【地獄への階段】 17
部屋の中は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
カーテンは閉ざされ、光ひとつ入らない薄暗い空間に、ただ一つ、携帯の画面だけが青白く光を放っている。
その光に照らされた杉田の顔は、まるで別人のように無表情で冷たい。
無言のまま画面をタップし、発信音が数度鳴ったあと、相手が出た。
「……タケシか。俺だ」
その声は、低く、ねっとりとした響きを帯びていた。
どこか機械的で、生気のない口調。だが、確かにそこには“意思”があった。不気味なまでに固く、揺るがない“殺意”が。
「……はい」
電話の向こうで、タケシの声が少しだけ震える。
「久しぶりだな。……いつでも仲間を集められるように、連絡を取っておいてくれ」
唐突な言葉だった。
ただの昔話でも、懐かしさでもない。そこには、はっきりと“何かが始まる”という予感が滲んでいた。
「……どうしたんですか? いきなり……」
「また、久しぶりに――祭りを始める」
その一言で、タケシの背筋に冷たいものが這い上がった。
「……お前も知ってる。あのときやり損ねた“あいつ”だ。今度こそ、あいつの息の根を……止める」
杉田の声が次第に熱を帯び始める。
だがそれは怒りでも激情でもない。
むしろ、異様なまでに冷静な声の奥に、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「……もしかして……2年前の、あいつ……ですか?」
タケシの声が明らかに変わった。
呼吸が浅くなり、声にならない声が喉に詰まる。
「あぁ、そうだ。今回は完全な計画だ……絶対に失敗しない。あいつは――今度こそ死ぬ」
電話の向こうから、奇妙な呼吸音が聞こえてきた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
それはまるで、獲物を見つけた獣のように荒く、湿っていて、生々しかった。
「ふぅ……ふぅふぅ……ふぅふぅふぅ……」
笑っている。
いや、それは“笑い”と呼ぶにはあまりにも不気味で、異常だった。
「タケシ、お前……人、殺してみたいかぁ?」
唐突に放たれたその言葉は、タケシの耳を通り越して、心臓を鷲掴みにした。
「い……いや、俺は、別に……」
何かを言い返そうとしたが、言葉にならない。
冷たい汗が首筋を流れ、手元のスマホを握る手が震える。
「まぁ、いいや。俺がやるから」
杉田は淡々と続けた。
「だから――昔の奴ら、集めとけ。……準備が整ったら、すぐに連絡しろ。計画を話す」
「……わかりました」
ようやく絞り出したその声は、すでにタケシの意思を伴っていなかった。
――プツッ。
電話が切れた瞬間、タケシは息を呑んだ。
空気が重く、まるで冷たい風に包まれたかのようだった。
さっきまでの言葉が耳にこびりついて離れない。
「今度こそ、死ぬ」
「人、殺してみたいか」
「ふぅふぅふぅ……」
思わずタケシは、携帯を遠くへ放り投げそうになった。
何かが始まる――いや、“何か”なんて曖昧なものじゃない。
これは“確実に起きる悪夢”だ。
あの男が動き出した時点で、それはもう、止められない。
集合かけないと俺がやばい……
タケシの中で、言い知れぬ恐怖がじわじわと広がっていった。
タケシは無言のまま携帯を握りしめた。
画面を見つめる手がじんわりと汗ばんでいる。
電話の向こうの杉田――いや、“鉄也さん”の声が、頭の中にこだまのように残っていた。
「……あいつは今度こそ、死ぬ」
その言葉に込められた狂気は、時間が経つほどタケシの体に染み込んでくるようだった。
静かなはずの部屋に、どこか妙な耳鳴りが響く。
恐怖とは、こんなにも静かに心を蝕むものなのかと、今さらながら思い知る。
――逆らえない。
心の中で何度もそう呟いた。
あの人に背いたら、どうなるかなんて考えたくもない。
それは“死”なんて生ぬるい言葉じゃ片づけられない。
精神ごと、心ごと、全てを壊される――そんな感覚だった。
タケシは震える指で連絡先を開いた。
ノブ、横井、小田嶋、相馬、そして外人のジブ。
全員、あの“事件”に関わった連中だ。
2年前、鉄也の指示で集められ、そして――全員で地獄を見た。
いや、正確には、“1人に地獄を見せられた”。
たった1人の男に、仲間は倒され、血を流し、プライドも力もズタズタにされた。
そいつの顔はいまだに記憶に焼き付いている。
人間離れした動き、冷たい目。まるで殺し合いに慣れすぎた獣だった。
あの時、確かに命の危機を感じた。タケシだけじゃない。全員が、心のどこかで“次はやられる”と悟っていた。
そして今、また――その“地獄”が再び呼び起こされようとしている。
正直言って、関わりたくない。
できることなら逃げたい。
あの時の恐怖をもう一度味わうくらいなら、他の街にでも消えたくなる。
だが、それ以上に恐ろしいのは――杉田鉄也だ。
今回の電話でもう確信した。
鉄也さんは“あの時”とは違う。完全に何かが外れてる。
口調は穏やかでも、笑い声は狂気そのものだった。
あれは人間の声じゃない。
俺たちを集めて、何かを壊すつもりなんだ。それも、“完全に”。
断ったらどうなるのか……そんな想像をしただけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。
「……裏切れねぇよ……あの人だけは……」
誰に聞かせるわけでもなく、タケシはそう呟いた。
それは命令じゃない。服従でもない。
もはや“逃げられない”という、呪いのような現実だった。
タケシは覚悟を決めるように深く息を吐き、ひとつひとつ番号を押し始めた。
震える指先で、かつての仲間たちに連絡を入れていく。
「……ノブか。悪い、急ぎで話がある。あの人が……また動き出した」
「横井、今時間あるか? 一度会いたい。いや、“例の件”だよ」
「ジブ、お前まだいるんだよな。……ああ、“仕事”が来た」
次々と連絡を取っていくその顔は、もう“普通の人間”ではなかった。
恐怖を飲み込んだまま、命令に従うことでしか生き延びられない。
そんな“静かな絶望”に満ちた男の顔だった。
地獄の扉が、またゆっくりと開き始めている。
タケシはそれを止めることなどできないと、誰よりもわかっていた。




