遠い世界
雫は学校は好きではなかった。
授業さえちゃんと受けて、成績がそこそこなら何の問題もないのだ。
普段からあまり人と接するのが好きではなかったし、母が亡くなってからはその内向的な性格に更に拍車がかかった。
雫の特技はいつでも自分の存在を無にできる事。
当然実際に消えてしまう訳ではないが、その存在感の無さで周りから気にも留まらない。
これができない人間は、あっという間にイジメの対象になる。
心掛けるのは、クラスメイトと話さなければならない時は極力丁寧語を使うという事。距離感を保つために、相手に「自分とは世界が違う」と思わせるのが重要だ。中途半端に同レベルで話をすると、すかさず友達認定される。
そして、その内のヒエラルキーの最下層に落ちれば、くだらないイジメが始まる。
結局、「友達」などという耳障りの良い言葉も、他人と自分の優劣をつけるための道具でしかない。
もし自分に10人の友達がいたとして、全員を同じように扱っているのか、自分の胸に手を当てて考えてみれば分かるはずだ。
それは10人の友達がいるのか、それとも実際には1人もいないのか、境界線は本人次第でしかない。所詮そんなくだらない上辺の付き合いならば私は1人でいい。
学校行事では、目立たないことが肝心だ。控えめに振る舞い、決して一番にはならない。
雫は今日も、帰りのホームルームが終わった直後に姿を消していた。
小雨が降る中、雫は足早に歩いていた。
「今日はあの子に会えるかな……」
心の中でそうつぶやきながら、前回少年と出会った東屋に向かう。
黄色い雨合羽の少年がくれた銀の鍵。どうしてそれが父の書斎の鍵と一致していたのだろうか?
あの少年は一体何者なのだろう?
聞きたいことは山ほどあった。それでも、それとは別に、ただもう一度会えたら――そんな気持ちが胸に芽生えていた。
母の墓石に手を合わせると、足早に木々の鬱蒼と茂る小道に入って行った。
森の奥へと進むにつれ、雫の足音はしっとりと湿った地面に吸い込まれていく。木々が密集し、空を覆い隠すようにして薄暗い影を落としていた。小雨のせいで辺りは静まり返り、耳に届くのは雨粒が葉を叩く微かな音だけだ。
東屋の窓に、黄色いフードが見えた。
「いた!」
思わず声を漏らしそうになり、慌てて口を押さえ、雫は小走りで東屋に向かう。
「こんにちは……今日も来てたんだね。」
雫が静かに声をかけると、少年は顔を上げてニッコリと微笑んだ。
「優しいお姉さん、こんにちは。」
雫は傘を畳んで壁に立てかけ、少年の隣に腰を下ろした。
「あの……いっぱい聞きたいことがあるんだけど……」
彼女が言うと、少年はにこにこしながら足を前後に揺らしている。
「あっ、そうだ!」
雫はリュックを下ろして中をゴソゴソと探り、大量のお菓子を取り出した。
「昨日、美味しそうに食べてくれたから……今日はこれ、君のために持ってきたの。」
少年は驚いた表情で彼女を見つめた。
「こんなにいっぱいもらっていいの?」
「いいの、いいの。お父さんの仕事の関係でいただいた物ばかりだから。」
「ありがとう!お姉さん!」
少年が嬉しそうに袋からクッキーを取り出し、頬張る姿を見て、雫は微笑んだ。弟がいたらこんな感じなのだろうか。
クッキーを食べながら、少年がふと顔を上げて言った。
「てっきり、お姉さんは僕に聞きたいことがあるんだと思ってたよ。」
その一言で、雫は自分の目的を思い出した。
「あっ、そうだった……えっと、聞きたいことがあって……」
「なんですか?」
「……君の名前、なんていうの?」
雫の真剣な問いに、少年はお腹を抱えて笑い出した。
「え、そんな笑う?あの…私は雫って言うの、あなたは?」
少年はさらに身をよじるようにして笑いながら答えた。
「ごめんね、こんなに笑ったの初めて……お姉さん、すごく面白いんだもん!」
ようやく笑いが収まると、少年は少し目を細め、雨の降る空に手をかざした。
「アルディア…なんてどうかな…」
「本名じゃないの?」
雫は首を傾げた。
少年は軽く肩をすくめて笑った。
「僕にはたくさんの名前があるからね。どれが本当の名前かなんて、もうわからなくなっちゃった。」
雫にはこの少年が普通の子供ではないと分かっていた。今の雫にはこの現世にある物は全て白黒に見える。色が分かるのは父の絵の具の赤と、この少年だけだった。
雫はポケットから銀の鍵を取り出して言った。
「この鍵……どうしてお父さんの書斎の鍵を君が持っていたの?」
少年は笑みを浮かべると首を横に振った。
「その鍵はね、雫おねえちゃんが“開けたい”と思ったものを開ける鍵なんだ。だから、お父さんの書斎の鍵そのものではないよ。」
「開けたいものを……?」
雫には、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
少年は軽く足を揺らしながら続けた。
「また、こんなにお菓子たくさんもらっちゃったから……今度は僕がお返しをしないとね。」
「え、気にしなくていいよ。あげたいと思って持ってきたんだから。」
雫は少し照れながら言ったが、少年は笑顔を浮かべると雫にそっと耳打ちした。
それは何か呪文の様な気がしたが、今まで聞いた事のない言葉だった。
「何か危険になったらそれを唱えてね。」
そう言うと少年は立ち上がった。
「もう帰っちゃうの?」
少年は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたあと、柔らかく微笑んだ。
「お姉ちゃんは本当に不思議な人だね。普通の人は僕を怖がるのに。」
「私は、この世界の方がよっぽど怖いよ。」
雫は視線を伏せながら呟いた。
「君が何者であろうと、この汚い世界よりずっと素敵に見える。」
少年はしばらく黙ったあと、遠くを見るような目をして言った。
「君は、昔見た人間にちょっと似てる。」
「どんな人だったの?」
少年は、まるで古い記憶を掘り起こすようにゆっくりと話し始めた。
「その人はある時から現実にはもう何の魅力も感じられなくなったんだ。それで、生涯をかけて夢の世界を探し、そこへ旅立つことにした。」
「その人は…どうなったの?」
少年は一瞬空を見上げ、微笑みを浮かべながらぽつりと答えた。
「帰って来なかった。」
雨音が、まるでその言葉を呑み込むように響く。東屋の中はひっそりと静まり返り、雫は呟いた。
「私も…」
「私もそこに連れて行ってくれる…?」
少年はゆっくりと首を横に振った。その仕草はどこか悲しげだった。
「…私にはここにいる意味がないの……もし君がどこかに行くなら、私も一緒に行きたい。」
雫の声は震え、涙が知らぬ間に頬を伝い落ちていた。死んだ母親、心を壊した父親、信じられない周囲の人々――全てが雫の心を締めつけていた。
「この世界に私の居場所はないの、そして私もこの世界に価値があるなんて思えない……!」
少年は長い間黙っていた。そして、しっとりと湿った空気の中、優しく口を開いた。
「お姉ちゃんは、この世界の美しさをまだ知らない。」
その言葉には、どこか冷たさを感じさせる響きがあった。
「知らないどころか、知ろうとさえしていない。そんなの、自分自身を否定するのと同じだよ。」
少年の言葉は、冷たい雨が頬に触れるように雫の心に刺さった。
「…それでも……」
雫が言いかけると、少年は少し笑って言葉を続けた。
「僕は、お姉ちゃんにもっとこの世界を見てほしいんだ。いろんな場所を歩いて、いろんなものを感じてほしい。それでどうしてもこの世界に価値を見出せなかったら……」
少年は小指を立て、にっこりと笑う。
「その時は僕が連れて行ってあげるよ。約束する。」
雫は泣きながら、その小さな小指に自分の小指を絡めた。
「約束だよ……」
少年は微笑むと、雨の音の中に溶けるように立ち上がった。その背中を見送りながら、雫は胸が締め付けられる。




