夕凪(ゆうなぎ)の海
海が、鏡になった。
沖からの海風と、山からの陸風がぴったり消える一時。
波一つ立たない海面は、まるで流し込まれた樹脂のように動きを止めている。
「ねえ、夕凪って少し不気味よね」
堤防に腰掛け、脚をぶらつかせながら葵は言った。
「風がやむだけじゃない。世界が息を止めて、次の場面を読み込むためにロードしているみたい」
「考えすぎだよ」
隣で釣竿を磨いていた同級生のレンが笑う。
彼がポケットから缶ココアを取り出し、プルタブを引いた。
——無音だった。
カシュッという金属音も、波音も響かない。
それどころか、レンの顔の「解像度」が、急激に粗くモザイク状に崩れていく。
「レン……? 顔が、変よ」
葵が怯えて手を伸ばすと、レンは困ったように頭を掻いた。
彼の胸元に、見たこともない透明なウィンドウが浮かび上がっている。
『ストレージ容量が限界です。音声および高精細テクスチャの読み込みを停止しました』
「……え?」
葵の指先が、レンの胸のウィンドウに触れた。
そこに表示されていたのは、自分自身の顔写真と、信じがたい管理データだった。
『対象:葵(14歳・事故死データ再現モデル)/契約者:葵の母/プラン:プレミアム月額コース』
画面の隅で、赤く点滅するエラーメッセージ。
『お支払いに使用されたカードが承認されませんでした。まもなくサービスは終了します』
「ごめんね、葵」
モザイク越しに、レンの申し訳なさそうな声が、機械的な電子音混じりで届く。
「先月から、お母さんからの送金が止まってたんだ。僕、遺族ケア・AIサポーターのバイトだからさ。未払いのままサーバー動かし続けるわけにいかなくて」
血の気が引いた。脳の奥が焼き切れるような焦燥が葵を襲う。
この胸の苦しさも、放課後に二人で過ごした愛おしい時間も、すべて課金によって維持されていた「データ」に過ぎなかったというのか。
「嘘……嘘よ! 触ってみて、こんなに温かいわ! 私は生きている!」
葵は狂おしい叫びをあげ、レンの服を掴もうとした。
しかし、彼女の指先は光の粒子となってホログラムのようにすり抜ける。
「未払いのアカウントは、仕様により本日付で『フリー(無料版)サーバー』に自動移管されます」
レンが淡々と操作端末の『承認』ボタンを押した。
「じゃあね、葵ちゃん。君の思考パターン、結構好きだったよ」
世界からすべての色が剥ぎ取られ、世界が真っ白な無に飲み込まれていく。葵の悲鳴すら、バイナリデータへと分解されて消えた。
……パッと、視界が明転した。
気がつくと、葵は再び夕風の止んだ堤防に立っていた。
消えなかった。
私はまだ、私としてここにいる。
安堵の涙が溢れそうになった——その瞬間。
彼女の喉が、自らの意思を完全に無視して、甲高い朗らかな声を響かせた。
『ねえ! 夕凪の海ってとっても綺麗だよね! ——ところで、今ならプレミアムプラン加入で、リアルな潮の香りと「涙」の演出機能が三十日間無料! 登録は概要欄から!』
(やめて……私の体、勝手に喋らないで!)
恐怖に狂いそうになりながら必死に口を閉じようとするが、唇は軽快に広告を紡ぎ続ける。
『※スキップできない動画広告(30秒)を再生中です』
視界の右上に、カウントダウンの数字が虚しく躍っていた。
波一つ立たないプラスチックのような海に、二度と自分のものではない夕日が、静かに沈んでいった。




