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31 「助けてあげる」


ドアが閉まり、足音が遠ざかっていくと、部屋の中はふっと静けさに包まれた。


さっきまでの賑やかな空気が嘘みたいに、穏やかな時間が戻ってくる。


まいはキッチンに立ち、シンクに並べられたカップをひとつひとつ丁寧に洗っていた。

水の流れる音と、食器が軽く触れ合う小さな音だけが、静かな部屋に響いている。


その背中越しに、ふと声をかける。


「……謙、明日は仕事でしょ?」


振り向かずに言うその声は、どこかいつも通りで、少しだけ気遣いが滲んでいた。


「あぁ……仕事だな」


ソファに座ったまま、ぼんやりと天井を見上げながら答える。


少し間が空いてから、今度は俺の方から問い返した。


「まいは?」


水を止める音がして、まいが軽く振り返る。


「うん、まいもお仕事だよ」


にこっと笑いながら答えるその表情は、さっきまでの緊張を感じさせないほど穏やかだった。


再び水を流しながら、まいはぽつりと続ける。


「何も無ければいいね」


その言葉は小さかったけれど、どこか本音が滲んでいる。


少しだけ間を置いてから、明るさを取り戻すように言った。


「でもね、純一さんがいてくれるから――まい、全然心配してないんだ」


その言い方には、確かな信頼があった。


それを聞いて、俺は軽く息を吐く。


「俺もな」


ソファにもたれながら、ゆっくりと言葉を続ける。


「なんかあいつと話してたらさ……すっかり落ち着いた感じだよ」


天井を見つめたまま、小さく笑う。


「……もう全部終わったみたいな気になってる」


どこか力の抜けた、正直な言葉だった。


その言葉を聞いた瞬間――


キッチンの水音が止まる。


まいは手を止め、濡れた指先をじっと見つめたあと、そっとタオルで拭き取る。


そして、そのまま振り返ると――


少しだけ早足で、こちらへと駆け寄ってきた。


足音が近づく。


その表情は、さっきまでの柔らかさとは少し違っていて――


どこか、言葉にしたい何かを抱えているようだった。


足音が近づいたかと思うと、まいはそのまま迷いなく俺の目の前まで来た。


そして次の瞬間――


何の前触れもなく、両手で俺の頬をそっと包み込む。


「え……?」


驚いて顔を上げた俺の視線を、そのままぐっと自分の方へ引き寄せるように、まいは少しだけ力を込めた。


急に距離が縮まる。


至近距離で見えるまいの顔に、思わず言葉を失う。


俺の目は、完全に状況についていけず、ただきょとんと見つめ返すことしかできなかった。


そんな俺を見つめながら、まいはふっと優しく微笑む。


「そう、それでいいの」


やわらかくて、どこか安心させるような声。


「何も、私たちが心配することないんだからね」


まっすぐに見つめられて、言葉が胸の奥に静かに落ちていく。


「……謙、わかった?」


小さく首を傾げながら問いかける。


その仕草が、どこか子どもっぽくて――でも不思議と真剣だった。


俺が何か返そうとした、その瞬間。


まいはさらに一歩だけ距離を詰めた。


「――」


言葉の代わりに、静かな息遣いが伝わる。


そして――


そっと、唇が重なる。


やわらかくて、あたたかくて。


ほんの一瞬ではなく、少しだけ長く、時間が止まったような感覚。


不意打ちのその出来事に、頭が真っ白になる。


「……」


何が起きたのか理解するより先に、まいはゆっくりと顔を離した。


「……まいがいるからね」


小さな声で、優しくそう言う。


その言葉は、さっきのキスよりも、どこか強く心に残った。


俺はただ、目をぱちぱちさせることしかできない。


完全に思考が追いついていなかった。


そんな様子を見て、まいは少しだけ頬を赤くしながら――


それでも、嬉しそうに微笑む。


「どう?」


くすっと小さく笑って、


「まいのキスで、完全復活したでしょ?」


いたずらっぽく、でもどこか優しい目でそう言った。


その表情は、さっきまでの不安なんてどこにもなくて――


ただ、まっすぐにこちらを見ていた。



「また、まいにやられた……」


 謙は苦笑しながら、小さく肩を落とした。


 目の前では、まいがいたずらに成功した子供みたいな顔で笑っている。

 その笑顔は無邪気で、どこか憎めない。ついさっきまで不安でいっぱいだった空気を、簡単に吹き飛ばしてしまう力があった。


 夕暮れの柔らかな光が窓から差し込み、まいの横顔を淡く照らしている。

 オレンジ色の光を受けた髪がふわりと揺れて、謙は思わず視線を逸らせなくなった。


「謙さぁ〜、ほんと隙が多すぎるの」


 まいはくすくすと笑いながら、テーブルに頬杖をつく。

 その声はいつも通り明るいのに、不思議と今日は少しだけ優しく聞こえた。


「そんな顔して悩んでも、なるようにしかならないんだから」


 そう言うと、まいはゆっくりと謙を見つめる。


 まるで“だから大丈夫”とでも言いたげな、まっすぐな瞳だった。


「何があっても、必ずまいが助けてあげるからね」


 軽い調子で言っているはずなのに、その言葉だけは妙に真っ直ぐ胸に落ちてくる。


「だから、心配しないでね」


 一瞬だけ、謙は言葉を失った。


 普通なら、笑い飛ばしてしまうような台詞だ。

 けれど、まいが言うと不思議と冗談には聞こえない。


 その小さな身体のどこに、こんな強さがあるのだろう。


 気づけば謙は、ふっと吹き出していた。


「……ぷっ」


「えっ、ちょっと! 何笑ってるのよぉ〜!」


 まいはむっとした顔をして身を乗り出す。


「まいは真剣に言ってるのにぃ」


 頬を膨らませるその姿があまりにも子供っぽくて、謙は余計に笑ってしまう。


「いや……だって普通、逆だろ」


「逆?」


「俺が、まいを助けるんじゃないの?」


 そう言うと、まいは一瞬きょとんとして、それから当たり前みたいに笑った。


「いいの。まいなの」


 その言葉には迷いがなかった。


「まいしかいないでしょ? 謙の支えは」


 あっけらかんと言うくせに、その一言だけは妙に破壊力がある。


 謙の胸の奥が、わずかに熱くなった。


 今まで、自分は誰かに“支えられる側”だなんて考えたこともなかった。

 守るとか、背負うとか、そういうことばかり考えて生きてきた気がする。


 けれど、まいは違った。


 まるで当然みたいに、隣に立ってくる。


 無理に励ますわけでもなく、重たい言葉を並べるわけでもない。

 ただ自然に、“一人じゃない”と思わせてくるのだ。


「……確かにな」


 謙は小さく笑った。


 だけどその直後、なぜだか胸の奥が少し苦しくなる。


 こんな風に誰かに必要だと言われたのは、いつぶりだっただろう。


 嬉しいはずなのに、どう返せばいいのかわからない。


 まいは変わらず笑っている。

 何も難しいことなんて考えていない顔で。


 その無邪気さが、今の謙には少しだけ眩しかった。


 だから謙は、誤魔化すみたいに視線を逸らし、小さく息を吐いた。


「……俺、なんて答えればいいのかわかんなくなるな」


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