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32 『不意打ち』


「謙、夕食どうしようか?」


 リビングに流れていた静かな時間の中で、まいがぽつりとそう言った。


 時計を見ると、もうすっかり夜になっていた。

 窓の外には街の灯りがぼんやりと浮かび、昼間の慌ただしさが嘘みたいに静まり返っている。


 今日は純一たちがやって来て、予想外の話が次々に飛び出したりで、まともに食事を取る暇もなかった。


 気づけば二人とも、朝食だけでろくなものを食べていない。


 まいはソファの背もたれに身体を預けながら、少し考えるように首を傾げた。


「外食しちゃう?」


 軽い調子で言ってはいるが、その声には“少し気分転換したい”という本音も混ざっている気がした。


 けれど謙は、苦笑しながら首を横に振る。


「それはまずいだろぉ〜」


「え〜?」


「無駄に外出したら、刑事さんたちにも迷惑かけるからな」


 今の状況を考えれば、できるだけ目立つ行動は避けた方がいい。

 頭ではわかっている。


 それに、外へ出ればまた余計な不安を抱えることになる気もした。


 まいもすぐに納得したのか、小さく

「そっか」と呟く。


「じゃあ、冷蔵庫にあるのでいいか?」


「あぁ、充分だよ」


 謙はソファに深く座り直しながら、大きく息を吐いた。


「今日はもう、ゆっくりビールでも飲んでさ……明日の仕事に備えよう」


 その言葉には、自分自身を落ち着かせたい気持ちも混ざっていた。


 まいはそんな謙を見ながら、ふっと柔らかく笑う。


「だね。じゃあ適当に作るから、謙は飲んでていいよ」


「悪いな」


「いいのいいの」


 まいは立ち上がると、軽い足取りでキッチンへ向かっていく。


 その後ろ姿をぼんやり見送りながら、謙もゆっくり腰を上げた。


 冷蔵庫を開けると、ひんやりとした冷気が顔に当たる。

 中から缶ビールを一本取り出し、ついでに棚からグラスを二つ持った。


 静かな部屋に、プシュッという小気味いい音が響く。


 缶を傾けると、黄金色の液体がグラスの中へ流れ込み、白い泡がふわりと盛り上がっていく。


 その何気ない時間が、妙に心地よかった。


 さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく気がする。


 謙はグラスを片手にまいに近づき


 まいは冷蔵庫の中を覗き込みながら、「何作ろうかなぁ〜」と小さく呟いている。


 その自然さに、謙は一瞬だけ胸がざわついた。


「まい、はいよ」


 謙は出来上がったビールの入ったグラスを差し出す。


「わぁ、ありがと」


 まいは嬉しそうに受け取り、そのまま柔らかく微笑んだ。


 その笑顔は、どこか安心しきった顔だった。


 無邪気で、穏やかで。


 まるで今この瞬間だけは、危険なことも、不安なことも、全部忘れてしまっているみたいに。


 キッチンの明かりに照らされたまいの横顔を見ながら、謙は小さく息を吐く。



「まい……」


 キッチンの前で、謙は小さくその名前を呼んだ。


「ん〜?」


 冷蔵庫を覗き込んでいたまいが、何気なく振り返る。

 中の灯りが彼女の横顔を淡く照らしていて、銀色がかった髪が柔らかく光って見えた。


「卵あったかなぁ〜……あっ、ハムも残って――」


 言いかけたその瞬間だった。


 謙はまいの方へゆっくり歩み寄ると、何も言わないまま、そっと顔を近づけた。


「……えっ?」


 まいが目を丸くする。


 けれど次の瞬間、唇に柔らかな感触が重なった。


 不意打ちみたいなキスだった。


 まいは一瞬、本当に驚いたように身体を小さく震わせる。


 けれど拒むことはせず、そのまま静かに目を閉じた。


 冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく聞こえる。


 時間にすればほんの数秒だったはずなのに、不思議と長く感じた。


 唇が離れると、まいはぽかんとしたまま謙を見上げている。


 その頬は、うっすら赤く染まり始めていた。


 謙は少し視線を逸らしながら、照れくさそうに頭をかく。


「……なんか、キスしたくなった」


 あまりにも素直すぎる言葉だった。


 まいは数秒きょとんとしていたが、やがてぷっと吹き出す。


「もぉ〜、謙はバカなんだからぁ」


 呆れたように笑いながらも、その声はどこか嬉しそうだった。


「タイミングってあるじゃん」


「タイミング?」


「普通さぁ、冷蔵庫覗いてる時にキスしないよぉ〜?」


 まいは笑いながら抗議する。


「もっとこう……いい雰囲気とかあるじゃん? 夜景とか、流れとか〜」


「……確かにな」


 言われてみればその通りすぎて、謙は思わず苦笑した。


 急に恥ずかしくなってきて、視線を逸らす。


「悪い……なんか自分でもよくわかんなくて」


 そんな謙を見ながら、まいはふっと優しく笑った。


「でも、嬉しいよ」


「……え?」


「だってさぁ」


 まいはグラスを胸元で抱えるように持ちながら、少しだけ照れたように目を細める。


「謙、まいの魅力に我慢できなかったんでしょ?」


「……おい」


「ふふっ」


 からかうように笑いながらも、まい自身もかなり照れているのがわかった。


 耳までほんのり赤くなっている。


「謙って、かわいいね」


「男にかわいいって言うなよ……」


 謙は困ったように笑う。


 だけど、その空気は嫌じゃなかった。


 むしろ心地いい。


 張り詰めていたものが少しずつ溶けていくような、不思議な安心感があった。


 まいはそんな謙を見つめながら、小さく微笑む。


 その笑顔を見ていると、謙はまた胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――本当に、ずるい。


 こんな顔をされたら、離れられなくなる。


 そう思いながら、謙は照れ隠しみたいにビールを一口飲んだ。


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