黄衣の王
硬く冷たい石の感触に、雫はかすかなうめき声を漏らしながら目を開けた。視界はぼやけ、揺れる蝋燭の光が天井に不気味な影を踊らせている。
「ここはどこ…?」声にならない。
「気が付きましたか。」
どこか冷ややかで不吉な声が耳元に響き、思わず全身が硬直する。視線を巡らせると、あの白い服の男たちが無表情で自分を囲んでいた。その目は、ただじっとこちらを見据え、感情のかけらすら読み取れない。
雫は逃げ出そうと力を込めるが、全身が何か硬いベルトのようなもので台に固定され、指先すら満足に動かせない。
「雫……これが最後の儀式だ……」
鈍い響きの声が耳を貫き、雫の心臓が凍りついた。必死に首を捻り、声の主を探す。そこに立っていたのは――父だった。
辺りを見回すと、無数のイーゼルに立て掛けられた絵が目に入る。それらはどれも見覚えのある、あの書斎で見た忌まわしいものだった。歪み、狂気に満ちた絵の数々が、自分を嘲笑うかのように雫を取り囲んでいる。
「お父さん…何なの…? ここはどこなの…?」
喉の奥から絞り出したような声が、自分の耳にさえ震えて聞こえる。
父はその言葉に一瞬、無表情で雫を見つめた後、口元を右手で覆い――突然、笑い出した。
その笑い声は、冷たく鋭い刃のように雫の心を引き裂いた。
「お父さん…か…」
嘲笑を含む声が、蝋燭の薄暗い部屋に響き渡る。
「お前は私の娘などではない。」
その言葉は、雷のように雫の胸に突き刺さった。
「お前は…あの女が浮気してできた子供だ。」
静かに放たれたその一言一言が、雫の心を粉々にしていく。
「今まで育ててやったんだ。少しくらい、私の役に立ってもらわないとな。」
父の声はどこか楽しげで、彼の目は狂気に輝いていた。
「何を言ってるの…お父さん…?」
雫は混乱のあまり、信じられないような視線で父親を見つめた。
「かつて、私は才能がなかった。どれだけ描いても評価されず、日の目を見ることのない画家だったんだ。」
父の声はどこか遠くを見つめるように淡々としていたが、言葉の端々には抑えきれない悔しさが滲んでいた。
「そんなとき、ひとりのパトロンが現れた。彼は私を気に入り、資金を惜しみなく投じてくれた。彼の財力のおかげで、個展も開けるようになり、私の人生は一気に上り調子になった。」
父は一瞬笑みを浮かべたが、次の瞬間、声のトーンが冷たく変わった。
「そして――お前が生まれた。」
父の目はどこか遠くを見ているようだった。だがその声には冷たさが滲んでいた。
「最初はすべてが順風満帆だったよ。お前の血液型を知るまではな。」
雫の体が凍り付く。父の言葉の意味が一瞬理解できず、ただ息を呑むことしかできなかった。
「それから私は、相手が誰なのか探し回った。毎日が地獄だったよ。そして――突き止めた。」
父は低い声で言い放ち、口元を歪めて笑った。
「さぞ気分が良かっただろうな。寝取った女の旦那のパトロンになるなんてな。」
父は唇を歪ませながら言い放った。その表情には嫌悪と憎悪がにじんでいる。
「奴は、自分の子供を私に育てさせながら、素知らぬ顔で私と話をしていたんだ。」
その声はまるで毒を含むようで、空気が冷え込むように感じた。
悪意に満ちた目で見られて、雫の胸が締め付けられる。
ようやくその言葉の意味が頭に染み込んでいく――本当に、この人は父親ではないのか。
「……お父さん……。」
雫の目から、次々と涙がこぼれ落ちる。流れる涙は止まらず、彼女の中にあった信じたいという気持ちが、次第に崩れ落ちていった。
「そんな時だったよ。この人たちと出会ったのは。」
父の口元に不気味な笑みが浮かぶ。
「彼らは私の絵の中に込められた怒りや憎しみを見抜き、それを評価してくれたんだ。これこそが人間の本質だとね。」
狂気に満ちた目で周囲の白い服の男たちを見渡すと、彼は声を張り上げた。
「そして、私の芸術をさらに高みに導く手助けもしてくれた。」
突然、父は頭を抱えるようにして笑い声をあげた。その笑いは部屋中に反響し、冷たく、耳障りだった。
「最高だったよ!君の母親が死ぬ姿は!泣き、喚き、みっともなく命乞いをしてねぇ!」
雫は息を呑んだ。全身が震え、視界が歪む。信じられない言葉が耳を突き刺す。
「嬉しくて仕方がなかったさ!だから、最後はこの手で止めを刺してあげたんだ。」
その言葉を言い終わると、父はまるで夢でも見ているかのように、恍惚とした表情を浮かべた。
「あぁ…パトロンだっけ。」
父はわざとらしい口調で言いながら、冷笑を浮かべる。
「あいつも、会社が倒産してから行方をくらましたよ。でも大丈夫、後でじっくりと始末してやるつもりだ。」
言葉を一呼吸置いてから、父はゆっくりと雫に目を向けた。
「まずはお前だよ、雫。」
周りから次々と男たちの手が伸び、雫の顔を無理矢理押さえつける。
「あなたは生きているだけで罪なんですよ。生きているだけでこの世界に不浄を撒き散している。」
男たちの冷たい声が響く。
「あなたはただの害悪、穢れた存在なんですよ。」
周りの白装束の男たちが雫の顔を無理矢理押さえつけ、彼女の左目をこじ開ける。その冷たい手の感触に、全身が恐怖で震えた。
「助けて…お父さん!」
絶叫する雫を横目に、父は狂気に満ちた目で彼女をキャンバスに描き続けた。
「最後に何か一つでも、誰かの役に立ちましょうねぇ」
男はいやらしい笑みを浮かべている。その手に持ったガラス片が、じわじわと雫の眼球に向かって迫る。
「ーーー!!!」
思わず悲鳴を上げたが、奇妙なことにガラス片は触れた瞬間、まるで吸い込まれるように消えた。
「成功だ!」
白装束の男が歓喜に満ちた声で叫んだ。その声は部屋全体に響き渡り、空気がさらに異様なものに変わっていく。
その瞬間、雫の左目に映る世界が激変した。赤、青、緑……無数の色彩が渦を巻き、狂ったように奔流となって彼女の視界を覆い尽くす。それは単なる色ではない。色彩は奇妙な模様や記号に変化し、まるで雫の頭の中に直接侵入してくるようだった。
「それは異界で作られたレンのガラスという物でね。」
白装束の男はガラスの破片を指先で転がしながら、低く語りかけた。
「現世と異界を繋ぐために作られた特別なガラスなんだよ。」
雫はその言葉の意味を完全に理解する前に、体の中を這い回る奇妙な感覚に襲われる。
「君の体はこれから、生きたまま異界への門となるのだ。」
その声が遠く響きながら、雫の左目に広がる色彩がさらに強まる。それはもはや視覚ではなく、意思を持った生き物のように感じられた。それらは蠢き、ねっとりとした触感で彼女の全身を侵食し、次第に意識を曇らせていく。
「そして、君の体を通して神が顕現する。」
白装束の男の冷たく鋭い声が雫の耳を刺す。その言葉の響きは、まるでその運命を決定付ける宣告のようだった。
アル君…最後に、もう一度会いたかったな…
薄れゆく意識の中、雫は必死にあの黄色い少年の言葉を思い出す。
『何か危険になったら、それを唱えてね。必ず僕が助けてあげる。』
震える唇から、雫はかすれた声を絞り出した。
「Ia, Ia, Hastur…Hastur kufayak…Bulgtom fugtragurn…」
その瞬間、部屋が静まり返った。白装束の男たちが驚愕の表情を浮かべる。
「お前…その呪文をなぜ知っている!?」
雫の声は、かすれながらも力強く響く。
彼らの声は雫の耳には届いていなかった。
一度聞いただけなのに、雫は一言一句間違える事無く詠唱を続けた。
「Bulgtom…Ai, ai……」
雫は残る全力を振り絞り、震える声で叫んだ。
「ハスター!!!」
その瞬間、彼女を中心にして激しい轟音が響き渡り、突風が巻き起こった。空気が震え、まるで世界そのものが揺らぐような感覚が広がる。
「ぐああ!」
白装束の男たちは突風に耐え切れず、次々と吹き飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられる。辺りに散乱したキャンバスが空を舞い、燭台が倒れ、青白い炎が次々と燃え上がり始めた。
激しい風の中、雫は必死に薄目を開けた。視界はまだ揺らぎ、朧げだったが――その時、目の前に小さな背中が見えた。黄色い雨合羽の少年の背中。
「アル君……」
震える声とともに、雫の目から涙が溢れ出した。
「やっと呼んでくれたね、お姉ちゃん。」
少年は振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。その声は、混乱と恐怖の中に光をもたらすような、懐かしくも力強い響きだった。
白装束の男の一人が呻きながら立ち上がり、憎悪に満ちた目でアルを睨みつける。
「何なんだ!お前は!!」
しかしアルは反応せず、まるで音楽でも聴いているかのように目を閉じ、体を左右に揺らしている。
「ふざけるな!」
男は激昂し、怒りに駆られてアルに向かって突進した。
「や、やめろ!そいつに触れるな!」
別の男が慌てた声で叫んだが、忠告は届かなかった。
突進した男がアルの肩に手を伸ばした瞬間――その腕があらぬ方向に折れ曲がり、骨が砕ける音が部屋に響いた。
「ぎゃあああ!」
男の悲鳴が部屋中に響く。腕はまるで雑巾を絞るようにねじれ、千切れ飛んだ。
少年は鼻歌を歌いながら、その小さな体を穏やかに揺らし続けていた。
「馬鹿な…こんな奴が召喚されるはずがない…」
白装束の男から絶望的な呟きが漏れた。
「この娘は僕の庇護下にある。」
アルの声は淡々としていながら、言葉の奥に不気味な威圧感を漂わせていた。
「手出しをする者は、誰であろうと許さない。」
少年はゆっくり目を開けると冷徹な笑いを浮かべながら言い放った。
「それがたとえ、父親であろうと……なかろうとだ。」
雫を拘束していた皮のベルトが音を立てて千切れた。雫は慌てて身を起こし、アルの方へ視線を向ける。
アルはまるで踊るように、軽やかに一歩を踏み出した。
最前列にいた白装束の男の体が、不自然に歪み、ねじれ、そして一瞬で形を失い、肉の塊と化して床に崩れ落ちる。
「な、なんだ、これは…!」
恐怖に顔を歪めた別の男が、落ちていた角材を掴み、必死にアルへ向かって突進する。しかし、その足が数歩進んだところで突然止まる。彼の体は急激にねじれ始め、人としての形を保てなくなり、床に音もなく崩れ落ちた。
アルが一歩を踏み出すたび、周囲の男たちは次々と異形の死体へと変貌し、死体の山が積み重なっていく。
「やっぱりレインコートはいいね!汚れない!」
白装束の男達の血飛沫が雨のように降り注ぐ中、両手を広げてアルは楽しそうにクルクルと回った。
「綺麗…」
雫は自分も狂ってしまったのだろうかと思った。血飛沫を浴びながら踊るその少年の姿は本当に美しくて目が離せなくなる。
「ひっ……ひいぃぃ!」
残された男たちは絶叫しながら出口に殺到した。しかし、ドアを潜る瞬間、その体がバラバラになり、血と肉片が壁や床を汚した。
「逃さないよ……誰一人として。」
アルは穏やかな声で呟くが、その内容は冷酷そのものだった。
その時、千切れ飛んだ腕が宙を舞い、雫の顔のすぐ横をかすめて壁に叩きつけられる。
ぐしゃり、といやな音が響いた。
「お姉ちゃん、見ない方がいいよ。」
アルは静かに振り返り、微笑みながら言った。その優しい声は、部屋の中で起きている惨劇とはかけ離れた存在のようだった。
アルの視線が、床にへたり込んだ雫の父親に向けられる。アルの足音が静かに響くたび、父親は恐怖で身を震わせ、這うようにして後退する。
「た、たすけてくれ……お願いだ……」
必死に命乞いする父親の姿を見て、アルはゆっくりと首をかしげた。
「なんで? あなたは、助けてって叫んだお姉ちゃんのお母さんを殺したんでしょ?」
彼の声は、子供らしい無邪気さを含みながらも、どこか冷徹で、血の気を失った父親を凍りつかせるものだった。




