名月に絡め取られる
年に一度の中秋の名月。
私は縁側に腰を下ろし、一人静かに月見酒を味わっていた。
完璧主義の私にとって、準備に一切の妥協はない。
三方に盛られた団子は寸分の歪みもない正円を描き、添えられたススキも風情ある四十五度に正しく傾いている。
「やはり、月見団子は丸に限る。少しでも歪んだものなど風情が死ぬからな」
「あなたったら、相変わらず細かいのね」
奥から顔を出した妻のサキが、呆れたように微笑む。
「バカ言え。今夜の名月は格別だ。大気の澄み渡り方、光の純度……吸い込まれそうなほど美しいじゃないか」
私は満ち足りた心地だった。
しかし、違和感を覚えた。
黄金色に輝く満月の真ん中に、小さな黒い点が浮かんでいる。
雲ではない。輪郭が妙にくっきりとしている。
「……鳥か?」
だが、その点は動かない。
それどころか、じわじわと不気味な足のようなものが伸び、月面を這い始めたのだ。
胸騒ぎがし、私は目を凝らす。
「な、なんだこれは……!?」
息が止まった。月面にへばりついていたのは、多角形の黒い甲殻と長い触角を持つ、巨大な『害虫』だったのだ。
「馬鹿な! 月面に体長何千キロの虫がいるというのか!?」
完璧だったはずの十五夜が、一瞬にして悪夢へ変貌する。
美を愛する私にとって、名月を汚されることなど耐え難い屈辱だった。
「おいサキ! 見ろ、月が汚されているぞ!」
「あら、ほんと。でも、大きいわねえ」
サキはなぜか他人事のように呑気だ。焦りと怒りで血圧が跳ね上がる。
よく見ると、怪物のような虫の背後に、妙なものがある。
……透明な、ガラスのフチ?
さらに視界を広げると、夜空の「黒」は宇宙ではなく、無機質な部屋の壁紙だった。
そして輝く「名月」の正体は――天井から吊り下げられた、黄色く光る球形の捕虫ランプだった。
「しまっ――」
理解した瞬間、全身の血が引いた。
足元を見下ろす。
自慢の「正円の団子」に手を伸ばそうとした瞬間、自分の六本の脚が、粘着シートの強烈な糊にガッチリと捕らわれていることに気づく。
団子に見えたのは、甘い匂いのする毒餌だった。
ススキに見えたのは、トラップ容器の隙間から覗くプラスチックの破片だった。
そして「完璧な美しさ」と感じていた強烈な光は、虫としての本能――抗いようのない強力な走光性そのものだったのだ。
「あなたも引っかかったのね。もう諦めなさいな」
隣でサキ――同じくシートにべったりと貼り付いた雌のゴキブリが、力なく触角を揺らした。
「あーあ、今年も『名月』にいっぱい取れてるわ」
ドスンと重い足音が響き、巨大な人間の影が覆いかぶさってくる。
頭上では、先ほど「月面の怪物」に見えた先客の黒バエが、ジジジと体液を干からびさせながら足を痙攣させていた。
私は動かぬ脚を必死に力ませながら、最後にもう一度、残酷なほど美しく輝く黄色いランプを見上げた。
ああ……なんて魅力的な光なのだろう。




