30[張り詰めた中での光]
ひとしきり笑い声が落ち着いたあと――
純一はふっと表情を引き締めた。
さっきまでの柔らかい空気とは違う、どこか仕事の顔に戻ったような目。
「……さて、本題に入ろうか」
その一言で、部屋の空気が静かに変わる。
自然と視線が純一に集まった。
俺はカップをテーブルに置き、背筋を少し伸ばす。
隣ではまいも、さっきまでの無邪気な雰囲気を少しだけ引っ込めて、そっと姿勢を正していた。
香もまた、静かに表情を引き締める。
誰もが、これから話される内容の重さを感じ取っていた。
純一は一度、全員の顔をゆっくりと見渡す。
そして、小さく息を吐いてから口を開いた。
「今の現状は……正直、良いとは言えない」
低く落ち着いた声。
その言葉は、はっきりとした現実を突きつけるようだった。
「杉田の足取りは、いまだに掴めてない。どこにいるのか、何をしてるのか……まったく分からない状態だ」
部屋の中に、重たい沈黙が落ちる。
「はっきり言って……お手上げに近い」
苦い表情でそう続ける。
それでも、すぐに言葉を重ねた。
「……でもな、このまま何もしないってわけにはいかない」
その声には、刑事としての強い意志が滲んでいた。
純一は軽く腕を組みながら続ける。
「とりあえず、今できることからやるしかない。香がここに遊びに来たりしてまいちゃんの様子を見たりとか、これまでよりも警備の人数を増やしてちゃんとつけるとか」
その言葉に、香は小さく頷いた。
「もちろん、謙の周りも同じだ」
一瞬視線がこちらに向く。
そして、少しだけ間を置いてから続けた。
「……まいちゃんにも、護衛をつける」
その言葉に、まいがぱっと顔を上げる。
「えっ……私にも、ですか?」
少し驚いたような声。
純一は静かに頷いた。
「あぁ」
その表情は真剣そのものだった。
「相手が杉田だからな……何を考えてるか分からない」
淡々とした口調の中に、確かな警戒が滲む。
「念には念を入れる。それくらいしないと、守れない状況だ」
その言葉に、まいは少しだけ戸惑いながらも、小さく頷いた。
部屋の中には、さっきまでの笑い声とは違う、張り詰めた空気がゆっくりと広がっていく。
――楽しい時間は終わりだ。
そんな現実を、誰もが静かに受け止めていた。
まいは、しばらく黙って話を聞いていたが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
少しだけ眉を寄せ、不安を押し隠すようにしながら、静かに口を開く。
「……会社は、どうするんですか?」
その問いは小さかったが、部屋の空気をわずかに張り詰めさせるには十分だった。
純一は一瞬だけ視線を落とし、考えを整理するように間を置くと、ゆっくりと顔を上げた。
その表情には、すでに覚悟が宿っている。
「会社までは護衛をつける」
落ち着いた低い声で、はっきりと言い切る。
「出勤は必ず一緒だ。で、会社に入ったら――基本的に必要がある時以外は外に出ないこと。どうしても外出する場合は、必ず事前に連絡を入れる」
そこまで言うと、純一は視線を横に動かし、謙の方を見る。
「謙も同じだ」
名前を呼ばれた謙は、わずかに背筋を伸ばし、無言で頷いた。
その表情には緊張が浮かんでいるが、逃げるつもりはないという意志も見える。
純一は再び二人に視線を戻す。
「……おそらく、奴らは会社の中までは入ってこない。いや、入れないと言った方がいいかもしれないな」
少しだけ言葉を選びながら続ける。
「人の目が多すぎる。リスクが高いからな」
その言葉に、まいはわずかに安堵したように息をついた。
だが、純一の話はそこで終わらなかった。
「問題は――通勤と帰宅途中だ」
その一言で、再び空気が重く沈む。
「それと、在宅の時」
静かに付け加えられた言葉は、逃げ場のなさを突きつけるようだった。
純一はゆっくりと腕を組み、二人をまっすぐに見据える。
その目には、一切の迷いがない。
「そこは俺たちが張る」
低く、しかし力強く言い切る。
「どんなことがあっても、守り通す」
その言葉には誇張も虚勢もなく、ただ揺るがない決意だけが込められていた。
一瞬の沈黙。
そして純一は、わずかに息を吐き、声のトーンを落とす。
「……奴らも馬鹿じゃない。こんな状況で、そう簡単に手は出してこないはずだ」
状況を冷静に分析するその言葉は、安心と同時に、見えない脅威の存在も感じさせる。
「だからこそ――」
純一はゆっくりと二人の顔を見渡した。
まいと謙の目を、一人ずつ確かめるように。
「連絡だけは、絶対に忘れないでほしい」
その声は決して大きくはない。
だが、重く、深く、心に残る響きを持っていた。
純一は最後に、真剣な眼差しで二人を見つめる。
その視線は、ただの確認ではない。
守る覚悟と、信じる覚悟――その両方を静かに問いかけているようだった。
部屋の中には、言葉にできない緊張と決意が、静かに満ちていった。
張り詰めていた空気の中で、不意に――柔らかな声が割って入った。
「ねぇ、まいちゃん」
その声音は、どこか明るくて、あえて重さを感じさせない軽やかさを含んでいる。
視線が自然と香へと集まる。
香はにこりと優しく微笑みながら、まいの方へ少し身を乗り出した。
「夜、ちょくちょく遊びにくるよ」
まるで何気ない約束のように、さらりと言う。
「様子も見にね」
その一言に込められた意味は軽くないはずなのに、香の言い方はあくまで自然で、まいに負担を感じさせないようにしているのが伝わってくる。
そして、ちらりと横目で純一を見ると、少しだけいたずらっぽく笑った。
「帰りは純一が迎えに来てくれるし――だよね、純一?」
その言い方は確認というより、ほとんど決定事項のような響きを持っていた。
香の視線を受けた純一は、一瞬だけ目を細め、わずかに肩をすくめる。
「……あぁ」
小さく頷きながら、苦笑いを浮かべた。
その表情には、呆れと同時に、どこか安心しているような色も混じっている。
香は満足そうに小さく頷くと、再びまいの方へ向き直った。
「それにね」
少し声のトーンを明るくしながら続ける。
「来る途中で買い物もできるしさ」
まるで楽しげな予定を話すように、軽やかに言葉を重ねていく。
「また、あの時みたいな“プチ生活”、できるじゃない?」
その言葉に、まいの脳裏には、ふと過去の記憶がよみがえる。
慌ただしくも、どこか温かくて、笑いのあった時間――。
まいは少しだけ表情を緩めながらも、すぐに現実に引き戻されるように眉を下げた。
「……確かに、そうですけど……」
ためらうように言葉を続ける。
「でも、香さん……大変じゃないですか?」
相手を気遣う気持ちが、そのまま声に滲んでいた。
「忙しいのに……」
その言葉を聞いた香は、一瞬きょとんとしたように目を丸くしたあと、ふわっと笑った。
「大丈夫だよぉ〜」
肩の力を抜いた、柔らかい声。
その笑顔には、無理をしている様子はまったくない。
「だって――」
少しだけ間を置いてから、楽しそうに続ける。
「すぐ純一が犯人捕まえるもん」
さらっと言い切るその言葉は、まるで疑う余地がない“事実”のようだった。
そして、くるりと純一の方を振り向き、わざとらしく明るい声を投げる。
「ねぇ〜純一?」
突然の無茶振りに、純一は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……いや、それは……」
と口を開きかけてから、香の期待に満ちた視線に気づき、諦めたように息をついた。
「……当たり前だろ」
少し困ったように笑いながらも、はっきりと言い切る。
「すぐだから」
その言葉には、照れ隠しのような苦笑いが混じっていたが、それでも確かな自信が感じられた。
香は満足そうにうんうんと頷く。
まいはそんな二人のやり取りを見て、思わず小さく息を漏らした。
――気づけば。
あれほど重く、張り詰めていたはずの空気が、ゆっくりとほどけている。
さっきまで胸にのしかかっていた不安が、ほんの少しだけ軽くなっているのを感じた。
香の何気ない言葉と、明るさ。
それは決して場をかき乱すものではなく、むしろ――
誰かの心をそっと支えるための、優しい強さだった。
その場の空気が、確かに変わったのを、まいははっきりと感じていた。




