黒百合の恋
その香りを知ってしまったのは、梅雨明けの蒸し暑い朝だった。
甘く、深く、どこか懐かしい。
熟れすぎた果実と、雨上がりの港と、忘れられた台所を、ひとつの壺で煮詰めたような香り。
僕は一瞬で、恋に落ちた。
香りの主は、庭の隅にいた。
夜をそのまま花びらにしたような、艶やかな黒。
うつむいて咲くその横顔は、世界でいちばん気高かった。
彼女の周りだけ、空気が濃く、重く、とろけるように甘かった。
その日から、僕の世界は彼女を中心に回り始めた。
「やめておけ」
と、仲間は言った。
「あれは呪いの女だ。現に、隣の三郎は三日も帰ってこない」
人間たちも、口を揃える。
縁側で、庭の主の老人が孫に語っていた。
戦国の昔、無実の罪で殺された美しい女が、最期に黒百合へ呪いを託したのだと。
「だからあの花は不吉なんだ」
老人は彼女の前を通るたび、顔をしかめて鼻をつまみ、
「ああ、たまらん」
と呟く。
ひどい言いぐさだ。
呪われたのは、女を見る目のなかった男のほうだろうに。
そもそも、人間はこの花に正反対の花言葉をふたつ与えている。
「呪い」と、「恋」。
同じ花が、なぜ両方になれるのか。
僕には不思議でならなかった。
それでも僕は通い続けた。
毎朝、彼女のまわりを飛びまわり、遠慮がちに手をすり合わせて想いを伝える。
彼女は決して振り向かない。
その冷たさこそ、気高さの証だと思った。
寝ても覚めても彼女のことばかり。
仲間には「重症だ」と笑われた。
ある日、老人の大きな掌が、僕のすぐ後ろで空を叩いた。
彼女のためなら命も惜しくない——いや、さすがに惜しいと感じた。
それでも僕は、懲りずにまた彼女へ向かった。
そして今朝、ついに決心した。
翅を震わせ、風を読み、黒い花弁の奥へ。
六本の脚で降り立つと、香りが全身を包んだ。
「ああ、たまらん」
思わず漏れた声は、いつか老人が呟いたのと同じ言葉だった。
見れば、行方不明の三郎が、花の奥で恍惚と脚を投げ出している。
呪いで動けないのではない。
幸せで動けないのだ。
そのとき、謎が解けた。
老人が鼻をつまんで吐き出した
「たまらん」
と、僕が恍惚で漏らした
「たまらん」。
同じ香りから生まれた、正反対の意味だったのだ。
人間には悪臭でも、僕らには最高の香水。
呪いと恋の違いは、鼻をつまむか、つままないか。
黒百合の花言葉がふたつあるのは、つまりそういうことらしい。
もっとも、ハエの僕にはつまむ鼻などないのだが……。




