28 【それぞれの密談1】
純一は、部屋の中央に置かれたソファーにゆっくりと腰を下ろした。
クッションがわずかに沈み込む感触とともに、身体の力が少し抜ける。
ふと、視線を上げる。
キッチンの方では、まいと香が並んで立ち、何やら楽しそうに言葉を交わしていた。
グラスに氷が触れ合う軽やかな音と、小さな笑い声が、部屋の空気を柔らかくしている。
純一は、その光景をほんの一瞬だけ目に焼きつけるように見つめると、すぐに視線を逸らした。
まるで、それ以上見てしまうと何かが込み上げてきそうだったからだ。
そして静かに、隣に座る謙の方へ顔を向ける。
「……謙、この前はすまなかった」
低く、押し殺した声だった。
「作戦が大失敗に終わって……結局、何もお前に声をかけられなくてな」
言葉を選ぶように、間を置きながら続ける。
「あの時の……お前の後ろ姿がさ、どうしても頭から離れなくて……」
その言葉には、後悔と、自責の念がにじんでいた。
謙は一度だけゆっくりと瞬きをし、軽く息を吐いたあと、どこか優しく笑う。
「純一、もう大丈夫だよ」
その一言は、思っていたよりもずっと穏やかで、温かかった。
しかし――
わずかな沈黙が、二人の間に落ちる。
ほんの一瞬。
けれど、その“間”には、あの日の重さがそのまま残っていた。
謙は視線を少し落とし、ぽつりと続ける。
「……でもさ、あの時は、正直きつかったよ」
静かな声だったが、はっきりとした実感がこもっている。
「今まで積み上げてきたものが、全部終わったような気がしてさ」
苦笑するように、小さく息を漏らす。
「もうダメかなぁ……なんて、思ったりもしてな」
その言葉に、純一は何も返せず、ただ黙って聞いていた。
やがて、謙はふと顔を上げる。
「……でも、それって、まいちゃんのおかげか?」
純一が小さく頷く。
「あぁ……本当に、そうだった」
少し遠くを見るような目になる。
「あの時の俺はさ……もう、完全に抜け殻みたいになってて」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「頭の中は真っ白で……どうやって家に帰ってきたのかも、正直覚えてないんだ」
あの時間の記憶は、ところどころ途切れている。
ただ、重く沈んだ感覚だけが、身体に残っている。
「で……家に入ったら――」
一瞬、言葉を止める。
その瞬間の光景を、もう一度確かめるように。
「そこに、まいがいたんだ」
小さく息を吐く。
「……あれは、本気で夢かと思ったよ」
現実感のない出来事だった。
沈みきっていた心の底に、突然灯った小さな光のように――
その存在が、どれだけ自分を救ったのか。
純一はそれ以上言葉にせず、ただ静かに視線を落とした。
純一は、謙の言葉を静かに受け止めながら、しばらく何も言わずにいた。
その表情は落ち着いているようでいて、どこか奥に強い感情を押し込めているようにも見える。
やがて、ゆっくりと顔を上げると、まっすぐに謙を見据えた。
「……謙」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「俺が――必ず、奴を捕まえるからな」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
「だから……もう少しだけ、辛抱してくれ」
短い言葉の中に、責任と覚悟が詰まっている。
謙はその目を見て、一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに、いつもの調子を取り戻すように、軽く肩の力を抜く。
「純一」
少しだけ前のめりになりながら問いかける。
「……あれから、何か変わったことはあったのか?」
純一はわずかに視線を落とし、首を横に振る。
「いや……何もない」
その一言は、思った以上に重かった。
「多分、杉田はどこかに潜伏して身を隠してる」
淡々とした口調の裏に、苛立ちがにじむ。
「間違いなく協力者がいるはずなんだが……その情報が、まったく上がってこない」
拳を軽く握りしめる。
「どこに隠れてるのかも、見当がつかない……」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
謙はその様子を見て、小さく息を吐く。
「……そっか」
短く相槌を打つと、背もたれに身体を預けた。
「まぁ、仕方ないな」
天井を見上げるようにしながら、どこか諦めとも違う、現実を受け入れる声で続ける。
「あいつが出てくるのを……待つしかないか」
一拍置いて、ふっと視線を純一に戻す。
その目には、どこか決意の色が宿っていた。
「純一」
少しだけ口元を緩める。
「俺、いつでもおとりになるからな」
冗談めかした言い方ではあったが、その奥には本気があった。
「その時は、遠慮なく言ってくれ」
その言葉に、純一は一瞬きょとんとした顔を見せたあと――
すぐに、ふっと力を抜いたように笑った。
「……バカ」
軽く呆れたような声。
「そんな簡単に、一般人を使えるわけないだろ」
その言い方はぶっきらぼうでありながらも、どこか優しさを含んでいる。
純一のその表情につられるように、謙も小さく笑った。
「……確かに、そうだな」
肩をすくめながら、どこか照れくさそうに。
重く張りつめていた空気が、ほんのわずかに和らいだ。
だがその奥には、まだ終わっていない現実と、これから向き合うべき闘いが、静かに横たわっていた。




