33 かけがえの無い時間
消えた記憶と愛する人の嘘33
4月28日 朝
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、静かな寝室をほんのりと照らしていた。
窓の外では小鳥のさえずりが聞こえ、春らしい穏やかな朝が訪れている。
どこか遠くから聞こえてくる車の走行音と、部屋の中に漂う朝の静けさ。
その静寂を破るように、キッチンから聞こえてくる小さな生活音が耳に届いていた。
包丁がまな板を叩く軽やかな音。
フライパンで何かを焼くジュウッという音。
食器が触れ合うカチャカチャという音。
まいが朝食を作っているのだろう。
そんな聞き慣れた音を聞きながら、俺――高木謙太郎はベッドの中でゆっくりと目を開いた。
まだ完全には覚めていない意識のまま、ぼんやりと白い天井を見上げる。
昨夜は久しぶりに安心して眠れた気がする。
だが、それでも心のどこかには拭いきれない不安が残っている。
俺は小さく息を吐きながら枕に頭を沈めた。
(さて……今日仕事に出て、また明日から休みか……)
頭の中でそんなことを考える。
ゴールデンウィーク前半。
世間では大型連休を楽しんでいる人も多いのだろう。
俺は今日だけ出勤し、その後また二日間の休みになる。
(二日休んで、また仕事か……)
天井を見つめたまま苦笑する。
(いっそのこと有給使って全部休みにすればよかったかもな……)
今さらそんなことを思う。
事故に遭い、記憶を失い、退院してからというもの、目の前のことで精一杯だった。
仕事のこと。
記憶のこと。
まいのこと。
そして、自分自身のこと。
色々な出来事が次々と起こり、有給のことなど考える余裕すらなかった。
(まぁ……その時はそんなこと考える余裕なかったもんな……)
そう思うと少しだけ可笑しくなり、口元に小さな笑みが浮かんだ。
その時だった。
ガチャ――。
寝室のドアが開く音が響く。
聞き慣れたその音に、俺はゆっくりと視線を扉へ向けた。
すると、少しだけドアを開けた隙間から、まいが顔を覗かせていた。
エプロン姿のまいは、どこか慌ただしそうでありながらも優しい笑顔を浮かべている。
朝日に照らされた髪が柔らかく揺れ、その姿はどこか眩しく見えた。
まいは俺を見るなり、呆れたように小さく笑う。
「謙、起きてるでしょ?」
その言葉に俺は思わず苦笑した。
どうやら完全に見透かされているらしい。
「朝食出来たよ。」
まいはそう言うと、少しだけ身を乗り出した。
「まいも今日仕事だから、一緒に出よう。」
優しくもどこか急かすような口調。
そして最後に、
「だから、支度して。」
と付け加える。
その言葉を聞きながら、俺は上半身を起こした。
「……あぁ、今支度する。」
まだ少し眠気の残る声でそう返事をする。
まいは満足そうに微笑むと、
「ちゃんと早く来てね。」
と言い残し、再びキッチンへと戻っていった。
閉まる扉の向こうからは、また朝食の準備をする音が聞こえてくる。
俺はその音に耳を傾けながらベッドから足を下ろした。
ひんやりとした床の感触が足裏に伝わる。
ゆっくりと立ち上がり、軽く背伸びをする。
窓の外では春の日差しが街を照らしていた。
今日もまた一日が始まる。
そう思いながら俺はクローゼットへ向かい、仕事へ行くための準備を始めたのだった。
寝室を出た俺は顔を洗い、身支度を整えてリビングへ向かった。
部屋の中には焼きたてのトーストの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの香りが広がっている。
その匂いだけで、少しずつ眠気が吹き飛んでいく気がした。
キッチンではまいが最後の片付けをしており、テーブルの上にはすでに朝食が並べられている。
こんがりと焼けたトースト。
彩りよく盛り付けられたサラダ。
スクランブルエッグとベーコン。
そして湯気の立つコーヒーカップ。
どれも特別豪華なものではない。
けれど、それが妙に温かく感じられた。
俺は椅子を引いて腰を下ろした。
すると向かい側に座ったまいが腕時計にちらりと視線を落とし、少し呆れたような顔をする。
「謙、いつもこんなにのんびりしてるの?」
突然そう言われ、俺はトーストを手にしたまま首を傾げた。
「そんなことないけど。」
そう答えると、まいは半分笑いながら肩をすくめる。
「もう。いいから早く食べちゃってね。」
その言い方はどこか母親のようでもあり、恋人らしい優しさも混じっていた。
「あぁ……」
俺は苦笑しながら頷く。
もっとも、それが嫌なわけではない。
むしろ誰かが自分を気にかけてくれているという事実が、どこか心地よかった。
俺はトーストを一口かじった。
サクッという軽い音とともに、バターの香りが口いっぱいに広がる。
何気ない朝食。
何気ない朝。
だが、そんな時間が今の俺には妙に大切に思えた。
しばらくして、コーヒーを口に運んだまいが何気なく尋ねる。
「謙、今日は忙しい?」
俺は少し考えてから首を横に振った。
「多分変わらないと思うよ。」
そう言いながらコーヒーを口に含む。
「ゴールデンウィークだからって病院の事務は変わらないからなぁ。」
世間が休みでも病院は休まない。
診察に来る患者もいるし、入院している人もいる。
事務の仕事だってなくなるわけではない。
むしろ連休中だからこそ発生する仕事もある。
俺は肩をすくめながら続けた。
「まいは?」
すると、まいは少し考えるような表情を浮かべた。
「私は分からないかな。」
フォークでサラダを口に運びながら答える。
「行ってみないと何とも言えない。」
そして小さく息を吐いた。
「逆に連休になるから慌てて来る人も多いと思うしね。」
そしてコーヒーカップを手に取った。
「ゴールデンウィーク前だから、手続き関係で駆け込みの人が来るかもしれないしね。」
区役所は連休中に閉まる窓口もあるからね。
休みに入る前に済ませておこうと考える人は意外と多い。
「まぁ、それでも今日はそこまで遅くならないと思うけど。」
まいはそう言って微笑んだ。
「そっか。」
俺も頷く。
「お互い、ほどほどに頑張ろうな。」
「うん。」
まいは優しく笑った。
俺も自然と笑みを浮かべる。
それ以上特別な話はなかった。
仕事のこと。
天気のこと。
連休のこと。
どこの家にでもありそうな、ごく普通の会話。
誰かが聞けば退屈だと思うかもしれない。
けれど今の俺には、その何気ないやり取りが妙に心地よかった。
穏やかな時間が静かに流れていく。
窓の外では春の日差しが街を照らし、青空が広がっている。
やがて二人は朝食を食べ終え、それぞれの食器を片付けた。
まいはバッグを肩に掛け、玄関へ向かう。
俺も上着を羽織り、その後に続いた。
玄関の扉を開くと、春の爽やかな風が頬を撫でる。
「謙、じゃあ行こうか。」
まいがそう言って微笑む。
「あぁ。」
俺も頷いた。
そして二人は肩を並べながら、いつものように家を後にした。
それは特別でも何でもない、ごくありふれた朝。
けれど二人にとっては、かけがえのない久しぶりの日常のひとときだった。
青く広がる空の下、街はすでに動き始めていた。
通勤へ向かう会社員。
犬の散歩をする人。
保育園へ子どもを送る親子。
そんな見慣れた朝の風景が広がっている。
そして、その中に二人の姿を見つけると、マンションの前で待機していた男性たちが軽く会釈をした。
護衛についている刑事たちだった。
私服姿のため一見すると普通の会社員にも見えるが、その鋭い視線は周囲をしっかり警戒している。
もっとも、最近では毎日のように顔を合わせているため、以前ほど緊張感はなくなっていた。
まいも俺も自然と足を止める。
するとどちらからともなく、
「おはようございます。」
と挨拶が交わされた。
「おはようございます。」
まいも小さく頭を下げる。
俺も続いて挨拶を返した。
護衛の刑事たちも穏やかな表情を浮かべながら会釈する。
最初の頃は護衛が付くことに強い違和感があった。
どこへ行くにも見守られ、監視されているような感覚が拭えなかった。
だが、あの事件以降、自分たちが本当に狙われている可能性があると知ってからは考え方も変わった。
今では彼らが近くにいることが、むしろ安心感につながっている。
四人は自然な距離を保ちながら歩き始めた。
まいと俺が前を歩き、刑事たちは少し離れた位置から周囲を警戒しながらついてくる。
まるで偶然同じ方向へ向かう通勤客のように見える。
それも彼らなりの配慮なのだろう。
コンビニの前では学生たちが朝食を買い込んでいる。
信号待ちではスーツ姿の人々がスマートフォンを眺めている。
駅へ近づくにつれ、人通りも徐々に増えていった。
その間も特に会話はなかった。
けれど不思議と気まずさはない。
まいは時折空を見上げたり、スマートフォンで時間を確認したりしている。
俺も今日の仕事の段取りを頭の中で整理していた。
そんな何気ない時間が流れていく。
やがて四人は池袋駅へ到着した。
朝のラッシュが始まった駅構内は、多くの人で賑わっている。
改札へ向かう人々が絶え間なく行き交い、アナウンスの声が響いていた。
まいは立ち止まると俺の方を向く。
「じゃあ、行ってくるね。」
「あぁ。気をつけて。」
「謙もね。」
まいは柔らかく微笑んだ。
その笑顔に俺も自然と頷く。
そして二人は別々の方向へ歩き出した。
区役所へ向かうまい。
病院へ向かう俺。
その後ろを、それぞれ担当の刑事が自然な距離を保ちながらついていく。
護衛だと周囲に悟られないように。
それでいて、何かあればすぐに動けるように。
駅の人混みの中へと四人の姿は溶け込んでいった。
それぞれが、それぞれの日常へ向かうために。
だが誰も知らなかった。
この穏やかに始まった一日が、やがて新たな事件へと繋がっていくことを――。




