エルニーニョ現象が呼んでいる
太平洋の向こう側で「エルニーニョ現象」が発生したというニュースが流れたのは、どこか遠い国の出来事のように思えた。
画面の向こうのキャスターは、海水温の上昇が世界中の気象を狂わせると神妙な顔で語っていたが、この部屋を満たす穏やかな空気には関係のない話だった。
ただ、小さな違和感は、その日から少しずつ室内に滲み出し始めた。
「なんだか最近、家中がジメジメしない?」
妻の真理子が、呟いた。
確かに、真理子の肌も、ここ数日は妙に湿り気を帯びていて、触れ合うたびに肌と肌が吸い付くような重みがあった。
エアコンの除湿ボタンを押しても、湿度は下がるどころか上がっていく。
「変ね……。エアコンが壊れたのかしら」
真理子が首をかしげる。
その声には、日々の生活がほんの少しだけ歪んでいくことへの、かすかな焦燥が含まれていた。
違和感は、僕自身の体にも現れ始めていた。
最近、背中から腰にかけての関節が重く痒い。
まるで皮膚の下で、これまで眠っていた古い記憶の節々が、じわじわと体温を得て蠢き出したかのような感覚だ。
喉もやたらに乾く。
冷水をいくら飲んでも、体内の奥深い渇きが癒やされることはなかった。
ある夜、真理子が寝息を立てた後、僕は暗闇の中で自らの指先を見つめた。
指と指の間の皮膚が、心なしか引き伸ばされ、薄く透けているように見える。
呼吸を吸い込むたび、空気中の過剰な水分が肺ではなく、全身の毛穴から直接身体に流れ込んでくるようだった。
地球の裏側で温められた巨大な海水。
その熱と湿度のゆらぎが、目に見えない脈動となって大気を伝い、この小さな木造住宅の寝室にまで到達している。
僕の体の奥底で、何かがその熱に呼応して目覚めようとしていた。
翌朝、異変は決定的なものとなった。
目を覚ますと、部屋の床一面にうっすらと透明な水膜が張っていた。
真理子は驚きで声を失い、呆然と佇んでいる。
「水漏れ……? どこから?」
彼女が怯えた目で僕を見た。
その瞬間、僕は悟ったのだ。
水漏れなどではない。
溢れ出しているのは、僕自身からだった。
背中の痒みが激しい歓喜へと変わり、皮膚がぴりりと裂ける。
中から滑らかな、美しく冷たい皮膚が滑り出した。
喉の奥で詰まっていた言葉は、人間に理解できる音ではなく、潤んだ水鳴りとなって漏れた。
そうか。
僕たちの先祖は何万年も前、陸に上がる際にこの体内に「太古の海」を閉じ込めたのだった。
地球規模の海水温上昇——エルニーニョの波動が、僕の血の中に潜んでいた遥かな記憶を呼び覚まし、胎内回帰ならぬ海還りを促したのだ。
僕は脱ぎ捨てた人間の皮を床に残し、驚愕に目を見開く真理子を見つめた。
言葉はもう出ない。
けれど、静かに波打つ僕の濡れた瞳孔は、別れの愛を告げていた。
僕は滑らかな下半身をうねらせ、満ちあふれた部屋の水たまりを滑るようにして、開いた窓から外の雨へと踊り出た。
遠い大海原からの呼気のエルニーニョに誘われ、陸の生活を終えた一匹の巨大なウツボとして、僕は街を流れる濁流へと還っていった。




