ドリームランド
「僕には人間の細かい感情ってよく分からないんだ。」
アルは無邪気な笑顔を浮かべたまま、父親にゆっくりと歩み寄る。
「でも一つだけ分かるのは、あなたを生かしておいても、お姉ちゃんの障害にしかならないということ。」
彼の足元には、先ほどまで逃げ惑っていた白装束の男たちの無惨な亡骸が転がっている。雫の父親は、それを見てがたがたと震えながら後ずさった。
「アル君……やめて……」
雫のか細い声が部屋に響く。
「お姉ちゃん?」
アルは首をかしげ、雫を見つめる。その瞳には、理解できないものを見るような無垢な輝きがあった。
「お願い……お父さんを殺さないで……」
雫の言葉に、アルの動きが止まる。
「……お姉ちゃん、本気で言ってるの?」
その声は、どこか戸惑いを含んでいた。
「…やっぱり人間はよく分からないな…この人は本当のお父さんじゃないんでしょ?」
アルの問いに、雫はぎゅっと拳を握る。
「……うん。でも、昔は本当に大好きだったから……」
その言葉に、アルはしばらく考え込むように沈黙する。そして、ふっと小さく息をついた。
「……分かったよ。僕もわざわざ人を殺したいとは思わないしね。」
彼は肩をすくめる。
「テケリ・リ テケリ・リ」
突然、父親の背後から、奇怪な音が響いた。
白装束の男たちの死体が、どろりと溶けるように流れ出し、黒い液体となって床に広がっていく。その黒い塊はただの血溜まりではなかった。明らかに意思を持ち、ゆっくりとうごめいている。
「ひ、ひぃっ!!!」
父親が恐怖に顔を歪める。
黒いタール状の塊から、無数の触手が伸び、父親の足に絡みついた。その動きはゆっくりと、まるで獲物の恐怖を楽しむかのようだった。
「な、なんだこれは!? 離せっ! 離せぇぇぇ!!!」
必死にもがくが、触手は鋼のように固く、決して離れようとしない。
「テケリ・リ テケリ・リ……」
音が大きくなっていく。まるで闇の奥から何かが這い寄ってくるように。
そのスライムのような生き物の表面に、先程の白い男の顔が浮かび上がる。
「クク…誰も生きて帰さないぞ…」
「こいつは…ショゴス・ロード…」
アルの表情が険しくなる。
「これは……そうか……そういうことか……」
彼は低く呟きながら、一歩引いた。
「お、お父さん!!!」
雫が叫び、父親の元へ駆け寄ろうとする。だが、足に巻きついた触手が引っ張られ、父の体がずるずると本体の方に引き摺られていく。
「ダメだ!! お姉ちゃん!! 近づいたら食べられる!!」
アルが彼女の腕を掴み、必死に止める。
「お父さん!! お父さん!!!」
雫の叫びは虚しく響いた。
「テケリ・リ テケリ・リ……」
黒い塊はさらに広がり、父親の体をゆっくりと覆い始める。顔が、腕が、次第に黒い泥に飲み込まれていく。
「ぐ……ぁ……あ……」
苦しげに顔を歪める父親。その瞳には、絶望が滲んでいた。
アルは静かに彼女の肩に手を置き、冷静な声で言った。
「ごめん、お姉ちゃん……ここは一旦逃げよう。今の僕では、あいつらに勝てない。」
「そんな!お父さんが…」
必死に手を伸ばす雫をアルが押さえつける。
その時、苦しげに顔を歪めた父親が、最後の力を振り絞って叫ぶ。
「雫! 行け! 逃げるんだ!!」
黒い液体が彼の体を完全に覆い尽くそうとする。
「雫……すまなかった……元気でな……」
最後の言葉がかき消え、父親の姿は闇の中に溶けた。
「お父さん!!!」
雫が叫ぶが、黒い塊は何の感情もなく静かに脈動するだけだった。
アルは泣き叫ぶ雫を軽々と抱え上げると、崩れ落ちた2階の窓に向かって跳躍した。
「っ……!!」
外に飛び出すと、辺りは街灯一つない荒れ果てた土地だった。
アスファルトはひび割れ、雑草が侵食している。
そこは放棄され、荒れ果てたテーマパークの跡地だった。
「アル君!お父さんが…」
膝をつき、震えながら涙を流す雫の頭をアルがそっと撫でると静かに言った。
「お父さんは最後に君に生きてほしいって言ってた。君のお母さんだってきっとそう思ってるはずだよ。」
「テケリ・リ テケリ・リ……」
雫とアルが振り返ると、崩れかけた劇場の扉から、黒いタール状の生き物がぬるりと流れ出てくる。
それはまるで意思を持つ液体のように、ゆっくりと膨れ上がり、やがて波のようにうねりながら彼らに向かって押し寄せる。
黒い奔流が一気に膨れ上がり、今にも二人を飲み込もうとする瞬間――
「おっと……あぶないあぶない。」
アルはすばやく雫を抱え直し、一瞬で彼の小さな体は宙を舞い、近くの建物の屋根に飛び乗った。
「アル君……あれ、何なの……?」
呆然と黒い津波のような塊が地面を飲み込みながら広がっていくのを見下ろしながら、雫がアルに問いかけた。
「あいつはショゴス。元々は知能もない下等な生き物だったんだけど……」
彼は黒い奔流を見下ろしながら、淡々と続ける。
「あの液体みたいな体は、あらゆる器官を作り出せる。目、口、手足、内臓……そして、“脳” もね。」
下の方では黒い塊がうごめき、ゆっくりと地面を這いながら増殖していた。
時折体を震わせるとその体から人間の手や足が生えては消えていく。
「彼らはそのおかげで知能を獲得し、逆に支配者を絶滅まで追いやったんだ。」
「で、ごく稀に知能の高いレアが生まれるんだけど……そいつは普通の個体よりはるかに知能が高くて人間に擬態したりする。」
「さっきのの白い服のおじさんみたいにね。」
雫は恐る恐る尋ねる。
「アル君……もし、あいつらが街に出たらどうなるの?」
「うーん、まあ……街どころか、日本が終わるね。」
「何とかならないの?」
「ほっといてもいいんじゃない?別にお姉ちゃんが何とかする必要もないでしょ。」
「でも…」
雫は俯いた。確かにこの世界がどうなろうと本当はどうでもいいのかもしれない。
「もし、できるならこいつを殺したいの。」
それでもこいつは父が呼び出した様な物だし、父を殺した相手なのだ。
「普通の女の子はアレをまともに見たら気がおかしくなるんだけど。お姉ちゃんはレンのガラスを通して見てるから平気なのかな。」
アルは小さく肩をすくめた。
「僕の力だけじゃ無理だけど……お姉ちゃんの力を借りれば、何とかなるかも。」
「私の……力?」
「お姉ちゃんはさっきの儀式で、“異界に続く門”の力を手に入れた。そして“鍵”はお姉ちゃんが持ってるはずだよ。」
鍵…雫はポケットや服を探るがあの銀の鍵はどこにも見当たらない。
「な、ないよ! ここに来るまでに落としたかも!」
「大丈夫、あの鍵はお姉ちゃんの”願い”そのものなんだ。だから必ずある。もう一度ポケットを探してごらん。」
雫は震える手でもう一度ポケットを探るとーー
「あ、あった……!」
取り出したのは、銀色に鈍く光る鍵。まるで冷たい月光を宿したかのように鈍く光った。
「その鍵を空にかざして。」
アルの言葉に従い、雫は夜空に向かって鍵を掲げる。アルが静かに言った。
「僕に合わせて詠唱して……」
――眠れるものたちの囁きを聞け、星々の彼方に繋がる道を見よ。
――銀の鍵よ、運命を導け。夢幻の門よ、今こそ開かれん──
鍵が淡い光を放ち始めると、雫とアルの目の前の空間が歪み、何か巨大な建造物が、蜃気楼のようにゆっくりと姿を現す。
10メートル以上はあろうかと思われるそれは、大理石で出来た巨大な"門"だった。
真夜中だというのにまるでその門だけが日の光に照らされているかの様に銀色に光輝いている。
「綺麗…」
思わず雫が呟くと、アルが続ける。
「あれこそが、かのランドルフ・カーターが目指した夢の世界への扉だよ。」
そして門を指差した。
「もうお姉ちゃんにはどうすればいいか分かっているはずだよ。さあ、その鍵であの扉を開けるんだ。」
雫は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「幻夢郷!開錠!!」




