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キャンバス

なぜそうしようと思ったのか…

雫自身でさえその理由をうまく説明することはできなかった。


彼女はその夜、父の書斎のドアの前に立っていた。黄色い少年からもらった銀の鍵を手に握りしめながら、ただその場に立ち尽くしていた。鍵を見つめるうちに、まるで鍵そのものが誘うような感覚に囚われ、気づけば指先が鍵穴へと伸びていた。彼女はそっと鍵を差し込んだ。



あれから家に帰ってきても、ずっと少年の事が頭から離れなかった。

ベッドに寝転がりながら、彼からもらった銀の鍵を眺める。

幾何学模様の縁は酸化して黒ずんでいたが、光にかざすと反射して鈍く光った。


「なんて綺麗な目なんだろう…」

あの少年の吸い込まれそうなほどの青い瞳を思い出す。

よく考えればその少年は明らかに異常ではあったが、雫には彼が悪い者の様には思えなかった。

「…あそこにいけばもう一度会えるかな…」

少年がチョコレートを頬張る姿を思い出して思わず笑みが漏れた。

その時、窓の外から車のエンジン音が聞こえて、雫はカーテンの隙間からそっと外を伺った。

またあの人達だ…

あの薄気味悪い白装束の男達が父を迎えに来たのだろう。助手席に乗っていた男が車から降りて、玄関の方に歩いてくるのが見えた。

男の顔が雫の部屋を見上げ、目が合いそうになった瞬間、慌ててカーテンの陰に身を潜めた。

何故私が隠れなければならないのか。

雫はほんの少し憤りを感じたが、それよりも彼らと関わりたくないという気持ちの方が遥かに勝っていたのである。


呼び鈴が鳴り、父が玄関を開ける音が聞こえる。再びカーテンの隙間から様子を伺うと、父は白装束の男たちとともに車に乗り込んでいった。その後ろ姿を、雫はじっと見送る。


何故彼らは父と交流を持つのだろう。

宗教である以上、当然信者を集める目的なのだろうが、雫には何故か他に理由がある気がしていた。

彼らはどうやら入信すると出家して、山梨の宗教施設に住み込みになるらしいのだが、父からはそういう話は一切聞かないし、そもそもあのトレードマークの白装束も父は着ていない。


もしかしたら、父は宗教画か何かを依頼されているのかもしれない。

ふと思い浮かんだのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。彼らを描いたら、全員同じ顔で、誰が誰だかわからない絵になるんじゃないか――そんな想像をして、雫は小さく苦笑した。


自室の鍵を開けると、そっと扉を開けて暗く静かな廊下を見渡す。

父の異変に気が付いてから、雫は自室に内側から掛けれる鍵をつけた。

夜、安心して眠りたいからだ。


シャワーを出て、脱衣所の着替えを取ろうと手を伸ばすと、銀の鍵が鈍い音を立てて床に落ちる。

慌てて拾い上げた瞬間、少年の言葉が脳裏をよぎった。

「これはお姉さんに必要になる物だから、絶対無くさないでね。」

あれは一体どういう意味だろう。

雫は下着を身につけると暗い廊下に出て、その奥を見つめる。

廊下の突きあたりには父の書斎があるのだが、そこから闇が流れ出てくるような気がした。

母が死ぬずっと前からあの書斎には入っていない。父が創作の為に普段から鍵を掛けているからだ。

雫は恐る恐る廊下を進むと父の書斎の前にやってきた。ここだけほんの少し寒い気がする。


なぜこんなことをしようと思ったのか、自分でも説明がつかない。

ただ何かに導かれるように、雫は父の書斎の前に立ち止まった。


手の中の銀の鍵を見つめ、しばらくためらってから、それを鍵穴にそっと差し込む。そして、ゆっくりと回した。


カチャ


鍵が開く音に、雫の心臓が早鐘を打つ。

何故少年から貰った鍵が父の書斎の鍵なのか…あの少年は一体何者なのか…

雫の頭の中が混乱する。それと同時に父の秘密が分かるかもしれないという好奇心に押されてそっとドアノブを回した。

軋んだ音を立てながらゆっくりドアが開くと中は真っ暗で、絵の具の強烈な匂いで思わず咽せ返る。

手探りで壁のスイッチを入れると広い部屋の真ん中の天井に吊るされた裸電球が暗い光を放った。

イーゼルに立てかけられた無数のキャンバスに部屋が埋め尽くされており、部屋の中心には一人掛けの木製の椅子が置かれている。

その椅子の上に大きな古びた本が一冊置かれていた。

なんだろう…画集が何かだろうか…?

雫は導かれる様にその本に近付くと、その本に手を伸ばす。

その装丁は動物の皮か何かで、黒い炭のような汚れが所々に広がっている。

随分と古い本らしく乾燥して今にも崩れそうな雰囲気だ。

そっとそのガサついた表紙を指でなぞると、突然その表紙が脈打った様に感じられて、慌てて手を引っ込めた。

まるで催眠術にでも掛けられていたかの様に我にかえるとゆっくり辺りを見回し、恐怖で足がすくんでしまった。

部屋の中心にあるこの椅子に、円を描くように全てのキャンバスが向けられている。

それは全て雫のモデルの絵だった。


だが、それらの絵は、以前父が描いていたデッサンとは全くの別物だった。

画面の中の自分は、あまりにも生々しく、見るだけで息が詰まるような凄惨な姿ばかりだった。


手足を切断され、首を落とされ、奇妙な生き物に引き裂かれる姿…。その体から流れる真紅の鮮血が、圧倒的な惨劇と苦痛、そして死を象徴しているかのようだった。


まるでその絵は地獄そのものだった。


呪われたキャンバス一枚一枚が、まるで生きているかの様に息づき、脈打つかのような存在感を放っている。


塗り込められた恐怖が視線を捉えて離さない。見ているだけで心が闇に侵食されていくのが分かる。背筋が凍りつくほどのリアリティが、雫の体を硬直させた。


耐えられない。ここにいたら正気を失ってしまう。

自分の父親が娘に対してこれほど歪んだ思いを抱いているのかもしれないという恐怖が押し寄せ、全身が震えた。

雫は堪えきれず、足を引きずるようにその場を離れ書斎のドアを閉めた。必死で手の震えを抑えながら呪われた部屋の鍵を掛けると、闇の中を光がさす自室に向かって走った。


胸の鼓動が耳の奥にこだましていた。もう一度、あの部屋に入る勇気はとても持てそうになかった。

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