逃れられない闇
孤独を抱えた少女・雫が、少年との出会いを通じて変わりゆく世界を描いた物語です。恐怖や希望が交錯する中で、彼女はどんな選択をしていくのでしょうか?
読み終えた後、ぜひ感想を聞かせてください。
それから毎日、雫はあの東屋へ通った。しかし、少年は二度と姿を見せることはなかった。
彼女はいつものベンチに腰掛け、暗くなるまで待ち続けた。
毎日、毎日…
そして日が暮れ、雨音がやむころ、雫は肩を落として帰路に着くのだ。
目の端に涙が浮かび、そっと袖で拭った。
そんな日々が続く中で、ある変化が起こった。
帰り道でふと顔を上げると、街を行き交う人々の中で「黄色」だけが鮮やかに輝いて見えることに気づいた。
薄い黄色、濃い黄色、山吹色、レモン色……。
それまで灰色にしか見えなかった世界に、黄色が戻ってきたのだ。その色は、まるで少年が「頑張れ」と励ましてくれているように思えた。
私もいつかはこの世界が美しいと思えるのだろうか?
彼の言葉を思い出して、雫は顔を上げて歩き出す。
あの少年にまた会いたい。
「雫、着替えたらアトリエに来なさい。」
家に帰ると背後から父親が声をかけてきた。
その瞬間、雫の胸の奥に言いようのない怒りが湧き上がった。そして、気がつけば声を張り上げていた。
「もうお父さんの絵のモデルはしません!」
普段、従順で大人しい雫が初めて父に逆らった。そのあまりの剣幕に、父は驚き、思わず顔を上げた。
母が亡くなってから初めてちゃんと向き合った気がする。
やつれて生気のない父の顔を見据えて雫は胸の中の想いをぶつけるように続けた。
「私はお父さんが元気になると思って、ずっと我慢してきた!でも、もううんざりなの!お母さんがいなくなって辛いのは、お父さんだけじゃないんだから!」
最後にもう一度、はっきりと言った。
「もう、モデルはやらない。」
父の返事を聞くこともせず、雫は背を向け、自室の扉を強く閉めた。
正直、怖い気持ちもあった。モデルを拒否したことで、父が自分に何かしてくるのではないか――そんな不安が心の奥で渦巻いていた。
それからの雫の生活は、慎重さを増したものになった。自室に戻るとすぐに厳重に鍵をかけ、食事も父とは顔を合わせないように部屋で済ませるようになった。日中の学校生活よりも、帰宅後の時間のほうが心をすり減らしていくようだった。
「あと1年……」
心の中でそう何度も繰り返した。
卒業したら、この家を出る。
住み込みの仕事でも何でもいい。自分の力で生きていこう。少年が教えてくれた「世界の美しさ」を、自分の目で確かめてみたい。その日を目指して、今は耐えるしかない――。
しかし、父は驚くほど何も言ってこなかった。
あれほど依存していたモデルを拒否したのに、怒るどころか一言も発しない。
「もしかして、私の気持ちを理解してくれたのだろうか……?」
そんな希望を抱く瞬間もあったが、そのたびにあの書斎の絵が頭に浮かび、全身に冷たい震えが走る。
あの絵――常軌を逸した異様さ。それは、まともな人間が描けるものではなかった。
父の静けさは逆に不気味さを増し、雫の警戒心を強めるばかりだった。彼の内面がどう変化しているのか全く分からない。
自室の鍵を外すことなど、とてもできなかった。
季節は巡り、少年と出会ってからもう3か月が過ぎようとしていた。
相変わらず、雫は毎日のように東屋へ通う。
制服は冬服に変わり、日が落ちるのも随分と早くなった。冷たい風が東屋を吹き抜け、雫は身を縮める。
あれ以来、父親は家にいることが少なくなった。一月ごとに生活費だけが銀行に振り込まれる。それだけが、彼がまだ「父親」としての責任を果たしている証のようだった。
それでも、アルディアと名乗った少年の姿は、二度と現れない。
「もしかして、あれは私の妄想だったのでは……」
そんな不安が胸をよぎるたび、彼のことをいつか忘れてしまうのではないかと恐ろしくなる。
その日も、木々に日が隠れ、薄暗さが辺りを覆い始める頃、雫は読んでいた本を閉じてリュックにしまった。そして、立ち上がり、小道を振り返った瞬間――
彼女の動きが凍りついた。
そこには、真っ白な修道服をまとった男たちが立っていた。
どこから現れたのか、何の音も気配も感じなかった。だが、確かに彼らは道を塞ぐように立ち並んでいる。
「いけませんね、若い娘さんがこんな場所で一人なんて……」
真ん中に立つ男が口を開く。その顔には不気味な笑みが浮かび、目が細められている。
「お父さんが心配しておられますよ。」
恐怖に雫は声を失った。身体中が硬直し、頭の中が真っ白になる。
男たちはゆっくりと歩み寄り、両手を広げた。
「さあ、いらしてください。お父さんがお待ちです。」
咄嗟に雫は振り返って逃げようとした。しかし、素早く伸びてきた男の手に手首を掴まれる。
「――っ!」
痛みが走り、腕が強引にねじり上げられる。その激痛に、声を出そうとしても喉が震えるだけで音にならない。
耳元で、低い声が囁いた。
「おやおや……いけませんね。」
男の声は穏やかだったが、無機質でまるで機械のように感じられた。
「あなたが生きていけるのはお父さんのおかげじゃないですか?こんなにも心配をかけて、親不孝だとは思いませんか?」
耳元で囁かれるその言葉に、全身が凍りつくような嫌悪感が湧き上がる。雫の周囲に立っていた男たちが、一歩ずつ近づいてくる。
「な、何……?」
その低い声はかき消されるように、彼らが何か不気味な言葉を唱え始めた。見たことも聞いたこともない言語――耳障りな音が幾重にも重なり、雫の頭に響き渡る。
「やめて……!」
声を絞り出そうとしても、体はまるで動かず、足元から重い霧が立ち込めるように意識が遠のいていく。
視界がぼやける中で、雫は思った。
このまま、死ぬのかな……
冷たく暗い闇の中に引き込まれるような感覚――雫は最後の力を振り絞り、小さく呟いた。
「アル君……綺麗な世界なんて、どこにもなかったよ……」
闇の中に溶け込むように雫の意識は静かに途絶えた。




