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日常の違和感はすぐそばに  作者: ノアキ光


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訂正される診察


「最近、眠れていますか」


医師はカルテを見ながら訊いた。


「六時間四十分です。昨日は六時間三十二分」


「食欲は?」


「正常です。朝食は七時十二分。トースト一枚、卵、コーヒー」


医師が顔を上げた。


「相変わらず正確ですね」


私は少し嬉しくなった。


会社では「細かすぎる」と嫌われている。昨日も同僚の報告書を差し戻した。日付が一日ずれていたからだ。


間違いは、小さいうちに直すべきなのだ。


診察室には時計がなかった。


「時計、外したんですね」


医師の眉がわずかに動いた。


「ありましたか?」


「ありましたよ。白い文字盤で、三分進んでいた」


医師は何も答えなかった。


代わりに訊いた。


「奥様とは、うまくいっていますか」


「ええ」


「今朝、会いました?」


「もちろん」


私は答えてから、なぜか喉が渇いた。


「寝ていました。いつも通りです」


「薬は?」


「飲ませました」


医師の指が止まる。


昨夜、妻は泣いていた。


――あなたは私を妻じゃなく、管理表だと思ってる。


ひどい言い方だ。


私は妻の体調を誰より気遣っていた。薬も毎晩確認した。昨日だって、飲み忘れがないよう錠剤を数えた。


一錠。


いや、三錠。


違う。


処方箋には――。


「先生」


自分の声が遠く聞こえた。


「今日は何日ですか」


医師は答えず、一枚の紙を差し出した。


薬剤名。

服用量。

救急搬送。

死亡確認。


その下に時刻があった。


七時十二分。


胸の奥で、何かが裂けた。


「そんなはずはない」


私は笑った。


「七時十二分は、私が朝食を食べた時間です」


医師は黙っていた。


「妻は家にいる。私は会社にも行った。昨日も書類を――」


そこで気づいた。


診察室の隅に、段ボール箱がある。


私が昨日直したはずの報告書が積まれていた。


『院内作業訓練用』。


全部、同じ書式だった。


手が震えた。


「私は……患者なんですか」


医師は長い沈黙のあと、言った。


「その質問が出たのは、初めてです」


胸に、かすかな歓喜が灯った。


治る。


やっと私は、ここから出られる。


医師も微笑んだ。


そのとき私は、机上のカルテに目を落とした。


そして反射的に赤ペンを取った。


「先生」


「はい?」


「ここ、間違っています」


死亡時刻――七時十二分。


私は丁寧に一本線を引いた。


「妻が薬を飲んだのが七時十二分です。死亡は七時四十六分。救急隊の記録にもそうある」


医師の笑顔が消えた。


私は胸を撫で下ろした。


危ないところだった。


こんな重大な間違いを放置したままでは、とても退院なんてできない。


こんな重大な間違いを、三年間もカルテに残していたのだから。


医師は、訂正された時刻をしばらく見つめていた。


それから静かに、赤ペンを私の手から抜き取った。


「では、もう一つだけ確認しましょう」


「何でしょう」


「奥様が亡くなった原因は?」


私は答えようとして、口を閉じた。


薬を渡したのは私だ。


一錠でいいと言った妻に、三錠。

飲み忘れた分を追加していた。


そこまでは、もう思い出している。


胸の奥がまた痛んだ。


だが私は、時刻を直したカルテに視線を戻した。


今度は正しい。


それを確かめると、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。


「原因は……薬です」


医師は黙って待っている。


私は続けた。


「ただ、先生。今はその話より、記録を正しくしておくことのほうが先です」


医師の目から、わずかに期待が消えた。


その変化を見て、私は少し気の毒になった。


「大丈夫ですよ」


私は彼を安心させるように微笑んだ。


「間違いは、見つけた時に直せばいいんです」


医師は何も答えなかった。



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