山の音が聞こえる
佐伯は半生を音響制御の技術者として捧げてきた。
定年後に彼が買い取ったのは、山裾にひっそりと佇む古民家である。
極度の神経質である佐伯にとって、都会の喧騒から逃れた先のこの家こそが、完璧な「静寂の聖域」になるはずだった。
壁一面に防音材を貼りめぐらせ、最高級の音響測定器を据え付けた夜、それは響き始めた。
「ゴー……」
地底から響く、重く低い地鳴りのような音。
地元の老人は「山が息をしておるのさ」と呑気に笑ったが、論理主義者の佐伯には耐えがたかった。
彼はすぐさま高性能マイクを設置し、波形を解析した。
データを見た佐伯は不敵に微笑む。
風や川のランダムなノイズとは違い、波形は正確極まりない周期を描いていた。雨の日には周波数が下がり、気温が高い日には音が長くなる。
「息だと? バカバカしい。ただの物理現象だ」
山内部の空洞に溜まった気体が風に煽られ、気圧変化で鳴っている「天然の笛」に過ぎない。
原因さえ分かれば消音など容易い。
工場騒音を幾度も完全に殺してきたプロの意地が燃えた。
山中を捜索すること三日。
佐伯は裏山の崖下で、生温かく湿った気を激しく吹き出している岩穴を発見した。
耳を澄ませば、あの重低音が強烈な振動となって鼓膜を揺らす。
「見つけたぞ」
佐伯は快感に打ち震えた。
すぐさま特殊セメントを手配し、数日かけてその穴を隙間なく完璧に埋め立てた。
その夜、山の音は嘘のように消えた。
測定器の針は微動だにせず、完璧なフラットを示す。
佐伯は、自画自賛の歓喜に浸りながら眠りについた。
翌朝。
佐伯は部屋の「異変」で目を覚ました。
揺れはない。
だが、壁の防音材がメリメリと音を立てて引きちぎれ、床板が弓なりに跳ね上がっていた。
足元から伝わるのは、音ではない。
空気そのものが圧縮されて肌を刺す、異常なまでの高気圧だった。
違和感を覚えて音響測定器に目をやった佐伯は、息を呑んだ。
無音のはずの画面で、人間の耳には聞こえない超低周波の波形が、測定限界を振り切ったまま高まり続けている。
「雨の日は下がり、暑い日は長くなる……?」
血の気が引いていく。
あの音は、季節や天候で膨張する地底ガスが、破裂を防ぐために必死で外へ逃げていた音だったのだ。
老人の言った「息」とは、文字通りの安全弁だった。
佐伯が塞いだのは騒音などではなく、この山が爆破しないための唯一の排気口だったのだ。
ピシ、とガラス窓に亀裂が入る。山全体が、膨らみすぎた風船のようにみしみしと鳴動していた。
彼が生涯をかけて作り上げた完璧な防音室は今、世界で最も気圧の逃げ場がない、巨大な爆弾の中心地となっていた。
静寂の中で、最後のカウントダウンが静かに終わろうとしていた。




