妙な新聞
朝の光が薄暗いリビングに差し込む中、俺は、いつも通り重い体を引きずって食卓についた。
カチャリ、と妻の由香里がコーヒーカップを置く。その手元には、毎朝配達される『東都新聞』が広げられていた。
「ねえ、あなた。今日の紙面、なんだか変なのよ」
由香里が眉をひそめて紙面を指さす。彼女の指先は、家事に追われる日常のせいか、少し荒れていた。
「変って、何が?」
「これ。文字が……全部、裏返しなの」
俺は眉をひそめ、新聞に目を落とした。確かに見出しから本文に至るまで、すべての文字が鏡文字のように反転している。
印刷ミスだろうか。こんな初歩的なエラーを全国紙が出すものかと苦笑した。
「製版のトラブルだろ。珍しいこともあるもんだ」
俺は裏返しの文字を頭の中で反転させながら、見出しを拾い読みした。
『○○氏、知事選に出馬表明』『近郊で謎の地鳴り観測』。
内容はごく普通のニュースだ。俺は気にせずコーヒーをすすり、出社のために立ち上がった。
だが、違和感はそれだけでは終わらなかった。
駅へ向かう道すがら、街の至る所で「違和感」が芽を吹いていた。
交差点ですれ違った老人が、左手に持った犬のリードを右手に持ち替えた。その動きがあまりにもぎこちなく、まるで右手を使う練習をしているかのようだった。
駅前のカフェの看板。いつもは右側にあったロゴが、なぜか左側に配置されている。
(……俺の疲れが溜まっているのか?)
連日の残業で視界がおかしくなっているのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、会社へと急いだ。
オフィスに着くと、後輩の木村がデスクで頭を抱えていた。
「佐伯さん、見てくださいよこれ。今日の書類、全部フォーマットが左右反対なんです」
「木村、お前もか?」
「え? 佐伯さんもですか? なんか今日、世界全体が左利きになったみたいで気持ち悪いですよ」
木村が引きつった笑いを浮かべながら、左手でペンを握り直した。
彼は生粋の右利きのはずだ。なぜ左手で書類を書こうとしている?
その時、胸の奥で冷たいものが芽生えた。
妻の荒れた指。老人のぎこちない手つき。木村の不自然な動作。そして、あの新聞。
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を見た。文字は普通に読める。だが、インカメラで自分の顔を映した瞬間、息が止まった。
俺の右頬にあるはずの小さなほくろが、画面の中では左頬にあった。
俺は恐怖に駆られ、今朝の『東都新聞』をカバンから引っ張り出した。
デスクの上に広げる。鏡文字で印字された紙面。
俺は急いで、手元にあった手鏡を取り出し、新聞にかざした。
鏡に映った新聞の文字は——完璧に、正しく読める日本語になっていた。
『世界反転現象に関する緊急報告』
鏡の中の紙面に踊る見出しに、心臓が跳ね上がった。俺は震える手で、鏡越しに本文を読み進めた。
『本日未明、地球規模の空間屈折が発生。我々の住む三次元領域は、物理的に「裏返し」となった。住民の肉体、建築物、環境すべてが左右反転した状態へと移行している』
『なお、紙面印刷機のみが旧空間の物理法則に固定されていたため、本紙の文字のみが「反転していない(=裏返しの世界から見れば鏡文字に見える)」状態で出力されている』
『住民諸君は動揺せず、反転した肉体に速やかに順応されたい』
頭が真っ白になった。
世界が反転した? 俺たちの肉体も、街も、全部がひっくり返ったというのか?
じゃあ、裏返しの新聞こそが、この世界で唯一「反転していない正しい物体」だったというのか。
俺は鏡から目を離し、自分の手を見た。
右手をかざす。いや、これはかつて「左手」だったものだ。
俺の心臓は、今、胸のどちら側で打っている?
恐る恐る胸に手を当てた。ドクン、ドクンと鼓動が響くのは、右胸だった。
ぞっとするような冷気が背筋を駆け抜ける。
俺も、妻も、木村も、街の人間全員が、気づかないうちに中身ごと裏返されていたのだ。
「佐伯さん? どうしたんですか、そんな顔して」
木村が覗き込んできた。
よく見ると、つむじの巻き方が、昨日までとは逆になっていた。
「いや……なんでもない」
俺は力なく答えると、鏡文字の新聞を静かに折りたたんだ。
外を見ると、太陽がゆっくりと昇っていた。
いつもと変わらない美しい朝焼け——しかしそれは、西の空から昇っていた。




