18 【24時間前と今】
「終わったなぁ〜」
ふぅ、と謙が大きく息をついたその隣で、まいもほっとしたのか、すごく穏やかな顔をしている。
2人は並んで座りながら、すっかり片付いて模様替えされた部屋を見渡していた。
「すごく綺麗になったねぇ。でも……ちょっと頑張りすぎちゃったかもねぇ」
まいがそう言って、ちょっとおどけたように笑った。
その笑顔にはどこか、やり切った満足感と、少しだけ疲れが混ざっていた。
けれど、それすらも愛おしいと感じてしまうのは、今この空間が、以前のような温かさに包まれているからかもしれない。
「いやぁ、本当に……見違えるような部屋に変わったよ」
謙はしみじみと呟いた。
「すごくいい……なんか、すごく落ち着くんだ」
以前の部屋とは配置も色合いも全て変わっているはずなのに、不思議と“ここに戻ってきた”という安心感があった。
まいと2人で作り直した部屋だからこそ、きっとそう感じるのだろう。
目に見える景色以上に、空気そのものが優しくなった気がする。
2人は顔を見合わせると、自然と微笑みがこぼれた。
言葉にしなくても、伝わる気持ちがそこにあった。
「謙、もうこんな時間になっちゃったよ」
まいがふと時計に目をやると、時間はすでに20時を少し過ぎていた。
「そろそろ夕飯にしないと……お腹すいてきちゃったね」
「あ、もうそんな時間かぁ〜」
謙は驚いたように言ったあと、ゆっくりとまいの方を見て、柔らかく笑った。
「まいといると、本当に時間があっという間に過ぎていくよ。なんか、不思議だな」
その言葉に、まいもふっと頬を緩めた。
「……本当だね」
「何してても、楽しくて……気づくと時間がどんどん過ぎちゃう。きっと、心が穏やかだからだよね」
それは何気ないやりとりだったけれど、2人にとっては確かな幸せの証だった。
「まいは、今夜は何が食べたい?」
俺がそう尋ねると、まいは少しだけ考えるように視線を上に向けて、それからふんわりと笑った。
「ん〜……どうしようかなぁ。なんかね、今日はあんまり凝ったものじゃなくていいかなって。簡単なもので、ゆっくりお酒でも飲みながら……そんな夜がいいかもって思ってたの」
その言葉に、俺も自然と笑みがこぼれた。
「いいね、それ。俺もそんな気分だよ。メインは……おにぎりとか、どう?」
「うん、いいじゃん。シンプルだけど、ちゃんと美味しいやつ作るからね」
そう言ってまいは軽く頷きながら立ち上がり、キッチンの方へと向かった。
その背中はなんだかとても嬉しそうで、張り切ってるのが俺にも伝わってくる。
彼女は冷蔵庫を開け、食材をひとつずつ取り出してはテーブルの上に並べていく。
卵に、ほうれん草、ウィンナー、ちくわ、チーズにトマト……見慣れた家庭的な食材たち。
それらを器用に手際よく捌きながら、まいはいつものように軽やかな手つきで調理を始めていた。
音楽は流れていないのに、包丁のトントンという音が、まるで静かなBGMのように心地よく響いていた。
俺もキッチンに向かって立ち上がり、冷蔵庫からビールを1本取り出す。
冷たい瓶をグラスに注ぐと、泡がふわりと立ち、細かな気泡が上っていく。
そのひとつをまいのそばに持っていって差し出すと、まいは手を止めてパッと笑顔になり、
「わぁ、ありがとう、謙」と明るい声で受け取ってくれた。
その笑顔だけで、今日の夜がきっといい時間になるって確信できた。
「謙、座って待ってて。前菜っぽいの、すぐ出すから」
まいはそう言って、軽く顎でリビングの方を示した。
その声には、少し料理に夢中になってるような楽しげな響きもあって、俺は素直に頷いた。
まるでレストランのキッチンみたいに、カチャカチャと食器が奏でる音。
でも、それはこの部屋だけに響く、俺たちだけの音。
何気ない会話と料理の準備、そして一杯のビール――
それがこんなにも幸せな時間に思えるなんて、少し前まで想像もしなかった。
ソファに腰を下ろした俺は、静かにグラスを持ち上げ、まいの後ろ姿を眺めながら一口ビールを口に運んだ。
冷たさとほろ苦さが喉を通ると、心がすうっと落ち着いていく。
まいがキッチンで料理をしている後ろ姿を、俺はソファに座ったまま、ぼんやりと見つめていた。
小さな背中が、湯気と明かりの中でやさしく揺れている。
少し肩をすぼめながら器用にフライパンを振るその姿は、あまりに日常的で、あたたかくて、まるで夢みたいだった。
――そうだ。思い出した。
たった24時間前の俺は、まさに絶望のどん底にいた。
全てを失ったような気持ちで、足元が崩れていくような虚無の中にいて、心は完全に折れかけていた。
今までしてきた事が全て無駄に終わり、目標を見失って何のために生きているのか、わからなくなっていた。
そして――この扉を開けた時。
その先に、まいが立っていた。
一瞬、幻覚かと思った。
思いもよらない奇跡が、自分の目の前に突然現れたような、そんな現実離れした光景だった。
けれど、それは確かな現実だった。
俺の視界に入ったまいは、静かに微笑んで、俺の名前を呼んでくれた。
「謙」
その声を聞いた瞬間、ずっと張り詰めていたものが、一気に切れた。
身体の力がふっと抜けて、その場に崩れ落ちそうになった俺を、まいは両腕でしっかりと支えてくれた。
そのとき感じた、まいの胸のあたたかさ――
柔らかなぬくもりと、ゆっくりと伝わってきた心臓の鼓動。
あの音が、今でも耳の奥に残っている。
俺は、あの瞬間、はっきりと確信した。
俺にはまいが必要なんだ。
ただの想いじゃない。
この先の人生を生き抜いていくために、俺にはまいという存在が絶対に欠かせない。
そんな想いが、胸の奥から静かに湧き上がってきていた。
「謙……謙!」
突然名前を呼ばれて、俺はハッと我に返った。
「あぁ……ごめん、なに?」
少しだけ微笑んで誤魔化すように答えると、まいはキッチンから顔をのぞかせて、すねたように言った。
「なに? 私をじーっと見て、ぼぉぉ〜っとしちゃってさぁ。もしかして、また何か変なこと考えてたでしょ?」
「ごめん、違うよ。ちょっと考えごとしてた」
「もう、まったく……まぁいいや。おつまみ、できたよ。テーブルに運んでくれる?」
「了解」
俺は立ち上がり、キッチンへと歩いていった。
まいが丁寧に盛りつけてくれた小皿がいくつも並んでいて、どれもこれも食欲をそそる香りを漂わせていた。
「まい……ありがとう」
言葉には出さなかったけれど、料理を手に取りながら、心の中でそうつぶやいた。
テーブルの上には、まいが用意してくれた料理が、彩り豊かに並んでいた。
今夜のメインは手巻き寿司。
といっても、定番の刺身はない。
代わりに、甘辛く炒めたひき肉のそぼろや、薄く塩もみしたきゅうり、千切りにされたにんじん、ほんのり甘く味付けされた卵焼きなど――まいのセンスが光る具材が、小皿にきれいに盛られていた。
具材はそれぞれ、ご飯と一緒に海苔で巻いて食べるだけじゃなく、そのままつまみとしても楽しめるように工夫されていた。
ひと口でぱくっと食べられるサイズ感と、箸を伸ばすのが楽しくなるような彩りが、まいらしいな、と俺は思った。
「まい、相変わらずすごいね。こういうの、飲みながらにはちょうどいいよ」
俺が素直にそう伝えると、まいは少し照れたように笑いながら言った。
「お酒飲みながらなら、重たすぎるより、こういうのがいいかなぁって思ってさ。手巻きって、意外と気楽だし、楽しいし」
その言葉通り、テーブルに並んだ料理には、どこか温かさと遊び心が感じられた。
一緒に巻いて、味を確かめ合って、また巻く。そんなやり取りさえも、この夜の楽しさの一部になりそうだった。
俺は冷蔵庫に向かい、新しいビールをもう一本取り出した。
そしてまいのグラスにそっと注ぎ足すと、自然と視線が重なり――お互い、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ……改めて、乾杯」
「うん、乾杯」
優しく触れ合ったグラスから、心地よい音が小さく鳴った。
その音に、2人の距離がまた少しだけ近づいたような気がした。
グラスを口元に運び、ビールを喉へと流し込む。
冷たい炭酸が喉を通る感覚が心地よくて、ふぅ、と自然に息がこぼれた。
隣を見れば、まいも同じように、ほっとした表情でグラスを置いていた。
それだけで、胸の奥がふわりとあたたかくなった。
ほんの些細なこと……
そぅ……こういう時間こそが、ずっと欲しかった「普通の幸せ」なんだと、俺はしみじみと感じていた。




