クマ被害の誤解
山あいの集落・柿生村を恐怖に陥れていたのは、前代未聞の「奇妙なクマ被害」だった。
通常、クマが民家に侵入すれば、食料が荒らされるか、無残な爪痕と血痕が残るものだ。
しかし、今回の事件はまるで違っていた。
被害に遭った家からは、住人の人間だけが忽然と姿を消すのだ。
争った痕跡も、血の一滴すらない。
ただ居間の真ん中に、行方不明になった住人が直前まで着ていたはずの衣類が、まるで中身だけが綺麗に蒸発したかのようにペタリと倒れているだけだった。
「クマが骨も残さず丸呑みにしたんだ」
「いや、神隠しに決まっている」
村人たちがパニックに陥る中、猟友会のベテランハンターである加藤は、愛銃のライフルを強く握りしめていた。
一週間前、加藤の妻も被害に遭ったのだ。
夕食の準備中だったはずの台所には、妻が着ていたエプロンと服だけが虚しく残され、本人の姿はどこにもなかった。
妻を奪った害獣を、絶対に許さない。
彼は怒りに震えながら、単身で夜の深い山へと足を踏み入れた。
月明かりの中の鬱蒼とした針葉樹林。
冷気が頬を刺す中、加藤は獣道に残された巨大な足跡を追った。
村で「黒い悪魔」と恐れられる、体長二メートルを超える大熊の足跡だ。
山奥の開けた岩場に差し掛かった時、背後でカサリと枝が折れる音がした。
加藤は瞬時に振り向き、銃口を向けた。
漆黒の毛並み、太い丸太のような前脚、そして圧倒的な威圧感。
紛れもない、あの巨熊だった。
「……ここでお前を仕留める」
加藤は引き金に指をかけた。
スコープ越しにクマの眉心を正確に捉える。
だが、クマは襲いかかってくる気配を見せなかった。
唸り声ひとつあげず、ただじっと、どこか哀愁を帯びた瞳で彼を見つめている。
そして、あろうことかゆっくりと二本足で立ち上がると、無防備なまま加藤に向かって歩み寄ってきたのだ。
威嚇射撃をする隙すら与えない、あまりにも静かな足取り。
あっという間に間合いを詰められた加藤は、金縛りに遭ったように身体がすくんだ。
クマの分厚い前脚がすっと伸びてきて、加藤の額にそっと、撫でるように触れた。
次の瞬間、背中に激痛ではない「解けていくような感覚」が走った。
シュー、と空気が抜けるような音が響く。
背中の中心にすーっと縦の亀裂が入り、加藤の視界がグラリと傾いた。
見下ろすと、自分が着ていたハンティングウェア、そして「人間の皮膚そのもの」が、古い脱殻のように足元へズルリと崩れ落ちていくところだった。
「な……んだ、これは……!?」
声が出ない。
いや、喉から漏れたのは「グゥ」という低く重い獣の唸り声だった。
人間としての皮膚と衣類が完全に剥がれ落ちた瞬間、加藤の全身を包んだのは、暖かく分厚い漆黒の毛皮だった。
鋭い爪を持つ四本足がしっかりと大地を掴み、鼻腔には夜の森のあらゆる匂いが鮮明に飛び込んでくる。
圧倒的な解放感が、脳を突き抜けた。
目の前に立つ巨熊は、満足そうに鼻を鳴らした。
そうだったのだ。加藤はすべてを思い出していた。
遠い昔、過酷な自然界から逃れ、豊かな文明生活を享受するために、一部のクマたちは“人間の精巧な生体スーツ”を身にまとい、人間になりすまして街へと降りて行ったのだ。
だが、偽りの姿で生きるうちに、彼らは自分たちがクマであったことすら忘れ、日々の仕事や人間関係のストレスに苛まれ、社会の仕組みに縛り付けられて衰弱していった。
山に残った本物のクマたちは、街で苦しむ哀れな、元・仲間たちを放っておけなかったのだ。
夜な夜な人里に下りては、人間の皮を着た仲間たちを探し出し、そっと触れて「皮を脱がせて本来の姿へ還してあげる」こと。
それこそが、人間側から「神隠し」や「クマ被害」と呼ばれていた現象の正体だった。
ふと、巨熊の背後から、もう一頭の小柄な毛並みの綺麗な雌熊が歩み出てきた。
その優しい瞳に見覚えがあった。
一週間前に「被害」に遭った、加藤の妻だった。
妻の毛並みに寄り添うと、長年抱えていた肩こりも、膝の痛みも、胸を締め付けていた将来への不安も、嘘のように消え去っていた。
岩場には、ポツンと残されたライフルと、空っぽになった洋服と皮膚の塊。
三頭のクマたちは夜空に向かって低く吠え声をあげると、誰にも縛られない深い森の奥へと、四本足で元気に駆け去っていった。




