くする番だった。
まいは当然のように続ける。
「役所の中で待っててもらえばいいじゃないですか。」
「いやいやいや。」
佐々木は思わず声を上げそうになった。
慌てて周囲を見回し、声量を落とす。
「それはさすがにお邪魔になると思いますし……。」
ところがまいは全く気にしていない。
むしろ名案を思いついたと言わんばかりだった。
「そんなことないですよ。」
「あります。」
「大丈夫です。」
「いや、大丈夫じゃ……。」
会話が噛み合わない。
まいは楽しそうに続ける。
「役所の中って椅子いっぱいありますし。」
「……。」
佐々木は一瞬言葉を失った。
「空いてる席もありますよ?」
「……。」
「休憩スペースもありますし。」
まいはにこにこと話している。
本気で良かれと思って言っているのだ。
その善意は痛いほど伝わってくる。
だが――。
(そういう問題じゃないんだけどなぁ……)
佐々木は心の中で思った。
警察官が護衛対象の職場に入り込むことの問題点。
周囲への影響。
警備上の判断。
説明しようと思えばいくらでもある。
だが、まいの頭の中ではどうやら、
「椅子がある=待てる」
という極めてシンプルな理論で完結しているらしい。
そのあまりにも朝比奈まいらしい発想に、佐々木は思わず吹き出しそうになった。
必死に堪える。
だが駄目だった。
肩が震える。
口元が緩む。
笑いが込み上げてくる。
その様子に気付いたまいが不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
佐々木は慌てて顔を逸らす。
「いえ……。」
しかし既に遅い。
まいはさらに首を傾げた。
「思い出し笑いですか?」
あまりにも頓珍漢な返答だった。
佐々木はとうとう限界を迎えた。
「ふっ……。」
小さな笑い声が漏れる。
次の瞬間。
「ははっ……!」
堪えきれず吹き出してしまった。
歩きながら笑うなど普段の彼ならまずしない。
だが今だけは無理だった。
まいはきょとんとしている。
なぜ笑われたのか分かっていない。
そんな様子を見て、佐々木の笑いはさらに強くなった。
春の朝。
柔らかな陽射しが降り注ぐ駅前の歩道で。
護衛の刑事と護衛対象。
本来ならあり得ないほど和やかな空気が、二人の間に流れていた。




